07/暗雲-1






 シゲルが倒れた一件以来、サトシとシゲルの距離感が少しずつ詰まっていくのをお互いに言わずとも感じ取っていた部分がある。それでもまだ親しい、と言うには遠い。それでもサトシにとってみれば大きな進歩であったし、それは喜びを与えてくれた。友達という存在に恵まれてこなかった二人は、不器用なりに分かり合おうとしているようにも見えた。

「シゲル、呼んだー?」
「ああ。少し健康診断をね」
「けんこうしんだん?」
「そう。身体に異常がないかを調べるんだよ」

 シゲル自身が倒れていたこともあり、サトシが意識を取り戻してから数日が経ったことでサトシは随分身体的にも精神的にも回復したようだ。検査とはどういった類のものであれ、多少の体力消耗を伴うもの。目覚めてすぐの検査は体調を損なう原因になりかねないとシゲルは考えていた。一方サトシはといえば、もうすっかり体調もよく、屋内に居続けては身体が鈍りそうだとなんとか運動する術はないものかと思っており、ピカチュウとはずれの森へ遊びに行こうかと画策していたところだった。

「別に何もないぜ?」
「それは診断しないとわからないよ」
「だって具合悪いとか、そんなこと全然ないし!なっ、ピカチュウ!
「ピッカ!」
「病気が隠れてるってこともあるんだよ。痛いことはしないし…すぐ済むから。ね?」

 あくまで元気だと主張するサトシとそれに同調するピカチュウを苦笑しつつ、シゲルは机の上にある紙の類を少しまとめたりしながら準備をしているようだった。サトシはほんの少しだけ、顔をゆがめる。シゲルは時折しか着てはいなかった白衣を今日は身につけている。そこに居るのは確かに昨日の少年なのに、ひどく記憶をくすぐられたような気すらして、サトシは胸の中がざわざわと疼くのをぐっとこらえた。

「……検査とか、あんまり好きじゃない」
「…ん?」
「なんでも、ないよ」
「そう?…じゃあ、座って」

 気乗りしないらしい、おずおずと示された椅子に腰掛け、サトシはシゲルへと向き直る。やっぱり、白衣は嫌いだ。研究所の研究員を思い出さずにはいられなくなるから。なるべくそれを視界に入れたとしても気にしないよう、じっとシゲルの顔を見つめながらこれから行うという健康診断に意識をやっていた。

「…健康診断って、なにするんだ?」
「この機械で君の身体の内部の写真を撮ったり…小さい電流を流して様子を見たり、かな」
「……い…いたい、のか?それ…」
「いや。少しぴりっとするくらいだよ」
「そうなのか……?」
「そ。痛いことはしないって言っただろ?」
「……、…わかった」
「じゃあ、これつけて…」

 無機質な機械がカタカタと起動し初め、それへと繋がる線を頭、首、両手首、両足首、左胸へとつけられていく。その重さを感じるたびにサトシの心はずっしりと石を詰められているかのように重くなっていく。この感覚はよく知ってる。だからこそ嫌悪を感じるのを止められない。いやだ、いやだ、いやだいやだいやだ。みんな同じことを言うんだ。痛くない、大丈夫だから。でも始めたらみんな豹変したように怒鳴り始める。うるさい、だまれ、押さえつけろ――シゲルが、そうなったらどうしよう。

「じゃあ、力抜いてて」
「……」
「…こっちは異常なし、か…。あまり、動かないようにね」

 ぼそぼそと小さくつぶやきながら、シゲルはバインダーに閉じた紙に何かを書きつけていく。サトシはちらちらと先程から脳裏に浮かんでは消えている記憶を掻き消すようにぎゅっと目を閉じては開き、を繰り返した。
 小さな痛みを感じ、驚いてシゲルの方を見れば、まだモニターを見ながら同じように紙に書いているところだった。サトシの視線に気付いたらしい、シゲルは向き直る。

