08/暗雲-2






 視界の端でピカチュウの耳がぴくりとはねあがるのを見て、サトシが目を覚ましたことに気づいた。雷に打たれて以来、もう三日も眠り続けていた彼の状態は日に日に良くなっていくとはいえ、目覚めなければ元も子もないことだ。この三日間、シゲルは研究の合間合間を縫ってはサトシの様子を見、不安げにため息をついていた。そして、サトシの横でシゲルよりも更に不安げな顔をしたピカチュウの頭を撫で、シゲルは身じろぎしたサトシを見つめていた。

「ピカピ!!」
「大丈夫かい、サトシ…?」
「……ピカ、チュウ…シゲル…?」
「っ、よかった…」
「…なんでオレ、寝てんの…?」

 まだ目覚めたばかりで頭が働いていないのだろう。もしくは雷の衝撃であの時の記憶が一時的になくなってしまっているかのどちらかだ。後者の確率が高いだろうな、とシゲルは思う。覚えているのなら彼がこんなに大人しくしている筈はない。初めて研究所で目を覚ましたあの日のように飛び起き、逃げようとしただろう。

「覚えて、ないのかい…?」
「うん……あちこち痛いけど…」
「…君は雷に打たれて三日も眠ってたんだよ」
「雷…?ていうかシゲル、俺よりお前の方がひどい顔して、…――!!」

 サトシは不安げにシゲルの目の隈に手を伸ばそうとし、そして頭の中でちらちらと記憶が燻るのを感じた。酷い雨とずぶ濡れの白衣、悲しそうに鳴くピカチュウと――

「サトシ?」
「な…なんで俺、戻ってきてるんだよ…」
「え…?」
「実験ならいやだって言っただろ!?」
「……ごめん。実験なんて、もう言わないよ」

 ピカチュウをぎゅっと抱き締め、サトシはシゲルの言葉にうなずこうとはせずに大きく首を振っては拒絶した。自分は、一番してはいけなかったことをしたのだ、とシゲルは項垂れる。研究のことになるとすぐに前しか見えなくなる。これじゃあ、彼も自分も嫌悪している筈のロケット団の研究と何も変わらないではないか。

「…信じ、られない…よね。当たり前か…」
「……」
「ごめん」
「…っ、え…」
「博士に、君が起きたって言ってくるよ」

 ピカチュウが困った顔をしている。そうさせたのは誰でもない自分だとサトシは解っていた。でも、でも怖かった。ピカチュウがいじめられるのも、自分が痛い思いをするのも大嫌いだったから。
 シゲルが立ちあがる音に顔を上げると、思ったよりもその顔が暗くて、寂しげでサトシは悲しくなる。じゃあ、全部守るためにはどうすればよかったんだろう?どうすれば笑っていられるんだろう。

「ごめん」

 そう後ろを向いたまま言ったシゲルは、一体どんな顔をしていたのだろう。

「…、なんなんだよ…っ!!」

 自分に非があるのもわかっている。でも、自分だけが悪いわけではないとも主張したかった。でも、じゃあ他の誰が悪いんだろう?ぐるぐると思考がもつれていく。何を責めていいのかもわからないまま、サトシはピカチュウに顔をうずめる。ピカチュウはチャー…、と鳴いてサトシの手を小さく撫でた。今の自分では声を届けることもできない。それがピカチュウにできる唯一の術だったから。

「おお、サトシ!」
「っ!はかせ…」
「具合はどうかの?」
「……」
「…サトシ?」

 ばたん、と扉が開く音がしてシゲル、とサトシは顔を上げるがそこにシゲルの姿はなく、オーキドがぱたぱたと歩いてきたところだった。オーキドの態度は数日前と依然変わりはなく、心配したのじゃぞ、と笑うその目元も優しい。しかし、サトシはうまく応えることができなかった。信じてもいいと思っている筈でも、それでも考えとは相反する言葉ばかりを吐いてしまう。俯いたまま、ぼそりと呟くようにサトシは言葉を落とした。

「………博士も実験、する気なんだろ?」
「何?」
「だって、シゲル、しようとしたもん。…博士もなんだろ」
「…シゲルが?ああ…導術のことか…」
「……」

 困ったように眉を下げ、オーキドはピカチュウをぎゅっと抱きしめているサトシを見ていた。脇の椅子に腰を落ち着かせ、深く息を吸い込む。

「シゲルが嫌なことを思い出させてしまったの…すまん」
「あ、あ、謝ってなんていらない…!!」
「しかし傷つけたじゃろう?…シゲルも、悪気があるわけではないんじゃがな」

 もし悪気があってのことであるのなら、三日三晩殆ど眠らずにサトシのことを気にしてはいなかっただろう。そうである自分を振り払おうと、サトシの近くにいないときは自分の研究に打ち込みはしなかっただろう。日に日に悪くなっていく顔色に、いつシゲルが倒れるだろうとこちらが心配していたくらいだ。

「…シゲルは町を守る使命があるからの、強く在らなければいけないと思っとる上に、そうあろうとしとるんじゃ。そのために導術の研究をしているから…気を悪くせんで欲しい」
「……っ…」
「サトシ、まだシゲルを許せんか…?」

 口をぱく、ぱくと動かしてもなかなか想いが言葉にならない。許せないわけはない。嫌な思いをしたのも、少し怖かったのも本当だ。でも、あんな、悲しげな顔を見てしまったら許さざるを得なくなる。ピカチュウを抱きしめたまま、サトシは胸の苦しさの意味を考えていた。

「……シゲル、疲れてた」
「…ん?」
「すごく、心配そうな顔して…隈、作ってた」
「……寝ずに君のことを看病していたからの…」
「寝ずに…?」
「ああ、あんなに取り乱したシゲルは久々に見た」

