20/望んだものは-1






 穏やかな時間が当たり前になってしまうことを恐れながら、それでも穏やかな日々を焦がれる心は避けられないまま、笑いながら三年の時を過ごすことなどすぐだった。光陰矢の如し、とは過去の偉人はうまく言ったことだ思う。
 それでも、そんな幸せな日々にも時々影が落ちる。ふとした記憶が胸を侵す時、相変わらずロケット団からの手が伸びる時、研究所の記憶が色濃く残る彼らの心は陰ってしまうのだ。

「どうもおかしい気がするんだ」
「なんだ、いきなり」

 いつも通り淹れたココアをすすってから机の上にマグカップを置き、グリーンはどこかそわそわとしたレッドへと視線を向けた。

「最近、どうも……あの場所からの刺客が来ないというか、本当に俺たち、要らなくなったんじゃないかと思うくらいで」

 確かにグリーン自身にも思い当たることはあった。この三年間、各地を飛び回っていたが、どこにでもロケット団の噂をついてまわるもので、未だに彼らが健在であることを知ってしまう。それにもかかわらず、自分たちには手が伸びてこないのは確かに違和感を覚えるものである。
 ――それに、未だに気にかかり続けることがある。
 目を伏せるとふとよぎる少年の影があった。未だ思い出すのは楽しそうに笑いかけてくる姿。未だに彼はあそこで生きているのだろうか。それとも――
 やめよう、と思った。この三年間、幾度となく思い出したことで、今でも何度も何度も考えてしまうこと。あの暗い世界でそれでも生きようと思ったのは彼が、ゴールドがそこにいたからだとグリーンは思う。だけど、自分はそんな彼を裏切った。絶望すら、与えてしまった。償えたらいいのに、と何度憎らしい月を見上げただろう。

「確かに、ロケット団の話をここまで聞かないのはマサラくらいだ」
「だろう?なんだか、変な気分になるんだ」

 へら、と笑ったレッドは少しだけ寂しそうな顔をしていた。

「いつまでもこんな時間が続く気がしてさ」

 そんなわけないのにな、とまた目を伏せたレッドは一体、何を思っていたのだろう。以前のグリーンならばわからなかっただろう。今ならわかる気がする、とグリーンはうなだれるレッドを見つめた。あまりにも幸せすぎる日々は人を臆病にさせるのではないかと思うのだ。昔、大切なものを失った記憶は色濃く、今ここにある存在まで全て失ってしまうのではないかと怖くてたまらない自分がいる。

「続けばいいのにって」

 大丈夫だ、と言えない自分がただもどかしかった。





「なあシゲル、今日の晩御飯なんだと思う?」
「じゃがいもににんじん、たまねぎ……ときたら?」
「カレーか!」
「そ。今日は美味しいカレーだよ?」

 意地悪く微笑んだシゲルを横目に、サトシは何の話だよ、ととぼけて見せればシゲルが笑った。本当に、笑うようになったと思う。穏やかに、楽しそうに、嬉しそうにシゲルは笑う。サトシはそれを実感するたびに胸がほっこりと暖かくなるのを感じて幸せだった。

「ママのカレーはいつ食べても美味しいからな!」
「本当にね。グリーンさんと一緒に作り方、ならったら?」
「だーかーら、その話はもういいだろ!」

 くす、と笑ったシゲルも話しか聞いたことはなかった。恐ろしいカレーというのをグリーンとサトシが作り上げたせいで胃が痛い、とレッドが青白い顔でシゲルにそう言った記憶はまだ新しいものだ。唇を尖らせ、そんなに言うことないじゃんかなあ、と肩に乗ったピカチュウに言葉を零したサトシを見てシゲルは目を細める。
 ようやく、自分なりの幸せをつかめる気がして、今はまだこの時間に酔っていたいと心底思いながら、シゲルは早く帰ろう、とサトシに声をかける。
 平和ボケをしているのは嘘ではなかった。けれど、そういった日常が本当は幸せで、当たり前なのだということを知ってしまった。暫くの間、愛刀を握っていない気がする、と自分のポーチに入れられた石の重さを感じたものの、そんなものはサトシの嬉しそうな声を聞いたらすぐ忘れてしまって、また二人でいつものように笑いながら研究所へ帰っていく。
 幸せはいつだって一時だと、そんなことは、もう二度と感じたくはなかった。










 とうとうこの日が来たのだ、と思った。
 鏡に映った自分はいつものあの、研究所の実験体服を着てはおらず、赤のパーカーと黄の半ズボン姿でそこにいた。真っ白な研究所内部の中ではなんだか自分がとても浮いた存在な気がして、くすぐったい気持ちになる。けれど、自分に下された命令はそんな気分を全て打ち砕いていく。
 忘れられない裏切りがある。忘れられない約束がある。

「行かなきゃ」

 ノイズ混じりの通信が部屋の中に響き、この部屋に帰って来ることがなければいいのに、とゴールドは祈るように胸元に手を当てたのだった。

「さようなら」

 ここで決別するのだ。自分は、あの笑顔をもう忘れなくてはいけないのだと。もう歩む道を違えたことを認識しなければならないのだと。この扉をくぐってしまえば、もう元には二度と戻れない。

「でも」

 ――ちゃんと、思い出してもらわなきゃ、ね。せんぱい。
 彼の表情は、備え付けられた監視カメラですらとらえることはなかった。




2009.11.19
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