「…痛いかい?」
「へいき…」
「ピカぁ…」
「…大丈夫だって。シゲルがあいつらみたいなこと、するわけないだろ?」

 サトシの異変に気づいたらしいピカチュウは心配そうにサトシへすり寄る。まるで自分に言い聞かせるような声音のまま、苦笑いしながら拙い手つきでピカチュウの頭を撫でながら、サトシはシゲルの言葉を待つしかなかった。
 すると、シゲルの眉がぴくりと跳ねあがった。何か自分におかしな点でもあったのだろうか、とサトシはそわそわと落ち着かない。

「この力は……」
「……どうした?」
「いや……異常はないんだけど、体内の力の流れがちょっと妙で」
「ちからのながれ?……なんだ、それ」
「何て言ったらいいかな…導術を使う時の力がちょっと異質っていうか…雷なんて不思議な力だからか…?」

 導術。それは世界で多用されている自然の力を利用した力のことだ。普通、それらは"ほのおのいし""リーフのいし""みずのいし"そして、"やみのいし"といった石を使うことで初めて使うことができる。これらの石には階級のようなものがあり、純度が高ければ高いほど繰り返して使用することができる。勿論、純度が高いものは貴重なので市場で付く値段は一般人の手に届くようなものではないのだが。一回使えば駄目になってしまうような石は市場でも安値で取引されており、誰にでも入手が可能である。それを使えば、人間もポケモンと同じように炎や草、水を使用することができるのだ。だが、これを使用するにはそれなりの訓練や本人の特性というものが必要になる。人によってどの石を使うのが適しているのか違うのである。前述にある"やみのいし"は物自体は一般的であるが、適性者が極端に少ないため、日常の中で使われることは殆どない。
 サトシが使うのは雷。かみなりを扱うという術者などは未だかつて聞いたことがない。シゲルはその辺りに興味を持っていたところが実はあった。それは研究者故の探究心や好奇心、ロケット団の研究についての手掛かりといったところが要因であっただろうか。

「サトシ、少し雷を出してみてくれるかい?」
「え……いいけど、なんで?」
「この変な力の流れが何なのか、少し調べておいた方がいいと思うから…力、使ってみて?」
「…、……わかった」
「変化、しない……?」

 ばち、と昨日聞いた音と同じ、乾いた空気が弾ける音がして空気中に電気が生まれる。シゲルはモニターをじっと見つめており、サトシは不安げにその横顔を見つめていた。ざわざわと胸の奥が騒いでいる。この感覚は知っている。今までの研究員もこうやって自分に雷を出させてはモニターを眺めて検査結果を採取していたのだ。その研究員たちとシゲルは違うと頭の中で何度も繰り返す。

「…まさか、波導で……?」
「ど、どうしたんだよ?…お、オレ、どっか悪いのか…?」
「………サトシ、ごめん、ちょっと時間がかかるかも」
「…?」
「君の導術の力、少し調べてみたいんだ」

 顎に手をやり、ぶつぶつと何かを呟くシゲルの耳にサトシの言葉のどれだけが届いていたのだろう。サトシは少しずつ自分がイライラしてきたことがわかる。やっぱり白衣は嫌いだ。あれを着るだけで人が変わってしまう。やっぱりシゲルも、そうなんだ。

「……身体はどこも悪くないんだろ。なら、もういいじゃん」
「そうなんだけど…すこしだけ、駄目かな?たいしたことはしないから」
「ただの健康診断だって言ったじゃんか…調べるとか好きじゃないし、やだ」
「……うーん…」
「…な、なんで調べたいんだよ。別に普段と変わったとこないし、いいじゃん。……ピカチュウ、いこうぜ」

 ピカチュウに肩に乗るように促し、座っていた椅子から立ち上がろうとすると、シゲルがひょい、とサトシからピカチュウを取り上げた。ピカチュウは困ったようにサトシを見、サトシはピカチュウを取り上げられたことで募っていたストレスがさらに大きなものへとなっていく。

「ピカチュウ、返せよ」
「…あと少しだけ付き合ってくれたら、返すよ」
「……いますぐ返せ。今日はピカチュウと森に遊びに行くって約束してるんだよ」
「終わっても遊びには行けるから、ね?」
「ヤダ!いますぐ行く!!」
「少しくらい付き合ってくれたっていいだろ?」
「自分は全然付き合ってくれないくせに!そういうの、ふこーへーって言うんだぜ!」
「仕方ないだろ?僕は街の警備の仕事があるんだから」

