26/望んだものは-7






 目をうすくひらいてみると窓からは眩しいほどの太陽の光が部屋に差し込んでいる。ああ、気持ち良さそうな天気だなぁ、とレッドは思うが、思ったよりも身体が重くてなかなか起きあがれない。体中が軋むように痛んだ。

「レッド……」
「ああ、ぐりー、ん?」
「……心配、させるな」

 いつもの余裕そうな表情はどこへやったのか、グリーンはひどく顔を歪めてベッド脇に腰掛けていた。ずっと手を握ってくれていたのだろうか、グリーンの両手に包まれた自分の手のひらがほんのりとあたたかくてレッドは心地よく思う。どことなくぼんやりとしていて、グリーンの言葉をすぐには飲み込めないまま、少し首をかしげて見せる。どうして目の前の彼はこんな顔をしているのだろう。今日の自分は、とても気分が良いのに何を心配しているというのか。

「何度呼びかけても起きない、それにこんな状態だろう」
「こんな……?」

 何を言っているのだろう。レッドは重たい身体をゆっくりと起こしながら目を擦った。ああ、まだ眠っていたい。太陽のぬくもりの中でぬくぬくとまどろみに身体を浸らせたいという欲求が彼の足を未だに地にはつけない。
 グリーンの指先がレッドの鎖骨に触れるとくすぐったいよ、とくすくすレッドは笑うが、彼がいつも通りの表情を作るたびに、それにグリーンの表情はこわばっていく。

「ゴールドに、やられたんだろう」

 頭が重たい。ゆるゆると視線をあげてグリーンの視線を真正面から受け止める。

「ゴー?」
「いつまで寝ぼけてるつもりだ!」

 唇をがり、と噛んだグリーンが場の空気に耐えられず声を荒げた。彼の低い声が部屋の中の空気をびりびりと振動させるのを肌でレッドは感じる。どうして、どうしてグリーンがこんなにも怒り狂っているのか、レッドにはわからない。普段感情表現に薄いグリーンがここまで怒りを表現するのは珍しい。
 覚醒してきた頭で事実関係を繋げていく。グリーンが鎖骨に触れた理由、身体の重たさと軋みの理由、彼がひどく怒っている理由、そして、ゴールド。目の前の彼がそんなに女々しい性格の持ち主であるとも思わなかったが、まさかよりにもよってグリーンがそんな推測をするのか、とレッドは思わずへらりと笑ってしまう。

「ばかだなぁ、俺にこういうことをするのはお前だけだろ?」

 ――あれ、グリーン、いつ帰ってきたんだろう。
 混濁した記憶の糸の端を掴んでしまってはいけない。違和感に気付かない振りをしてレッドは拗ねた子供を諭すような声音をグリーンに向ける。
 お前だけだよ、だから大丈夫だと、傷ついた表情をする彼の顔が少しでもほぐれたらと。

「俺は、今日の朝方ここに着いた。その前にお前に会ったのはあいつがきた時で、あのときの傷が癒えるとほぼ同時に俺はお前から逃げるようにしてここを出たな」
「……そう、だったっけ」

 ――あれ、それならおかしい。
 じゃあいつ、この鬱血痕はついたのだ?とレッドの中で疑問が生まれる。昨日は何をしていた?ゴールドが訪ねて来て、話をして、泣きながら彼は謝っていて――記憶があいまいになっていく。いつ彼はここから去り、自分はいつこのベッドで眠りについた?

