06/心を融かすもの-4 「シゲルー!!これ食え!!!」 乱暴に開かれた扉に驚き、シゲルとオーキドは音の方へと振り向いた。驚きはすぐ消え、声とそんなふるまいをするのは彼だけだった。そんなに大きな声を出さなくても聞こえるのに、と声の主――サトシを見てシゲルは苦笑した。 「さ、サトシ!?」 「あ、博士ごめん、勝手に台所使っちゃった!」 「いやそれは構わんが…な、何かあったのか?」 「あ、そうそう…」 シゲルがサトシと話している途中で倒れ、すでに二日が経過していた。未だ体調面、精神面においても万全とは言えないシゲルには休むように言い、顔色が戻るまで研究をすることは許さないとし、サトシにはシゲルは疲れて体調を崩してしまったのだから気に病ませてはいけない、とシゲルの体調が回復するまで近付くことは慎むように話した――筈だった。 だが、サトシがシゲルの部屋に元気よく入ってきたことは間違いなく事実である上に現実だ。オーキドは軽いめまいを覚える。そんなオーキドはまるで視界に入っていないかのようにサトシはシゲルにぱたぱたと駆け寄り、皿を差し出した。 「ほら、シゲル!」 「………これは…?」 「オムレツ!たまごは栄養あるってママが言ってたから」 「……炭になってるけど…」 「み、見た目黒っぽいけどたまごしか使ってないから大丈夫だって!」 その皿の上に乗っていたのは黒くなった――サトシに曰く卵焼きだという――炭の塊のようだった。表面はぱりぱりと箸でつつけば崩れてしまう。それでもサトシは自慢げに胸を張ってそれをシゲルの手に無理やり乗せ、早く食べて欲しいと言わんばかりに目を輝かせた。 「さ、サトシ!ワシが言ったことを忘れたのか!?」 「へ…博士、何か言ってたっけ?」 「しばらくここに入ってはいかんと言ったじゃろう!シゲルは病人なんじゃぞ?」 「で、でもっ…病人だからなんか食べた方がいいかと思って…」 「それならワシが作っておるし、作ったならワシが持って行ってやろう!じゃからとりあえず部屋を出て…――」 持ってるサトシが言うにはオムレツだというその物体は元が卵だというのが嘘のように黒く焦げており、そんなものを病人に食べさせて調子が悪化しては大変だとシゲルを多少庇うようにしてサトシを部屋から出そうとオーキドは促す。が、感情のまるで失せたシゲルがじっと見つめるのはサトシが持ってきたその皿の上のもの。 「…わかった…ごめんなさい、博士……」 「謝るならシゲルにな…さあ、早く出よう」 「――…待って下さい」 一瞬、そんな筈もないのに誰が言ったのか判断できないような不思議な感覚に襲われた。 「……これ、食べていいのかい?」 「シゲル…?じゃが…」 「い、いいけど…だってお前に作ってきたんだし」 「………ありがとう」 「…え」 「いただきます」 「お…おう!」 まさか、と思った。シゲルがまさかそんなことを言い出すとは思ってもみなかったオーキドは目を見開いてその不思議な光景を目の当たりにしていた。驚いたのはオーキドだけではない、サトシも同様に心底驚いていたのだ。断られることばかり考えながら台所からシゲルの部屋まで歩いてきた。それでもいいと思っていた。でも、シゲルは丁寧に手まで合わせてくれている。 嬉しくて、たまらなかった。 「ど、どうだ…?」 「……まずい」 「うっそ!?」 「…というか、炭の味」 「シゲル…」 まあそれもそうだろうが、と苦笑いを浮かべながらも温かい気持ちで二人を見守っている自分がいる。シゲルがくすくすと楽しそうに笑うのを見ながら、サトシに期待したその時の予感に似た感情は信じて良かったのだとオーキドは微笑んだ。 驚いたように皿の上の黒いオムレツとシゲルの顔を何度も交互に見ながらサトシは慌てているようだ。そんな様子を見ながらシゲルはまた楽しそうに笑っている。 「たまごなのになんで炭の味!?」 