27/望んだものは-8






 "誰か"の一番大切な人になれたら。
 自分という存在はどこまでも自分の思い通りになることはなく、人の言葉すらすんなりと受け入れることはできない。日の出や夕暮れを見ることもできない地下の研究所では、時計はあれど夜の訪れを肌で感じることは難しい。実験は終わったと言われれば確かに終わったのだろうが、実感することはできず途方に暮れていた。
 傷つけているという自覚に欠けていたのは事実だ。腕に1本、線を引くだけ、これで一日が終わるというはっきりとした線引きのための行為にすぎない。自分の中の"行為"の価値などそんなものだった。
 何度も重ねてつけられた傷を見た姉は何も言わなかった。今となったら、彼女は何も言えなかったのだろう。そう理解することができる気がした。だからあんなにも強く強く、自分のを抱きしめたのだろう、と。ごめんなさいと彼女は言ったが、それは自分の言葉じゃないかとグリーンは思う。
 傷と行為を目の当たりにした彼は――レッドはだめだ、と言った。悲しいと言ってくれた。いつしか自分は、彼のありがとうという言葉に救われていた。大丈夫だという言葉を享受することができるようになっていった。守りたいと思うようになった。
 この冷え切った手を握り、自分を暖かい場所に連れ出してくれた。
 もう、それだけで十分だろう。
 もたれかかるのはやめよう。罪悪感だけでつなぎとめる必要なんてない。どこも痛くないと思えば痛くないのだ。だけど彼の、レッドの傷を償おうと決めたのは自分だから、それだけは、それだけは果たさせて欲しい。
 レッドは優しすぎるから。自分がここにいて欲しいと留めさせることなどしてはいけない。足枷の自分はもうこりごりだ。

 これで終わり、これで終わるのだ。冷えた目でグリーンは自分の腕を見つめた。終わりを思い知ることができるように、何度も、何度もなぞるように切りつけながら。




 あたたかい日向にいるような夢を見た。陽の光の当たる窓際でまどろむ時間を過ごす。だけどそこには誰かが足りない。何かが足りない。レッドにはそれが何が足りないのかわからない。
 ココアの香りと誰かの気配。自分が探しているのは――

「っ、グリーン!?」

 視線を交わしたのは金の瞳だった。

「おはようございます、センパイ」
「ゴー……」
「飲みます? ココア。いっぱいあったから勝手に淹れちゃった」

 差し出されたマグカップは今朝、自分が洗いあげたものだった。その中でたぷんと茶色のココアが揺れる。その甘い香りはいつもなら笑っていられたのに、今では受け付けられないまま、せり上がる胃液を飲み込んだ。放っておけばかたかたと震えてしまいそうな指先をぎゅっと握りしめ、胸のあたりが重たくなるのを耐える。

「なんで……ここに……」
「用がなきゃ、来ちゃだめっスか?」
「そんな! ……そういう、わけじゃ」
「先輩、隈できてる」

 ゴールドの表情を真正面から見ることができないまま、目の下に伸ばされた手をレッドは弾いた。反射的な行動に驚いているのはきっと、ゴールドより自分の方だ。レッドは弾いたはずのゴールドの手に視線を投げる。
 どうしたらいい。溢れ出るばかりで吐露することのできない感情に唇を食んだ。
 触れたら許してしまうのだろう。真正面からその瞳を覗き、その奥に悲しみを見出してしまったら。
 ――俺はお前を傷つけてばかりだな。
 それでも、そうこぼした彼の横顔を思い出す。

「先輩?」
「……さわるな」

 どうしてこんなにも選び取れないのだろう。優先順位も何もわからない。何をどうすれば全て丸く収まるのかもわからない。自分が何をしたのか、何をしてきたのか。それすらもわからないくせにこの胸を占める、この激情はなんだ。
 目の前のゴールドにだけはぶつけてはいけないものだと、わかっているはず。

「どうしたんスか?」

 ベッドサイドテーブルにマグカップが置かれ、ゴールドが更に距離を詰めてくる。ぎし、と揺れるベッド。ベッドサイドから覗きこむようにゴールドの瞳がきらめいているような、囚われているような気分からは逃れられない。