 やっぱり、と思った。シゲルの隈の理由。自分が眠っているあいだの繋ぎの研究をしていたのか、また自分が目を覚ましたら自分のことを研究材料として扱うのではないだろうか。そうも考えたりはした。でも、きっと違う。そうだったら目が覚めた時にシゲルは自分の横にはいなかっただろう。シゲルは、自分の心配をしてくれていた。それはあの研究所にいた研究員たちとの決定的な違い。自分を"サトシ"として扱ってくれている何よりの証拠。

「…君のおかげじゃ」
「え…オレ、の…?」
「そうじゃよ。……シゲルは、前まではあんな顔、できんかったからの」
「……っ…」
「シゲルを変えたのはサトシ、君じゃ。…ありがとう」

 泣きたくてたまらなかった。自分がみじめで、愚かで、サトシは苦しくてたまらなかった。どうして信じることが出来なかったんだろう。どうして、どうしてあの泣きそうな顔をしていたシゲルを引きとめて謝れなかったんだろう。後悔はどんなに思っても尽きることはない。苦しくて仕方がなかった。

「けど…けどオレ、シゲルのこと傷つけた…」
「それはシゲルも同じじゃよ」
「……だけど…、シゲルは謝ってくれたのに、オレ、謝れなかった…!!」
「…なら、今から謝ればいいじゃろう?」
「……でも…シゲル、どっかいっちゃったし」

 抱き締められる腕がゆるみ、ピカチュウは身体をサトシの方へ向けて、不安げにサトシの顔を見上げた。サトシは悔いているのだろう、シーツをぎゅっと握って俯いていた。やれやれ、と少し苦笑いしたオーキドは俯いたサトシの頭を撫でた。

「シゲルならそこにおるぞ?のう、シゲル」
「…!」

 そう言ったオーキドが視線を移した扉がゆっくりと開き、中に入ってきたのは確かにシゲルだった。少し気まずそうに戸惑いまじりに歩を進める少年を見ながら、サトシはそれ以上に戸惑っていた。話を聞いていたのだろうか、今謝らなくちゃいつ謝るんだ、どうしよう、どうしようと頭はぐるぐると必死に答えを探している。

「あ…うー……」
「…?」
「……、なんで…お前、そんな隈作るまで無理してんの…」
「え…?」
「オレより酷い顔してるじゃんか…」
「…そうかな?」
「そうだよ!ちゃんと寝ろ、ばか!」
「う…ごめん……」
「隈とか!似合わないし!!」
「前はよく作ってたよ?」
「でも似合わない…」

 自分でも何を言ってるのかわからなかった。こんなことが言いたいわけじゃない、もっと言いたいことがあるはずなのに、なんでこんなあまのじゃくな言葉ばかりが口から出るんだろう。もっと、もっと素直な言葉を言わなくちゃ。

「……だから、その…――ごめん」
「なんで、君が謝るんだい?」
「だ、だから!……きず、つけたし…疲れさせたし…」
「傷つけられてないよ?」
「…うそだ」
「……ちょっとだけ、傷ついた」
「…だから、ごめん」
「僕も、ごめん。…生きててくれて、ありがとう」

 素直に、素直に。そう頭の中で唱えながらサトシは絞り出すように言葉を紡ぐ。シゲルは胸の辺りから指先までがあたたかくなっていくような感覚を覚えた。ただまっすぐ素直に伝えたかった言葉が、思うよりも先に口からこぼれ出た。サトシは、そのシゲルの言葉が心底意外だった。まさかシゲルがそんなことを言うとは思っていなかったし、こんなにきれいに笑うなんて思ってもみなかった。ただ、ただ嬉しかった。

「…へへ」
「嬉しそうだね、君」
「おう!……ってことで、シゲル、寝ろ!」
「話が繋がってないよサトシ…」
「だって、隈!!」
「…あー…」
「ほら、ベッド使ってもいいぞ!」
「……」

 もぞ、とベッドから出ようとしたサトシを引きとめるようにしてつかんだその腕を見、サトシはきょとんとした顔でシゲルを見る。しまった、とシゲルは思う。この状況でなんて言えば彼は納得するのだろう。自室で寝ると言っても納得しないだろうから。悩んだ上で仕方なしにシゲルは笑い、自分にとってもサトシにとってもオーキドにとってですら意外な言葉を口にした。

「…サトシも怪我人だろ?一緒に寝ないかい?」
「!……オレ、もう平気だもん!」
「だぁめ」
「だ、大丈夫だって!二人じゃゆっくり寝れないだろ!」
「大丈夫だから、寝よう」

 どうやら思っていた以上にシゲルは強情らしい。もう譲る気はないのだろう、白衣を脱ぎ、布団の中に入ってきた。呆れたように笑うオーキドだが、内心嬉しいのを隠せない。まさか二人がこんな風に笑うとは。

「サトシ、寝てやってくれんかの」
「え、え?……う…ピカチュウも一緒だから、せまいと思う、ぞ?」
「うん、大丈夫」
「……じゃあ…ねる」
「ん、」

 あったかい、とサトシはまどろみ始める中でそう思う。あの人たちみたいに、やさしい。ぬくもりがここまでの育ってきた環境の中少なすぎた二人は安らぐようにしてゆっくりと目を閉じる。ピカチュウを挟み目を閉じる二人はともに疲れていたのだろう、次第に寝息が重なるようになり、オーキドは微笑む。

「…よかったの、シゲル…」

 まだ幼い子どもたちが幸せな夢を見ることを、悲しい夢に記憶に苦しまないでいいように願った。




2009.4.20
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