04/心を融かすもの-2






 昨晩は結局シゲルが気になって上手く寝付けなかった――と言いたいところだが、そんなわけもなく、ベッドに戻ってそのまま寝付いてしまったサトシだったが、やはりシゲルが気になることには変わりはなく、目が覚めてからきょろきょろとシゲルを探していた。
 ――いた!

「あの、シゲル…、……?」

 確かに廊下にシゲルはいた。だが様子がおかしい。壁にもたれかかって額を覆うようにして俯いているのだ。やはり体調が悪いのか、とサトシは遠慮がちに近づいていく。

「……シゲル、どうしたんだ…?」
「…ああ、サトシか」
「やっぱり具合、よくないのか?大丈夫か?」
「昨夜にも言っただろう、平気だよ。少し頭が痛いだけ。さっき薬を飲んだからすぐよくなるさ」
「でも、寝た方が…――」
「大丈夫だよ」
「うそだ」

 関わるなって言っただろう、そう言いたげな目で見られていることは気付いていた。それでも、それでもシゲルは苦しそうでそれをみすみす見逃すわけにはいかない。サトシの胸中には焦りに似たようなものが燻り始めていた。

「嘘だ、そんなの。そうじゃなかったら、そんな風にふらふらになったりするもんか」
「…なんでもないって、言ってるだろう?」
「そんなに、オレと顔合わせるの、いやか?」
「…………」

 シゲルは否定はしない。昨日のように微笑んで曖昧な言葉を吐いたりもしなかった。たとえ否定したとしてもサトシは信じなかっただろうし、その否定の言葉を嘘だとすぐに彼は気付いただろう。

「……俺と顔合わせるたびに…シゲル、疲れてるな…」
「そんなことないさ」
「じゃあなんで目、そらすんだよ。なんで無理に笑おうとするんだよ」

 一日でたまった怒りがふつふつとわいてくるのを感じながらシゲルは拳をきつく握り締めた。まだ一日しか一緒にいない人間が、一体自分の何を理解できるのだろう?何を考えて目の前の子どもは言葉を吐いているのだろう。

「……………んだ、」
「え?」
「君に、何がわかるっていうんだ」
「…、シゲル……」
「……ごめん、八つ当たりだね」

 抑揚のない声で呟かれたのは、今まで聞いたシゲルの言葉で何より本音だっただろう。やっぱり自分には何もできないし何も言えない。誰よりもシゲルがサトシのことを拒絶するだろうし受け入れられることなんてきっと、ないのだ。
 自嘲するようにシゲルは口元をくっと持ち上げて笑ってみせる。サトシは悲しかった。悲しかったし、寂しかった。無力な自分が、同じ場所にいる筈なのに相容れることがないだろう心が泣いていた。

「……確かに、オレ、お前のことなんにも知らない」
「だから、それはもういいんだよ、サトシ」
「知らないけど、…知らないけど、ああやって言えばいいじゃんか。思ってること」
「言ってるよ?」
「……シゲル」
「…?」
「笑えて、ないから」

 心が苦しい。こめかみの辺りが痛い。なぜ、どうしてサトシの言葉はこんなにも胸に刺さるんだろう。真っ直ぐに見つめてくる視線がどうしてこんなにも自分を貫くんだろう。シゲルにとってサトシは眩しかった。自分の心を素直に打ち明け、それでも笑顔のまま人に真摯に在ろうとするサトシは、他人との距離をある一定以上の距離を保つことで平静を築いてきたシゲルにとって眩しくてたまらなかった。そしてそれと同時に、苦しくてたまらない。自分はここまで、真っ直ぐに立ってはいられない。
 自分の弱さを、突きつけられるような、そんな感覚すら。

「そんなに疲れてるのって、もしかして寝不足じゃなくてオレのせい?」
「…違う、違うよ……」
「ごめんな、やっぱりいやだったんだな。オレが居座るの」
「…、――」
「ごめんな、シゲル」
「う、…」
「…シゲル?」
「…………あ」
「お、おい…?」