「っ、ちかよるな、帰ってくれ……!」
「かわいそうな先輩」

 ふう、とゴールドが息を吐くのを肌で感じるほどの距離に、胸の奥から喉が焼けてしまいそうだと思う。呼吸もままならないようなこの衝動をどのように消化し、平静を保てばいいのか。
 レッドの脳裏にグリーンの姿ばかりがよぎる。歪められることも諦めてしまったような、表情のないその顔に自分は触れることもできなかったのは、自分の弱さ故だろうか。

「お前のっ……、いいから……出ていってくれ」
「先輩のせいだ」

 レッドの言葉を遮るように突きつけられたゴールドの声には迷いはなく、それはレッドの脳に直接響き渡るように、強い。
 足元をぐらぐらと揺さぶられるような感覚と感情的になった血の昇りきった頭のせいで焦点をどこに結べばいいのかもわからない。そうなってしまえばますます過去の出来事から離れられなくなっていく。研究所。ゴールド。グリーン。マサラでの生活。
 幸せだと勘違いしていたあの時間の中に生きた自分の視野の狭さのせいで、どれほどの人を踏みにじってきたのか、それを自覚してしまったらこの息は止まってしまう。
 窓の外は眩しいまでに晴れているのに、一歩中に入ったこの部屋の中には濃い影がおりる。
 それは自分の幸せと誰かの不幸のようではないか。

「なんで俺のせいなの? 全部先輩のせいなのに」

 言葉は刃だ。レッドはぶるぶると震える身体を自身の両腕で抱きしめることすらできない。

「先輩、なんで先輩は俺のせいだと思ったの?」

 ゴールドのくちびるはくすくすと、その場にそぐわない笑みを漏らしていた。
 蛇が獲物に巻きつき、その息の根をとめるように、己の手に落ちてくるのを待ちわびるように、ゴールドは絶妙にその距離を詰めてくる。
 レッドの頬に、ゴールドのあたたかい手が触れた。

「お前が悪いわけじゃない、わかってる……だけど、グリーンが……お前と、何かあっただろって……だから」
「先輩、みーんなに優しくしようなんて、無理なんスよ?」
「別に俺は、そういうわけじゃ」

 高ぶったはずの感情が、ゴールドの優しげな声音によってどんどんと萎んでいく。迷いをなくしたはずなのに、次の瞬間には迷いに身を浸しているような感覚だ。
 添えられた手によって上げられた視界に映ったのは、レッドが見たこともないような、ゴールドの姿。心底楽しくてたまらないという彼の感情が、恍惚としたその表情からはわかってしまう。

「すっかりやつれちゃってさ……こんなになるなら…はじめっからW-18を信じとけばよかったのに」
「そう、だけど……けど、ホントに、疑われるようなことなんかなかった、だろ?」
「先輩って本当にお人よし。ま、そのお陰でこーやって先輩の可愛い顔が歪むとこ、見れたんだけどさ」
「ゴー、もう出ていってくれ……じゃないと、また八つ当りするかもしれないから」

 目を合わせて話せば少しだけ冷静になれた気がして、レッドはゴールドの手を振り解こうとした。が、ゴールドの手がその手首をつかみ、空いた手がレッドの顎を捉える。
 触れたところから急激に熱が奪われていくようだと思う。唇を重ねられ、離れるときにはそっと舌が這う。

「やだ、って言ったらどうしてくれるわけ? ……どうもできないよね、優しくて可哀相な先輩は。はは、本当にかわいそう。先輩があいつのこと信じなかったから、あいつはまた心を閉ざして人形に戻るんだ」
「ち、が……信じなかったわけじゃ……」
「やさしー先輩のことだから、俺のこと庇ってくれたんだろ? 先輩ってさ、カッてなると冷静に判断できないタイプ? あいつの話にちゃんと耳、傾けた?」
「庇う……? でもお前はあの日謝りに来ただけで、何も……」
「先輩はあいつを選ぶなら俺を家に入れるべきじゃなかったんスよ。あいつ、おかしいって言わなかった? こんなの、知らない、ってさ」

