23/望んだものは-4






 今日は一人だけだ、と玄関の扉を閉めてからサトシは気合いを入れ直す。いつもはレッドやシゲル、ママと一緒に買い物に行くのだが、この日は違った。いつも一人で買い出しに行くと卵が割れてしまったり何かを買い忘れてしまったりと問題をひとつは発生させてしか変えることのできないサトシは、今日こそ成功させるのだと心に決めていた。
 歩き出してからごそごそとポケットからメモ帳を取り出し、買ってきてね、とママの字で書かれたものをなぞりなおす。

「たまごとキャベツと……」

 その時、サトシはにやりと口唇の端をつりあげて笑う人間がいたことに気付いていなかった。気配を消して彼はサトシに近づき、その背中に向けて、声を発した。

「よお、お出かけか?」
「うん?ちょっと――……え?」
「久し振り、だなァ、ゼロ」
「そんな……ゴールド!?」
「……気安く呼ぶんじゃねえよ」

 嫌悪を丸出しにしたその鋭い目で睨まれては、サトシはびくりと肩を震わせてしまう。ゼロという名前はもう随分前に捨ててしまったつもりだった。けれどまだ目の前の彼は昔と変わらない表情で自分を呼ぶのだ。それは、自分自身の過ちが未だに許されていないことと同義。

「でも……他に呼びようないだろ」
「へえ?自分が俺のことなんて呼んでたのかも覚えてないのかよ。それとも許されたつもりだった?おにんぎょうさん」
「あれはっ!!……もう、呼んじゃいけないってわかったから」

 だから呼ばないのだと、サトシは首を横に振る。研究所に数多に存在した実験体の人間たち。 "使い捨て"という言葉が指すのは特別だと認められたごく少数の人間を除いた全ての実験体のことであるということは研究員たちの中では暗黙の了解であった。当時、薬によって自我を奪われていたサトシは親しい人間以外を個として判断できないままに"使い捨て"と研究員に使い交わされるその言葉をまねて実験体をそう呼んだ。それはゴールドとて変わらない。

「なに……お前、普通になったつもりなわけ?あれだけの人間を殺して、他人の命をおもちゃにして、今では幸せに暮らしてます、って?」

 ゴールドを使い捨て、と呼んだ。その時、自分の頬を打って叱ったのはレッドその人だ。使い捨ての命はないのだと自分を諭したのも優しい彼だった。人には名前があるのだから、とレッドはサトシの頭を撫でてくれた。
 それでも、ゴールドはサトシを許しはしなかった。"サトシ"という名前があることを知りながらも研究所の中での通称である"ゼロ"と呼ぶことをかたくなにやめなかったのだ。

「なあ、次はいつあんな風に殺すんだ?次は誰だよ」
「もう……もう、そんなことしない!!」
「研究所はまだお前のこと、忘れてないぜ?」

 絡みついてくる視線は形を成さないのに身体を拘束してくるようだった。つりあげられた口唇が不気味で、本当は怖くて仕方がなかった。背筋にひやりと汗が伝う。

「そんなの、知ってる……あいつら、ここに来たから」
「それに俺がここにいるのもその証拠だろ」

 サトシの目が大きく見開かれてその視界に映るゴールドをまっすぐ射抜いた。なんでもないようにゴールドはキューで自身の肩をトン、トンと叩いている。

「お前たち特別実験体が脱走して俺だけ残って。そりゃもう、それまでの実験の量とは比にならないくらいの実験をこなしてきたんだぜ?……お前が、居なかった分までな」

 わけがわからない、とサトシはその場に呆然と立ち尽くした。まるでその場に縫い付けられてしまったように、ゴールドから視線すら外すことができない。

「てめえも知らなかったのかよ。それでのうのうと暮らしてたわけだ?」
「それは……っ!」
「知らないことは幸せなことだよなあ。自分の幸せがどれだけの人間を踏みにじって存在しているのかも知らないんだ。……うぜえなァ」

 いくら弁解しようと口を開いてもその間を与えられない。だが、時間を与えられたとしてもサトシに発することのできる言葉があったか、と訊かれてしまえば答えは否。

「ゴールドも……一緒に、あそこを出たんじゃない、のか?」

 心底楽しそうに、それでいて不愉快であるとでも言うようにゴールドの顔がゆがめられたのをサトシは見つめていた。

「お前と違ってレッド先輩やてめえら以外に知り合いも家族もいねえ俺が、あそこを出てどこに行くって言うんだ?あ?……頭が弱いのは相変わらずだな」
「ごめ、ん……」
「はっ!謝って何になるわけ?俺の代わりにあそこに戻ってくれるとでも?――ああ、それもいいかもしれないな?」
「それは!……できない」