 小さくシゲルの声が聞こえたかと思ったその瞬間、崩れ落ちるように倒れかけ、サトシは慌ててシゲルの身体を支える。それは本当に張りつめていた糸が切れたような瞬間だった。ぷつん、と柔らかな糸が切れるようにシゲルは意識を手放し、サトシの腕の中に落ちた。シゲル、しげる、とサトシが名を呼ぶものの、シゲルは依然として目を覚ましそうにもない。ぐったりとした身体は予想以上に重く、サトシは焦りを感じながらオーキドのもとへ、とシゲルを引きずった。
 その時、オーキドはやはり研究室の机に向かっているところだった。サトシはシゲルの身体を支えながら必死に扉の前までたどり着き、そこにあるモニターに向かって叫ぶようにしてオーキドを呼ぶ。

「はかせ…博士え…!!」
「サトシ?どうしたんじゃ、そんな情けない声で――っ!?」

 音をたてて研究室の扉が開き、中からオーキドが現れる。今にも泣きだしそうな顔をしたサトシが抱えているのは自分の孫のシゲルの姿。その顔色は蒼白。オーキドはサトシとシゲルに駆け寄り、重たそうにしているサトシの手の中からシゲルを抱きあげた。

「は、話してたらいきなり倒れて…オレ、どうしようって…!!」
「一体、何が……」
「わかんない…わかんないよ…」
「………ともかく、一度軽く診察してから部屋に寝かせておこう。熱があるわけではなさそうじゃしな…」
「ごめんなさい…」
「どうした、そんな悲しそうな顔して。サトシは何もしておらんのじゃろう?」
「オレの、せいだ…」

 思い詰めたようにサトシは自分の胸元の服をぎゅっと握り、顔を歪めている。目は多く涙を孕んでおり、今にも零れ落ちそうだ。オーキドはまだまだ子どものサトシがそういう表情をすることがつらかった。子どもはそんな顔をするものじゃない、笑っている姿こそ自然だと――シゲルと過ごしながら思っていた。

「……何か思い当たることがあるのかの?」
「きっと、オレがいるから…」
「そんなことはないぞ、サトシ」
「でも!…でも…オレがいるのいやなんだろって言ったら、急に…」
「…シゲルは嫌だとは思っておらんよ、サトシ」
「けどっ…」

 あたたかい子だ、とオーキドは思う。シゲルとはまた違った子どもっぽさと大人っぽさを持ち合わせた、人を思いやることを知っている子どもなのだ、サトシは。それ故にシゲルは享受することができず、自分の中での処理がし切れずにサトシの素直さをストレスとして受け取ってしまったのだろう。
 大丈夫じゃよ、と繰り返してオーキドは優しく微笑む。そして、心の中でありがとう、とも呟いた。

「ただ、シゲルは素直に心を開けないだけなんじゃ。だから…少し疲れてしまったんじゃないかのう」
「ほんとに…?」
「ああ、本当じゃ」
「……そう、かな…」
「…さ、部屋に戻りなさい。シゲルはワシが運んで置くから」

 少し落ち着いたらしい、サトシはオーキドの言葉に安心したように息を吐くと、不安げにシゲルを見つめていた。諭すような柔らかな口調でオーキドはサトシを促せば、サトシもおずおずと頷いて見せ、いい子じゃ、とオーキドも頷く。

「……ありがとう、サトシ」
「…お礼言ってもらえるようなこと、しないです」
「ワシが言いたいんじゃよ」
「…えっと、じゃあ…どういたしまして…」
「うむ」

 満足げにまたオーキドが頷くと、サトシはまたシゲルへと視線へと移す。心配で仕方ないのだろう、もうすでに泣きそうな顔はしていないとはいえ、気になって仕方ないことはその表情から窺い知れる。

「……博士、シゲル…お願いします」
「…ああ」

 ぺこ、と深く頭を下げると、ぱたぱたと音を立てながらサトシは自分の部屋へと戻っていく。シゲルへの罪悪感を自分の中で処理しようとしているところだろうか。彼の心の中はまだ安心しないだろう。沢山の想いであちらこちらへと思考は動いているはずだ。

「…まったく、困った子どもたちだ」

 オーキドはそう、抱えたシゲルの顔を見て呟いた後、ゆっくりとシゲルの部屋へと歩き始めた。この子どもたちは優しさ故に不器用すぎるのだ。




2009.4.14
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