 ゴールドの唇は下降し、レッドの首筋に触れた。言葉の意味を飲み込むのに数秒、頭はわかってはいけないと警鐘を鳴らす。

「……まさか……うそだ」
「どれが嘘かなあ? 間違い探しの答え合わせをしなきゃ……ね?」

 靄がかった記憶をたぐり寄せることができたのは、信じていられたからだ。

「お前は、だって、謝りにきて……それで」
「それで?」
「俺が、寝ちゃって……?」

 ゴールドの目尻に浮かぶ涙がきらめいたのを見ていた。自分の知る姿からは成長したとはいえ、まだ幼さの残る顔立ち。自分が許してやらなければと差し出した手。

「え……俺、なんで……寝ちゃったんだっけ……?」
「なんででしたっけ?」

 今度こそ、レッドはゴールドの指先を拒めなかった。頬を撫で、顎をとらえた指先はレッドの体温を奪ってほんのりとあたたかい。

「し、知らない……」
「違う。先輩が知らないわけない」
「しらない……わかんない、覚えてない!」
「嘘だ」

 今すぐ音を遮断できたら。突きつけられた刃を拒むようにレッドは両耳を塞ぐ。
 水の塊を飲み込んでしまったようだった。感情の奔流に飲まれて呼吸すらままならない。感情が現実に追いつかない今はまるでこの心すらゴールドに触れられ、弄ばれているようにしか思えなかった。酸素を失った身体がどんどんと重たくなっていくのを感じているのに、まるで自分には何もすることがありはしない。

「先輩は俺にココアを出してくれて……俺はそれをこぼしちまった。なあ、先輩」
「やめ、」
「逃げたらあいつは帰ってこないぜ?」

 ゴールドの手つきは優しく、それでも込められた力は強い。耳を塞ぐその腕を引き剥がし、レッドの身体をシーツに縫い付けた。

「『先輩さあ、ほんと、やさしーよなあ? ちょーっと謝ったくらいで警戒といちゃってさあ……?』」

 指先に伝わるかすかな震えが自分を高揚させる。その絶望に染まった顔。薄く開かれた唇。
 ずっとこの瞬間を待っていた、とゴールドは息を吐きだした。

「せーんぱい。ねえ、こっち見て。目をそらさないで」
「やだ……ッなんで、そんな事言うんだよ……お前は、謝りにきてくれたんじゃないか、なのに、何で!」
「『なんで俺が謝らなきゃいけないのか、俺、全然わかんない』」

 あは、とゴールドが笑った。その瞳の奥、光すらささない暗闇を見る。あの頃にはなかった筈の闇はこのたった数年ですっかり彼を飲み込んでしまったのだ。
 掴まれた腕が熱い。焼けるようだった。

「先輩の、一回信じちゃったら信じ切っちゃうところ、ホント大嫌い。だけど大好き、愛してる」

 言い聞かせるような、祈るような、嘲笑うような声は目の前に居るはずの存在を遠く遠くにやってしまう。
 手首から指先へ、目の奥まで、熱くてたまらなかった。それは渇きに似た熱さのはずなのに、視界が歪むのはなぜだっただろう。

「なんだよそれ………どういう…わかんない、わかんないよ、ゴー……じゃあどうしろって言うんだ、信じるなって?」
「さあ? それは先輩が決めることだろ? 信じすぎて優しくなりすぎてうそつきになんかに、なっちゃだめっスよ、せんぱい」

 グリーンの姿が脳裏をかすめる。表情をなくした彼の姿をレッドはどう追っていけばいいのだろう。ゴールドの言葉が胸に刺さる。自分は一体誰に真摯になれた? 全てをはぐらかし、柔らかい毛布に包み、見えないふりをして、忘れて。

「なあ、信じさせてそれを裏切ってるってさ、どんな気分? 俺の腕の傷もその証拠なんだぜ?」

 本当なら、きっと今、涙を流すことすら間違っている。行き場をなくした言葉が涙になって溢れてしまったのだろうか。レッドの目尻からは雫が伝って止まらない。

「ね、先輩、思いだしてくれた?」
「……ゴー、……ごめ、俺……」
「……先輩が泣いてるの、俺初めてみたかも……嬉しい」

 ゴールドのカサついた唇が目尻に触れる。
触られた場所は、もう熱くはなかった。

「っく、う…っ……」
「一緒に堕ちて、先輩……俺を一人にしないで」




 "誰か"の一番大切な人になれたら。
 届かない太陽のような人に手を伸ばしても、溶けることのない翼があったら。
 この仄暗い奈落からではもう、あなたの姿すら見えない。






2014.6.18
<< | ×