 日中、シゲルはマサラタウンの警護を担っている。オーキドが目覚めた日にサトシに向けていった"街のガードマン"とはシゲルのことだったのだ。もともと、ポケモン研究の権威であるオーキドの研究を狙うものは多く、それが故に町が危険にさらされてはマサラタウンにとどまることは難しい。マサラタウンは人の手が自然に届いてない場所が多くある場所としてポケモンの研究には重要な土地なのだ。シゲルはオーキドの研究やその研究のための環境を守るために、マサラタウンを危険にさらすわけにはいかなかった。
 サトシが日中暇しているのは知っていたものの、シゲルにはそういった仕事があり、放置気味になってしまったのは確かだった。でも、この仕事を譲ってまでサトシの暇つぶしの相手をするわけにはいくはずもない。そこまで子どもでいることをシゲルは許されてはいないのだから。

「っ…だったら、オレだって約束してんの!だから付き合わない!!」
「………」
「ほら、返せよ!はーなーせー!!」
「ぴ、ピィカー…!」
「ピカチュウ、痛そうだよ?」
「!…お、お前が離さないからだろ!!」
「君が離さないからね」
「じゃあお前が放したら俺も放す!」

 シゲルに比べて、サトシは子どもだった。否、シゲルと比べてしまえば同年代の子どもはみな子どもだっただろう。終わらない口論に呆れたように溜め息をついたシゲルは、サトシがピカチュウをつかむ手を振り払い、いつかと同じように冷たく笑った。顔は優しく微笑んでいるのに、その放つ雰囲気はひどく冷たい。
 ――いやだ

「じゃあピカチュウにちょっと付き合ってもらおうかな」
「はぁッ?!ちょ、待てよ!どうしてそうなるんだよ!!」
「だって、サトシが付き合ってくれないから」

 追いすがるようにピカチュウを連れたシゲルの服をつかんだものの、簡単に振り払われてサトシは呆然とその背中を見ていた。
 ――やっぱり、きらい。そう言って次は、次はピカチュウをいじめるのか?

「……おまえも、」
「…?」
「おまえも、そういうこと、するんだ」
「………サトシ?」
「お前がやってるの、あいつらと同じことじゃないか」

 空気がぴりぴりと張りつめていくのを肌で感じ取れるほど、それは乾いた空気の中で充満していた。静電気、だろうか。サトシの表情は俯いているために見ることができず、シゲルは眉根を寄せてその様子をうかがうことしかできない。ただ、自分がしたことが彼の逆鱗に触れ、まずいことになりつつあることくらいは解った。

「お前も、ピカチュウをそうやっていじめるんだ。お前も――実験する気だったんだな」
「…え…」
「――ッ!!」

 空を切るような音がして、頬にひどい衝撃がきたのを感じた時にはすでに、頭がくらくらと痛んでいた。サトシがシゲルの頬を思い切り平手で打ち、ピカチュウを奪ったのだ。そのままサトシは逃げるように部屋から飛び出してく。

「あっ…サトシ!!」

 シゲルが叫ぶも遅く、サトシは後ろも振り向かずに走っていく。その先は、先ほど彼が行くと言っていた、マサラタウンのはずれの森だ。シゲルも急いでサトシを追いかけて走っていく。
 空には黒い雲が少しずつ現れ始めていた。



*****



 ピカチュウは心配する様にうずくまったサトシの脚に手をかけ、その顔を覗き込んでいる。サトシの目からは涙がとめどなく流れている。拭っても拭っても止まらない涙をサトシは嗚咽を漏らしながらもまだ拭おうとする。

「っ…う、……」
「ピィカ…」
「…みんな、おんなじなんだ……っ…シゲルも…」
「ピカ、ピカピッ…」
「実験とか…っ言うこと、聞かなかったら、お前いじめたりするんだ…っ!」
「ピカピッ…ピカチュ、ピカッ…!」