「焼きすぎたんだよ」 「たまごって、焼きすぎたら炭になるのか…!?ていうかシゲル、まずいなら食わなくていいんだぜ…?」 「…いいよ。せっかくサトシが作ってくれたんだから」 「――…!」 目を細めて穏やかに微笑んだシゲルを見た二人は大きく目を瞬かせた。ここ数日、シゲルは自分の中でどのようにサトシの真っ直ぐな想いを処理するべきなのか悩んでいる様子だった。まだ焦る必要はない、ゆっくり受け入れられるようになれば――そう思っていたのに。まさかこんなに早く、シゲルがあたたかいものを抱きしめた時のように目を細めて笑う日が来るとはオーキドにも予想できてはいなかった。また一口、とサトシの作ったオムレツを口に含んでは咀嚼し嚥下していく。あまりに静かなことを不思議に思ったのか、シゲルが視線を上げるとサトシとオーキドのきょとん、とした顔が目に入り、何か自分がしただろうか、と首をかしげた。 「じゃあ、次はもっとちゃんと黄色いの作るぜ!!」 「……期待しないで待ってる」 「なんだよそれ!せっかく作ってやるって言ってるんだから期待しろよな!」 「はいはい、期待してるよ」 「…絶対黄色いの作ってうまいって言わせてやる…」 シゲルはまた無表情へと戻ったが、それでもサトシは嬉しくて舞い上がる気持ちと緩む頬を抑えていた。あんなに拒絶を繰り返したシゲルが、かたくなに踏み込んでくるなと自分を拒否したシゲルが、あんなにも自然な形で笑ってくれた。少し、距離が縮まったと自惚れていいんだろうか――サトシは心底楽しそうに顔を緩ませた。 「ごちそうさま」 「…まずいって言いながら全部食べた…」 「だめかい?」 「だってまずいって言ったのに…」 「でも、サトシがくれたものだから」 サトシに皿とスプーンを返しながらシゲルはふう、と息をつく。食べ終わってからぐだぐだと言い始めるサトシに呆れを覚えながら、その感覚すら悪くないと思うこの感情は一体何なのだろう?先程サトシが料理して持ってくるその時まで、まだうまくサトシと話をする自信はなかった。まだどのように彼と接したらいいのか悩んでいたのにサトシは不思議だ。そんな疑問すらさらって行ってしまう風のようだ、とすら思う。 「……じゃあ、病気治る前にまた作ってきてもいか?」 「期待しないで待ってる…って、言っただろ?」 「ホントか?…博士にだめって言われたけど作ったら部屋、入ってもいい?」 「………ああ、いいよ」 「やった!」 どうしてそのサトシの申し出を断らなかったのか、シゲル自身のもわからなかった。それをいいよ、と言った自分自身に驚きすらした。 ――なんでだろう、いやじゃ、ない。 目の前で大喜びしているサトシを面倒くさいとはほんの少し感じたけれど、心底嫌だとか後悔だとか、そういった類の感情はどこにもなかった。どこまでも素直に、それでもいいと思えた。 「ほれ、サトシ!そろそろ出るぞ!」 「はーいっ!じゃな、シゲル、ちゃんと寝てるんだぞ!」 「…ん。ありがとう、サトシ」 大きく手を振りながらオーキドに追い立てられるように歩きだしたサトシの背中が扉の向こうに消えたのを見てから、シゲルは穏やかな気持ちのまま、ふう、と息を吐いた。オーキドはそんなシゲルの横にまた戻ってきて嬉しそうに微笑んでいた。 「……シゲル…」 「まだ、炭の味する……」 「あんなに真っ黒なものを全部食べるからじゃぞ?」 「…でも、せっかく作ってくれたから」 「……そうか」 シゲルは気付いているのだろうか。笑っていなくても自分自身が無理に作った笑顔を顔に貼り付けていないことを。たとえ無表情とはいえ、"自分自身"という存在を相手にさらけ出していたということを。 「…おじいさま?」 「お前が、受け入れてやるとはのう」 「え…?」 「自然に笑っておったぞ」 「……」 「なんじゃ、気づいておらんかったのか」 「……、はい…」 「それだけ、自然なことだったんじゃろう」 細い指で自分自身の頬、目元、口元をゆっくりとなぞるように確かめていくシゲルの姿はどこか幼かった。