 すうっとゴールドの目が細められる。

「居たくないのなら、ゴールドだってあそこから出ればいいんだ!そうだよ、だってこうやって外に出られるじゃんか!それならきっと、逃げるチャンスだって――」

 まくしたてるように、叫ぶようにサトシの口から零れる言葉をゴールドの呟きが制した。何を言ったのかが聞き取れなかったサトシは訊き返すが、肌でびりびりと感じるのは殺気だ。

「知ったような口きくんじゃねえよ、あそこがどんなところかも覚えてねえようなお前が!!」

 ゴールドの視線は、言葉は、まるで刃のようだ。鋭利なそれでサトシは身を裂かれて、ドクドクと血を流すような感覚すら覚える。こわいと思った。

「そうだよなあ、お前は昔から"特別"だった。俺たちがなんであそこから逃げ出せずにいたかもわかってなかったんじゃねえの?爆弾仕込みの首輪に縛られないで自由にふらふら研究所の中を歩いてたお前にはな!」

 じりじりと砂を踏み締めてゴールドはサトシに近づいていく。サトシは動かない――否、動けない。

「守られて、自分には何もできないおにんぎょうさん。人殺すことしかできない殺戮人形……俺はお前が大嫌いなんだよ、ゼロ」
「お、オレはもうゼロじゃない!誰かを殺したりするもんか……っ!!」

 見開かれた金色の瞳が暗い光を孕んでいるようで、サトシは絶対的に自分が踏みつぶされそうになるような気分を振り払おうと必死だった。サトシが声を荒げ、叫ぶように否定する様子を目の当たりにしながら、更にゴールドは追い詰めていく。

「さあ、どうだろうなぁ?……あそこにいた時みたいに殺すかもしれないぜ?笑いながら、今度は大切な人たちを、な!!」

 ゴールドの手の中で黒くくすんだ紫色の球が弄ばれるのをサトシの目が捉えた瞬間、感じたのは強い衝撃だった。感じたのは、足を踏み外して落ちていくような、浮遊感。

「せいぜい、いい夢見てろよ……おにんぎょうさんは、な」

 まるで呟くような、抑揚のないゴールドの声が遠ざかる。



 真っ暗なその空間には闇が拡がっていた。どこまでも暗いそこではなぜかとてつもなく不安になってしまう。きょろきょろと視線をさまよわせ、サトシは自分の足が何か柔らかいものに触れたのを感じた。ぬるりと靴が何か液体を踏む。

「え……?」

 自分の足元にはよく知った姿が転がっている。母親が、レッドが、グリーンが、オーキドが。皆一様に血を滴らせ、傷だらけの身体を地面に投げ出してた。

「君がやったんだ」

 背後から聞こえてくる。それに驚いて振り向くと自分がよく知るその声の持ち主はまるで能面を張り付けたような無表情でサトシを見つめていた。身体を緩慢な動作で動かして彼――シゲルはサトシへの距離を詰める。

「君が、君が殺した。君の所為だ」
「シゲル、何言って……殺したって……」
「レッドさんもグリーンさんもママさんも博士も……君が殺したんだ」

 にじり寄ってくるシゲルが怖くてたまらなくて、サトシは後ずさろうとするが、かかとに触れるその柔らかな感覚がそれを留めさせる。いっそその感覚すら、サトシの身体を震わせる要因であった。

「次は――僕を殺すのかい?」
「違う!オレは殺してなんかない!!」
「君だよ。サトシ、君が」

 サトシは拒むように耳に手を当て、叫ぶようにして目の前に広がる光景を否定する。こんなの嘘だ、有り得るはずがないと否定するために目をきつく閉じた。

「君がそんなことをするだなんて思ってもみなかった」

 どこまでも抑揚のないシゲルの声に泣きたくてたまらなかった。やめてくれと叫びたかった。

「違う、違う!!オレじゃない!オレは……、シゲル……?」

 その時ようやく気付いたのだ。シゲルの頭からたらりと流れていくその液体の赤さに。彼の顔面を伝い落ちていくそれは、自分が今踏みしめているその液体と同じものではないか。
 そして、どさりとシゲルの身体が崩れ落ち、身にまとった白衣が血液を吸って赤黒く変色していく。