 サトシの目元をピカチュウの小さな手が触れ、涙を必死に拭おうとする。それでもサトシは構わずに苦しい気持ちを吐露し続ける。ピカチュウは悲しかった。もう自分の声はサトシには届かない。サトシとは話が出来ない。自分には一体何が出来るんだろう、どうしたら、どうしたらサトシの涙を止めることが出来るんだろう。自分の手はちっぽけで、何もできてはいない。サトシの悲しみを少しでも和らげることが出来たらいいのに。

「だって…同じだったじゃないか…。…………しんじてたのに」
「ピカチュ、チャー…」
「…このまま、二人でママたち探しにいこ」
「ピカッ…!?」
「……もう、シゲルのとこには戻んない」
「ピッ…!」
「…、……行こう」
「ピ、ピカッ…!」

 蹲っていた場所から立ち上がり、少しずつ歩きだす。ピカチュウはサトシをとどめようと必死で、その行く手に立ってはサトシを見上げ、しまいにはズボンにしがみついたりはしたが、結局は抱きあげられ、成すすべもなくその表情のない顔を見ては俯くことしかできないのであった。

「ピカピ……」

 サトシは何も言わない。ピカチュウの鳴き声に応えるようにほんの少しだけ、ピカチュウを抱きしめる力を強めたが、それ以上は何もしないし、言わない。
 空を覆った暗雲からはぽつりぽつりと雨が降り始めていた。その雨脚は次第に強くなり、サトシとピカチュウを打つ。どこか雨宿りが出来るところはないかとピカチュウはきょろ、と周りを見渡すが、サトシにはそんなつもりはないようだ。そのまま歩みを続ける。
 ばしゃ、と水が撥ねる音がして、ピカチュウの耳がぴくりと動いた。断続的な水の撥ねる音――人の足音だ。追手だろうか、と警戒するものの、次の瞬間に届いた声がそうではないことを告げた。

「サトシッ!!」
「っ!!」

 サトシの肩が大きく揺れた。足元が乱れ、背後からの音に怯えるようにして後ろを振り向く。そこにはずぶ濡れになったシゲルの姿があった。余程焦って走ってきたのだろう、息は随分上がっている。

「ここにいた…!」
「ッ、くるな!!」

 鋭いサトシの声とともに、雷撃がシゲルの足元に放たれる。走り寄ろうとしたシゲルは身を引き、雷撃が当たる直前のところでそれを回避した。サトシは今まで見せたことのないようなきつい眼差しでシゲルを睨みつける。それは警戒心と怯えが見え隠れする様な視線だった。
 シゲルはそれでも笑みを崩さず、やさしくやわらかく笑いながらサトシへと近づこうとする。

「…何しに来たんだよ」
「っ…謝りに来たんだ…」
「あやまる…?」
「…君を傷つけたから。研究所での事、思い出したからあんなに取り乱してたんだろう?」
「……謝ってくれなんかくれなくたっていい。…もう、戻らないから」
「え…?」
「ピカチュウと二人でママたちを捜しに行く」
「そんな…危ないよ!」
「だからなんだよ?ママたちはもっと危ない目あってるかもしれないんだ。かまうもんか!」

 自分の考えをゆずる気がないサトシは、また背中を向けて歩きだす。だが、そこで引くシゲルでもなかった。また追いかけようと前に進もうとする。が、それはまたサトシによって放たれた雷撃によって妨げられる。

「――ッ来るなって言ってるだろ!!…戻るもんか…実験するやつなんかみんな大嫌いだ!!」
「…っ、ごめん……」
「謝ってなんかいらないって言ってるだろ。…実験されになんか戻らないからな…!」
「実験なんてもうしないよ…!」
「うそだっ!みんなそう言うんだ…次は痛いことしない、次はだれも、きずつけなくていいって…!」