「待って、待ってくれ」
「あいつを、庇うつもりなのか」
「ちがう!」

 違うんだ、と言葉にしたつもりだったが、心臓の辺りが熱い気がして呼吸がうまく出来ずに、声はかすれてしまっていた。おかしい、おかしい、おかしい。なんだろうこの違和感は。だが今なにか言葉を紡がなければグリーンの気持ちは晴れることはない、寧ろ悪い方向に行くだけだ。それはわかっているのにどうして何も言えない?どうしてだ。レッドは焦る。そして、焦れば焦るほど言葉を失っていく自分に気付いているのに。

「た、確かにゴーは来てたんだ」
「やっぱり、あいつか」
「だけどこの前のこと謝りたいって、泣いてて……家にあげて、ココア飲んでて」

 記憶の糸を掴もうとしても掴めない。違和感を拭い去るには混濁した記憶を引きずりだすしかない。必死に昨日あったことを思い出そうとするあまり、レッドは気付いていなかった。グリーンの瞳がゆっくりと暗く陰っていくことに。
 考えればわかったはずだった。育ちのせいでグリーンは精神的に決して強い部類ではない。どちらかというとマイナスの感情にとらわれがちで、一つの感情につかまってしまえば逃げることのできない、振りはらうことのできないタイプなのはレッドが一番知っていたのだ。

「謝られて、お前のことだから許したんだろうな。そうやってまた求めらえたのか、庇ってるんじゃないならお前も同意の上で?」
「待てって、だから、そうじゃない……そうじゃないよグリーン」
「そうじゃない?これが、なんでもないとでも言うつもりかよ」

 首筋に落とされたグリーンの唇が震えている気がして、レッドは顔を歪めた。どうすれば解ってもらえるのだろうという思考ばかりが先行してしまい、自分自身の中にある"ゴールドとはなにもなかった"という先入観、それによってまた別の仮定に辿り着くことが出来ないことが何よりのレッドのミスだ。グリーンは自己完結をする。それは研究所にいたときから変わらない。人に相談することもせず、あらゆる仮定の中でおそらくそうであろうという選択肢の中にとらわれていくのだ。レッドはそんなグリーンを知っていた。だからこそ意固地になるし、彼の言葉を真正面から全部考慮してやることが出来なかったのかもしれない。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう。そう何度反芻したって答えは出てこない。根本的な問題を作ったのは自分たちであり、あの憎むべき場所であることくらいレッドにだってわかっていた。

「舞い上がっていたのは俺だけか」

 まるで抑揚のない声だった。グリーン、と小さく名前を呼ぶと同時にレッドから愛しい身体が離されていく。その、表情は。

「お前は優しい。人の傷も人の想いも全部受け止めて。抱きしめて。……でも、こういうことすら求められたら受け入れるとは思ってなかった」
「なあ、誤解してる、ちゃんと話を――」
「もう、いい」

 堅く握り締められていたグリーンの拳がゆっくりと解けていく。掌に強く残った爪の痕で彼の苦しみの大きさが少しでもはかれただろうか。力を失くした指先がひどく冷えてしまったことにレッドが気付くことが出来るわけもなかった。

「……わかったから、いい。ごまかさなくても」
「わかったって、何がだよ」
「俺は別に、いいんだ」

 ぞくりと背筋が粟立つ感覚からレッドは逃げることが出来ない。嫌な予感とそれが的中するのは確定的だと直感的に分かっていた筈だった。グリーンは、この状態になった時が一番、怖い。表情は苦しげに歪んだが、泣きだしそうでもなくどこか諦めを感じさせる。まるで無意識のうちの行動のようだった。おもむろにその右手が左腕に近づき、触れたと思えばぎゅうぎゅうと爪を左腕に食い込ませる。
 ――だめだ
 届かない、と。

「もう、お前を縛ったりしない。好きにしていい……俺が求めるからといって全て受け入れなくていい」
「な、何でいきなりそんなこと……本当に、何もないんだって! 覚えてないんだ……っ」

 グリーンは何も言わない。
 唇を噛み締めすぎて、ぶちりと感触がした。"覚えていない"というのが真実だ。レッドは覚えていない。何もわかってはいない。ゴールドとの関係を問われて必死に否定するが、夢から現に戻ってきたら夢が突然曖昧になるように、レッドにはわからないのである。
 そうも言っている間にグリーンの思考はどんどんと展開されていく。レッドが手を伸ばせば変わっただろうか。唇だけではなく、その身体が怯えに震えていることをはっきりと認識すれば、その身体を抱きしめれば――。だが、いまのレッドの腕はそうすることが出来ない。まるで、絡めとられているかのように重いのだ。絡めとっているのは誰の意図だっただろう。