まるで忘れてしまった表情の作り方を思い出すように自分の顔をなぞり、どこか呆然としている。 「………笑ってた…僕が…」 「…良かったのう」 「……よかった、のかな…」 「…?」 「また…期待してしまいそうで……」 「シゲル…」 苦しそうに目を伏せ、シゲルは肌身離さず胸元につけているペンダントをぎゅっと握った。それは、彼の唯一の宝物。唯一の思い出と言っても過言ではないくらい、大切なお守りだった。 信じることは悪いことじゃない。それは知っていた。だけど理解することが出来なかった。知っていても飲み込めない、受け入れられない感情だとか考え方は誰にだって存在するだろう。シゲルにとって、他を信用し、重さを共有するということがそれだった。 「感情があったって、きっと余計なだけなのに」 「そんなことを言うものでないぞ…」 「……すみません」 「…お前が受け入れてやりたいと思ったのなら、受け入れてやりなさい。サトシも、喜ぶと思うぞ?」 「………受け入れる、とか受け取るとか…よく、わかりません」 「今はわからんかもしれんが、きっと、…わかるようになるじゃろう」 それは自分の希望でもあった。そうあればいい、そうなればいい。そう思っていたのは嘘ではない。心からの希望だった。オーキドはそっとシゲルの頭に触れてからゆっくりと立ち上がった。研究に戻るとするかの、と言って軽く首をならす。 その時、ふとシゲルは気付いたことがある。自分の喉に触れ、それは今までならば有り得なかったことだと自分自身の変化に驚いていた。 「……平気だった」 「…?」 「………思い出さなかった。…あんなに、嫌な臭いの筈なのに……」 シゲルは、物の焦げた臭いを酷く嫌悪していた。それは彼が幼いころ、心に負った大きな傷の所為でもある。だが、サトシが作ったというオムレツがどんなに黒く焦げていても、その臭いが鼻をくすぐっても、取り乱さずに笑って食べてみせた。それは今までからしたら有り得ないことであり、シゲルが驚くのも無理はなかった。 「どうして……?」 「…、…サトシが作ったものだから、じゃないかの?」 「え?」 「サトシの気持ちがこもったものだから、…お前がサトシを受け入れ始めているから、じゃないかのう?」 「…………そう、なの…かな…」 「…辛い記憶ばかりに縛られなくなるのは、良いことじゃぞ」 それでも、とシゲルは思ってしまう。それでも、自分は"それ"を想い続けて今ここまで生きてきた。今更、それに縛られるなと言うのは無理な話。それがよくないことだとはわかっていたけれど、それでもむしろ、シゲルにとっては過去の束縛から解放されることが恐ろしかった。 「忘れろとは言えん。じゃが…もう少し力を抜かねばまた倒れてしまうぞ?」 「……はい」 「…じゃあの、ゆっくり休みなさい」 「ありがとうございます、おじいさま」 「……おやすみ、シゲル」 「おやすみなさい…」 ぱたん、と閉じられた扉の方を眺めながら、シゲルは過去のことを思い出していた。自分はどんな子どもだっただろう。母は父は。胸が軋んだような気がして首飾りをぎゅっと握り締めた。そうしている間は、頭痛も胸の痛みも和らぐような気がしたから。 「…仇を、とらないと…………仇を。なのに…どうして、笑えてるんだろう……」 まだ傷は癒えていない。どうすれば傷が癒えるのかもわからない。それでも、それでも自分にはやらなければならないことがある筈。やり遂げたいと思うことがある筈だ。それが故に、人を受け入れることができずにいるのも事実。シゲルはきつく目を閉じ、過去のあたたかさを想った。 「…………父さん…母さん…」 ――僕は、間違っていないでしょうか。 2009.4.16
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