「シゲル!!」
「きみのせいだ」

 触れようとした手は、シゲルの唇から零れ落ちたその言葉に遮られて触れることはできなかった。今、シゲルの冷たくなりつつあるあたたかさを知ってしまったら、現実だと受け入れざるを得ない気がしたからだ。
 君が殺したんだ、という声が何度も何度も反芻してサトシを蝕んでいく。

「ちが……違う、違う……オレは、殺してなんか……オレじゃない……!!」

 ぬるりとした感覚が拡がっていくそれすらも否定したかった。

「いやだ、いやだ……こんなの嘘だ……!!」

 ずぶずぶと足元が沈んでいく。泥沼にはまったように、自分がゆっくりと落ちていくのを感じた。地に伏せていた彼らも一緒に沈んでいくのがいやでも目に入る。

「ママ……!レッドさん、グリーンさっ……はかせ……!」

 ずるりと足元がなくなり、落下するのだということだけはわかった。

「あ……――シゲル……っ!!」



 足に力が入らなかった。座り込んだままガタガタと震える自分の身体を抱き、サトシは目を開いたときの世界の明るさを受け入れるまでに随分と時間を要した気がする。目に映るのはしゃがみこみ、自分に視線を合わせるゴールドの楽しそうに顔をゆがめながら笑うその姿だ。

「悪夢はどうだった……?」

 けらけらと笑うゴールドと目が合えば、その金色の瞳の中にはあの真っ暗闇が広がっているような気がしてサトシはまた泣き出しそうに息を荒げた。

「せいぜい、正夢にならないようにならいように、だな。だってお前は、おにんぎょうさんなんかじゃ、ないんだから……」
「……ち、が……にんぎょう、じゃな……」

 震えてしまって呂律すら上手く回らず、ちゃんとした言葉を紡ぐことすらできないまま、サトシはゴールドの瞳に孕む闇に怯えていた。

「一番の敵はどこのどいつなのか、まだなんで狙われるのか……ちゃんと考えなおせば?その弱い頭でもわかるだろ」

 まとわりつく視線があの液体の感触を思い出させる。サトシはぐっと目を閉じ、その視線から逃れるように更に身体を縮こまらせた。ゴールドにとっては願ってもない姿だ。滑稽でたまらなくて笑いだしたくてたまらなくなるが、それをこらえてにっこりと優しい笑みを浮かべる。

「せいぜい、目をそらして虚勢張ってろよ。それで守りたいものが守れるなら、な。――ああそうか、お前は守られてる方だったよな」

 目を閉じていてもわかる。至極楽しそうに笑顔を浮かべたゴールドの吐息が耳にかかり、その低く押し殺されたような声が鼓膜を揺らした。

「……自分の幸せが、たくさんの犠牲の上にあること……忘れんなよ」

 叫ぶ声すら失ったまま、サトシは衝動的にゴールドを突き飛ばし、立ち上がった。逃げ出したかったが、そんなこと、みっともなくて出来やしない。

「オレはあんなことしない、みんなを殺したりなんかしない……!研究所のやつらだって追い払ってやる!!」
「なら、俺が殺す。……ちゃんと守れよ?」

 震えが収まらない指先を、拳を作ることで握り締めてサトシは歯をくいしばるようにしてゴールドにやっとの思いで叫んだ。しかし返ってきたゴールドの言葉はあまりに残酷なもので、体感したばかりの悪夢の影を持った言葉だった。そして、それが意味するのは"敵対"という現実。

「おにんぎょうさんなんかじゃないって証明してみろよ……な?」

 暗い闇色をした球体を手の上で遊ばせながら、ゴールドはあくまで余裕そうに笑っていた。逃げ出したくなる衝動をこらえながらサトシはじっとゴールドを見つめ、対峙する。

「悪夢を忘れるなよ、ゼロ」

 そして背を向けたゴールドにサトシは何をすることもできなかった。反論したくても言葉が出ない。走り出して殴りたくても身体はその場所に縫い付けられたままだ。
 ゴールドの背中が視界から消えるまで、サトシはその背中から目をそらすこともできず、ただそこに立ち尽くしていた。





2010.2.10
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