25/望んだものは-6






 もがけばもがくほど見えなくなってしまう気がするのだ。大切なものを守りたいと思っても強く握りしめたら壊れてしまうし、手のひらに乗せているだけではいつか風にさらわれてしまう。ゆるく握れば指の隙間から零れていく。
 その手に残す物は選んでいかなければならないというのだろうか。

 再び姿を現したゴールドは両目からぼろぼろと涙をこぼしていた。ごめんなさい、と縋りつくようにレッドの手を握る。ゴールドのその手はあたたかかった。
 グリーンは未だ帰ってきていない。一人で何をするか、と思案しながらも重い腰があがらず、ぼんやりとしていた時だ。こんこん、と控えめなノックの音が響いた。扉を開けたその先にゴールドがいた。ぼろぼろと泣き、言葉を喉から絞り出そうにも出せずにいる彼の姿を見ているとたまらない気分になってしまう。こうして研究所でも一人で泣いていたのだろうか、とレッドは胸が痛くなるのだ。ゆっくりその背中を撫でてゴールドをなだめながら家の中へ促し、自分は何か飲み物を淹れるからとゴールドを居間に残した。レッドは何も疑ってはいなかった。もうまっすぐ向き合うことに決めたその時から、ゴールドの言葉に耳を傾け、自分も伝えたいことがあると、それを語りかけようと思っていたのだ。自分たちには絶対的に理解が足りない、その為には話をしなければならなかった。

「ゴー、お前、ココアにミルク入れる?」

 ひょこりと台所から顔を出したレッドがそうゴールドに話しかけるが、ゴールドは何かを考えているようだった。ぼんやりとした様子でレッドの言葉に反応はない。

「ゴー?」
「え、あ……」
「ミルク、入れる?」
「あ、お願いします」
「ん、了解」

 へら、と笑ってみせるレッドの表情を見てゴールドは一体何を思ったのか。少しだけ顔を歪めたのをレッドは見ただろうか。

「おまたせ」
「ありがとうございます」

 おずおずと手を伸ばしたゴールドにコップを手渡そうとし、レッドがその手を離すとともにそれをきちんと受け止めていなかったゴールドの手がコップを取り落としかけた。多量にではないがココアが零れ、ゴールドの手にかかってしまう。その熱さにゴールドが思わず顔を歪め、レッドが声を上げる。

「大丈夫か、やけどしてないか?」
「多分……大丈夫っす」
「タオル持ってくるから、ちょっと待ってろ」

 慌てて背を向けて走っていくレッドの後姿を見つめた後、ゴールドは少し息を吐いて自分のズボンのポケットをあさる。ココアを浴びた手はじんじんと痛んだがそんな痛みなどゴールドにとっては今更大袈裟に言うほどのものではなかった。くす、と笑いをこぼして彼は零れていない、レッドのコップにそっと粉状の“何か”を混ぜこんだ。
 ちょろいな、と胸中で呟く。裏切りだと自分自身でわかっているが、それでも自分はこんなあたたかい場所にはいられない。心臓の辺りが痛んだ気がしたがそれすらもきっと気のせいだ。ひどく、胸元が重いのだって。

「大丈夫か……?」
「俺、そんな柔じゃねえっすよ」
「よかった。赤くもなってないし、すぐ痛みも引くと思うよ」
「なんで」
「え?」
「なんで、レッド先輩はそんなに優しくしてくれるんすか」

 大丈夫か、と声をかけられたのは何年振りだろう、とふいにゴールドは思う。どこまでも頭は冷静で、上っ面だけを繕っていく。レッドは人が好いから結局それを信じて自滅するのだ。
 ――そんな人の好さを好きだと思ったんだけどな。
 今は馬鹿らしくてたまらない、と。

「俺は、あんなにひどいこと」
「ごめんなさいって、お前は謝っただろ?」
「でも」
「……な?」

 レッドがそう穏やかに笑うとゴールドは押し黙り、少し量の減ったココアに手をかける。今度はこぼしちゃだめだぞ、とレッドが言うとゴールドも少しだけ困ったように笑った。それを見て少しほっとしたようで、レッドも自分の分のココアを飲み下す。