 ばちばちと音をたててサトシの周囲の空気がはじけはじめた――帯電しているのだ。激昂しているのか、力のコントロールができていないのかもしれない。
 目頭が熱くてたまらなかった。今、雨が降ってくれていてよかったと心底思う。サトシは、確かに泣いていた。ぼろぼろと涙をこぼしながら、それでもシゲルを睨みつけ、ピカチュウを守るように抱き抱えている。次第に空気をはじける音が激しくなってくる。空気がぴりぴりと肌に痛い。

「だからいかない…いかないから、追いかけてくんなよっ…」
「サト…シ……」

 そこで初めて、シゲルの頬笑みが崩れた。悲しそうな、申し訳なさそうな、そんな顔をしながら、サトシを見ていた。強く何かを抑制するような、必死な顔をしてサトシは両足で踏みしめるようにしてそこに立っていた。シゲルはサトシのことを本当に子どもだと思っていたが、この目の前の少年は、実は自分が思っているよりもずっとゆるぎなく立つことのできる人間なのではないのだろうか。
 サトシに向かってまた一歩を踏み出すが、雷撃をまた繰り返される。だが、もうシゲルはそれに怯むことなくサトシに近づいていく。

「来るなって言ってるだろ!!」
「うあ、…っ」

 雷撃が掠めた頬とふくらはぎが熱い。顔が歪むのを堪え切れずに、それでもシゲルはサトシに近づこうとした――が、今度はサトシの様子に異変が見られた。シゲルの呻く声にはっと顔をあげるものの、振り払うようにしてまた背を向け、走りだそうとしたその時だった。

「……え、…」
「サトシ…?」

 突然、サトシがその場にぺたん、と座りこんだのだ。脚が力を失ったような、そんな座り込み方だった。しかし、それに反してサトシの周囲の閃光は激しさを増していく。
 ――力が暴走し始めてる…!
 シゲルは雷に拒絶されるように弾かれながらもゆっくりとサトシへと歩を進めていく。ばちばちと大気は動いたが、それでも今、サトシの力を抑制しなければまずいことになる。それだけは、確かなことだとわかっていた。

「ピッ、ピカピ…!!」
「…あ、う…なんだよぉ、これえ…!」

 とうとう雷撃は発生源のサトシの身体すら傷め始めたらしい、必死に自分の力を制御しようとしながらもそれは無駄に終わっている。頬が、露出した腕が、少しずつ傷ついては赤い血を見せ始めていた。

「くそ、サトシッ…サトシ、どうしたんだ…!!」
「…い、やだ……、いたい…!!」
「サトシっ…!」

 痛みをこらえきれずにサトシはぎゅっと目を閉じたまま自身の身体を強く抱き締める。その時、ピカチュウは風の流れの異変に気づき、空を見上げた。まるで雷に引き寄せられるかにして厚く、黒い雲が――確かに、集まってきていた。そしてピカチュウの電気袋がピカチュウ自身のものではない電気に震えたのだ。

「ピッ…!?ピ、ピカチュ!!」
「くる、なって…いっ……――」
「サトシ!!」

 刹那、眩い光と轟くような低く身体を振動させる音が響いた。光で目が見えなくなり、音の所為で耳が麻痺する。サトシは、サトシはどうなったんだ。自身の感覚が戻るまでどれほどの時間がかかったのかはわからない。だが、目でサトシを確認したときにはすでに彼のもとに駆け寄っていたし、耳が雨音を拾った時にはもう既にサトシの呼吸がないことを確認していた。聴覚の戻った耳を胸にあてるが――心音が、ない。

「……ピカ、ピ…?」
「っ…!」

 ぐ、ぐ、とシゲルはサトシの胸を押し、サトシの呼吸を確認してはそれを繰り返す。だが、サトシの心臓が動くことも、呼吸を取り戻すこともない。ピカチュウが必死にサトシの頬を叩く。その頬を落ちる涙など気にもせずに、ただ、サトシが目を覚ますことだけを祈り、願って。

「ぴか…ピカピ、ピカピー…ッ!」
「っ、そうだ…ピカチュウ!サトシに電気ショックをしてくれ!!」
「ピッ…?」
「いいから!…ショックを与えれば、心臓がまた動くかもしれない…!!」
「ピ、ピカッ!!…ピーカー…チュウウゥウゥッ!!」
「……、まだだ、ピカチュウ、もう一回頼む!」
「ピカッ…!ピーカー…チュウウウウゥウ!!!」