「もっと早くに、気付いてやれていればよかった」
「え……」
「すまない」
「なんで、なんでお前が謝るんだ! 気付くってなんのことだよ、お前……絶対に勘違いしてる」
「勘違いなんてしてない!」

 大きく開かれた緑の目に見つめられては、その場からもう動けないと思った。

「知らずのうちに俺は、自分のしたことも考えずお前に求め過ぎていたんだな」
「そんなことない、俺は……俺はお前だから、それにお前以外にもうされないって言ったじゃないか!」

 レッドは優しい。その心はあたたかく、やわらかく、間違いは正す強さがある。全てが許される気がして、きっと甘えてしまっていたのだと、グリーンは思う。鈍感で、こうだと思ったら信じ切ってしまうレッドの優しさに付け込んでいたのはきっと自分だったのだ。

「こんな時まで俺を気遣わなくたっていい」
「グリーン!!」

 その叫びは悲痛すぎた。重たい糸を振りきって縋るようにその身体を掴んでももう遅い。どうしてなんでの疑問ばかりが答えを与えられることなく霧散していってしまう。
 グリーンの身体は、もう震えてはいなかった。

「ありがとう」

 やめてくれ、と叫びたかった。なんで笑うんだと詰りたかった。諦めるのかよ、とその腕を掴みたかった。だけどわかっていた。諦めさせていたのはレッド自身だ。
 グリーンの冷たい指先が、ゆっくりと力を込められたレッドの指先から力を奪っていく。離せ、という意思がはっきりと伝わってきてはそれ以上追い縋ることが出来ない。
 元々全てに絶望していた。3年間が幸せすぎただけだったと思う、とグリーンは自己完結することが出来たし、諦めもここまでくればレッドに笑ってありがとうと言うことだってできた。彼の優しさに甘えるのはもうやめよう、それがレッドの意思ではないのなら自分が求めているところからかけ離れ過ぎているのだから。

「俺はお前を傷つけてばかりだな」
「そう思うなら、そんなこと言うな……! 俺は、俺はお前にそばにいて欲しいから、それは押しつけとか、そんなんじゃないから……」

 泣くな、と困ったように眉を下げて笑うグリーンはいつもの彼と全く変わらないのに、お互いの心の間にある距離だけが確実に今までと違った。今までは触れ合うほど近いところに存在したのに今となっては手を伸ばそうと思っても何処にあるのかわからない。掴もうと思っても掴めない。

「お前が受けれてくれて、嬉しかった。救われたのは本当だ」
「グリーン!」
「また」

 背中を向けて歩きだそうとしたグリーンを掴みたくて、いま離れてはいけない気がしてレッドはベッドから降りようとするが、低い声がそれを遮る。来るな、と背中が言う。また、どうして、とレッドは目の奥が熱くなるのをこらえるのに必死だった。

「薬を、持ってくる。早くお前の身体を治す方法を見つけるから……それまで我慢してくれ」

 熱い雫が目尻から顎へと頬を滑り落ちて行く。泣いていることを見せつけてはまるで自分が姑息な手をつかってでも彼を取り戻そうとしているようで、それは許せなかった。呼吸を殺して声も殺して、音もなく泣いた。ただ、胸だけが痛かった。

「今度からはなんでもかんでも受けるなよ。もっと、自分を大事にしろ」

 崩れ落ちてしまうと、思った。だが、今の自分にはこの身体を抱きとめて支えてくれる腕はない。自分で握っていた筈のその手を離してしまったのだから。
 じゃあな、と小さく彼が呟くように言ったのを聞いた。きっともうグリーンは笑っていないとレッドが気付いていたのと同じように、レッドが泣いていることだってグリーンも解っていただろう。解っていたのに、抱き締めることが出来ないことを、彼は苦だと少しでも思ったのだろうか。

 月は、見えない。






2011.6.22
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