「あれ……なんか味、変じゃないか?このココア」
「へ?普通っすけど」
「そう?うーん、賞味期限切れちゃってたかなあ」

 そう言いながらもさして気にしてはいないらしい、ゴールドはどきりとしたがレッドは飲むのをやめたりはしなかった。
 何か話をしようと思うものの、レッドは言葉を紡げずにいた。何と言えばいいだろう、何から話せばいいだろう。もやもやとする胸中を全て吐露するには言いたいことが多すぎた。思考がゆっくりと溶けていく。コップがやたらと重い気がしてそれを置いた後、ぐーぱーと手を動かしてみる。
 ――なんだ、これ。


  * * *


「このことは、忘れるんだよ、先輩」

 ――何も思い出せない。
 なまぬるいような空気だ。ひどい夢を見たような気分にくらくらしながらレッドは目を閉じる。今は何も考えられない。身体が重くてたまらなかった。今すぐ、深い深いどこかに沈んで行けたらいいとレッドは思考を落とす。その先は、どこまでも暗い闇だ。
 レッドの胸が上下し、その呼吸が寝息に変わったのを感じながらゴールドはゆったりと動きだす。これは綿密に隠さなければならない。ゴールドがレッドのココアに混ぜたその薬は意識を混濁させるもの。目が覚めたレッドは今起こったことを何も覚えてはいないし、自分の言葉など思い出しやしないだろう。そしてきっとやさしい先輩はゴールドの所為だと疑わない。レッドの肌に散った鬱血の痕をなぞる。これを見たグリーンがどれほど絶望するかと考えるだけで鳥肌が立つほど興奮する、とゴールドは息を吐いた。
 ――なあ、お前も絶望しろよ。
 レッド先輩もあいつも、ゼロも、みんながみんなどん底まで落ちてしまえばいいと思っていた。そこで自分は笑ってやるんだ、報いだと。約束を破ったら悪いことが起きるのだと。
 包帯をほどいた赤黒い手首が疼いてたまらない。もう痛みは失せたはずの腕の傷はどこまでも醜くてゴールドは眉根を寄せる。だがゴールドはその傷に依存していたのだ。その赤に、その名を持つその人に。
 研究所の実験体と呼ばれる彼らはどこか精神的に異常をきたした人間が多い。研究者ですら病んでいたあの場所自体が病んでいるのかもしれない。薬物に依存し、自我を見失うことで生き続ける人間、人を殺める罪に苛まれて自傷をする人間、他の実験体に実験以外でも力をふるう人間。脆弱な人間の姿が凝縮された場所だ。よっぽどではない限り正常ではいられない。ゴールドとてそうだった。彼はその能力も精神力も強いかもしれない。だが、一人きりでは耐えられなかった。レッドに出会った彼はあたたかさを知り、あたたかさを知ってしまった彼は一人の冷たさに耐えられなかったのである。胸元や首元を掻きむしりたくなる衝動に襲われた時は自らを傷つけた。他の実験体には実験で負った傷の痛みを少しでも和らげるために他の傷を作るという人間もいた。だが、ゴールドはそれとは少し違っていた。
 彼は、胸の痛みを忘れたかったのだ。
 もう一人にしないと、一緒だと小指を繋いだその人はいつの間にか自分を置いていなくなってしまった。自分がどんなに必死になったとしてももうその人――レッドのいる場所にはいけない。会いたかった、行きたかった、生きたかった、だけど自分は行けない。一人になったゴールドは何度も研究所の中をさまよい歩いた。まるで誰かの面影を探すようにあの人がいた場所をたどっていく。
 ――れっどせんぱい、どこにいるの。
 自分が課せられているこの実験ですら、今までレッドが関わっていたものかもしれないと思うと愛せる気がした。笑える気がした。あの人と同じ痛みを知り、あの人と同じ時間を過ごしているのだと思えば。
 だけど絶対的に何かが足りない。どんなに実験で力を奮い、自分の身体の中に渦巻く“何か”を吐きだしたくてもゴールドにはそうすることが出来なかった。受け止める人間がいなければ、ならなかった。それは最も想う、その人じゃなければならない。

「うそつき、レッド先輩のうそつき、うそつき。……先輩の所為でこんなことになった」

 ――罪の意識を感じろ、自分に償え。
 そう何度も呪った。
 ゴールドはレッドの手をそっと握る。その手は三年前から変わらず、あたたかかった。どんなに乱暴に抱いても空虚なこの胸はそのあたたかな手を握るだけで満たされるのに。本当はゴールドにだってわかっていたのだ。だけどそれを今、理解してはいけない。
 自分が求めているものを、自覚しては生きていけないから。





2010.8.14
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