 祈るような気持ちでサトシの胸に耳を当てる。どうか、どうか彼が生き延びてくれますように。また笑ってくれますように。
 ――とくん、
 それは確かに、サトシの命の音。心臓は確かに反応を示し始めたが、口元に耳をやっても呼吸は確認できない。シゲルはすう、と息を吸い、サトシに口づけ、息を送り始めた。吸っては送り、サトシの呼吸を確認し、まだその再開が確認できなければ吸っては送る。それを何度か繰り返すうちに、ようやくサトシが息を自分で吐きだした。

「…っ……は…」
「サトシ…!」

 自分の力で呼吸は再びし始めたものの、意識は失ったままである。雨にさらされた身体は冷え切っているし、このままじゃ危険だ。ぐったりとしたサトシの身体を抱きあげて、そのまま来た道をまた引き返して走りはじめた。

「ピカチュウ、おいで!」
「ピッ!ピ、ピカチュッ…!!」

 その白い背中を追いかけながら、ピカチュウはサトシの無事だけを祈った。



*****



「博士!博士ッ!!」
「ん?なんじゃシゲル、そんなに慌てて珍しい」
「サトシがっ…雷に打たれて…!!」
「は…?っ、な…!」

 大きな音をたてて玄関の開く音がし、ひどく慌てたような足音が聞こえ、シゲルが焦って自分のことを呼んだとしても、オーキドは振り向かずそのまま研究を続けていた。そして、その切羽詰まった状況の原因を知り、慌てて振り向いて駆け寄ってきたのだった。
「呼吸は取り戻したんですけど意識はないし、火傷だらけだし…!!」
「っ…、…とにかく、奥へ運ぶんじゃ!」
「は、はいっ!」
「ピカピ…!」
「…サトシ…っ」

 オーキドが治療器具を取りに行っている間に普段から診察室として使用されている奥の部屋にサトシを運び込み、そこにあるベッドに寝かせる。ピカチュウもサトシの安否を気にしてか、シゲルの肩の上から不安げにサトシを見つめていた。
 ぱたぱたと治療器具を持って部屋に駆け入り、手早く慣れた手つきでサトシを診察し始めるオーキドの白衣をすがるようにして握るシゲルは、今まで見せなかった姿で、彼が確かに十歳の子どもだったことを思い出させた。

「博士、サトシはっ…サトシは大丈夫ですよね…!?」
「落ち着くんじゃシゲル!…大丈夫じゃ、心臓は正常に動いておるようだし、呼吸も大分安定しておる。火傷の方も、数は多いが酷いものは少ないから命には関わらんよ」
「っ…本当に…?」
「本当じゃとも。お前の処置が迅速だったんじゃな…」

 そう言いながら、オーキドの視線はサトシの火傷の傷口をとらえていた。ひとつずつ丁寧に、それでいて素早く消毒していく。ようやく我に帰り始めたシゲルは、安心したのかそこに座り込んだ。が、さまざまな感覚を取り戻してきたのだろう、その場に微かに香る、焼けて焦げたような臭いの所為か、顔を真っ青にして口元を押さえていた。ピカチュウはシゲルを心配するように肩から降りてその顔を覗き込むが、その顔は蒼白を通り越して土気色となっていた。

「……う…」
「治療はわしに任せて、お前は部屋から出ておるのじゃ」
「……」

 こくん、と声を出せないままに頷き、おぼつかない足取りでおもむろに部屋を出ていく背中を少しだけ気にしながら、オーキドは目を伏せた。

「……あのシゲルが、あんなに取り乱すとはのう…」
「…ピカピ…」

 そんな中、ピカチュウはじっとサトシの枕元に座りこみ、心配そうに見つめていたのだった。
 ただ、サトシが笑ってくれますように。苦しまずに済みますように。もう十分傷つき、苦しんだサトシが、幸せになれますように。
 ピカチュウの願いは、ただ、それだけだった。




2009.4.16
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