03/心を融かすもの-1






「のどかわいた…ねれない……」

 サトシはゆっくりと暗い廊下を抱きあげたピカチュウが放つ小さな明かりで歩いていた。目覚めたのはつい数時間前のことで、眠れないのは当然と言えば当然だっただろう。喉に渇きを覚え、夕食を食べた台所を目指してそろりそろりと歩いているところだった。先程までは眠っていた為、まだ目元は重く、それを振り払うようにごしごしと擦りながらゆっくりと台所を目指す。
 一方、台所には既に別の人間――シゲルがいた。流し込むように薬を水で飲み込み、口元を手の甲で拭う。今日は頭痛が一段と酷い。薬が無事に効けばいいのだが。

「ふう……ん?」
「……んう…うわあっ!」
「わ…っ」

 一息ついたシゲルが部屋に戻ろうと後ろを振り向けば、黒い影。サトシだ。そう気付いた瞬間にはもう遅く、俯きながら歩いていたサトシはシゲルにぶつかって尻もちをついてしまった。

「…なんだよお…」
「何って…君がぶつかったんだろう…?」
「んあ…?…――っ!」

 そしてサトシの視界に入ったのは、暗い部屋の中に浮かび上がるようにして存在する、白衣。サトシはどうしても白衣が苦手だった。研究所の所員はみな白衣を着用していたし、そういった人間は決して自分にとって優しくないことをサトシは知っていたからだ。
 ピカチュウを強く抱き、サトシは自分を、ピカチュウを守るようにしながらかたかたと震え始める。実験はもういやだ、ピカチュウをいじめないで、痛いのも怖いのも大嫌いだ。

「サトシ…?大丈夫かい?」

 名前を呼ばれ、反射的に顔を見上げるが部屋の明かりの逆光でサトシにはシゲルの顔が見えない。それがさらに動揺を呼んだ。目に見えている映像が記憶と少しずつだぶっていく。
――実験の時間だ。

「あ……」
「…サトシ…?」
「や、だ…いきたくない……」
「いきたくない…?」
「もう、あんなの…あんなのイヤだ!連れてくな…!!」

 がたがたと怯えるサトシの頭をゆっくりと優しくシゲルは撫でた。伸びてきた手に怯えたのだろう、叩かれるとでも思ったのだろうか、サトシはびくっと身体を縮こまらせて目を閉じていた。それでもシゲルは撫でていた。優しい手つきでサトシのやわらかな髪の毛を、何度も。
 それに気づいたのか、サトシは伺うように暗い影の人の顔を覗き込む。この人は、痛いことをしない人、なのだろうか?

「……?」
「大丈夫」
「……シゲ…ル…?」
「そうだよ」

 深呼吸をしながら少しずつ呼吸を整え、肩の力を抜いていく。震えも少しずつおさまり、なんとか今の状況がつかめてきた。ここは研究所じゃない、痛いことも怖いことも苦しいことも寂しいことだってないんだ――サトシはピカチュウを抱き締める力をゆるめる。腕の束縛から解放されたピカチュウはすかさずサトシの顔をのぞき込み、慰めるかのように軽くその頬を舐めた。

「…落ち着いた?」
「うん…ごめん……」
「いいよ、気にしなくて」
「シゲル、寝てるかと思ってた…」
「水を飲みにおりててね」
「そうなん…、……シゲル…?」

 ゆっくりとピカチュウをまた抱き上げて立ち上がり、サトシは今度はちゃんとシゲルの方を見る。昨日会ったばかりだけれど、白衣を着てるだけで少しも変わらない――というのも当たり前か。そう思った時だった。シゲルの様子が、サトシにとっては少しだけ、おかしいような気がした。

「どうしたんだい?」
「お前…なんか、ふらふらしてないか?」
「そんなことないよ」
「あるって!……寝不足?」
「んー…少しね」
「じゃあ寝なきゃだろ!ほら、部屋にかえらないと!」

 そう言いながらサトシはシゲルの腕を引き、暗い廊下へ出ようとするが、シゲルは困ったように笑いながらそれを制止した。むっとしたようにサトシは顔をしかめるが、それを知らないふりをしてシゲルは話をそらす。

「大丈夫だよ。……それより、さっきのは?」
「え…っ、あー……」

 本当は何となく気づいていた。彼があんなに怯えるのはきっと、研究所でのことを思い出したのだろう。でも、話をそらすためにはちょうどいい。微笑むシゲルから目をそらすようにして言いにくそうにサトシは視線をさまよわせる。

「話したくないならいいけどね」
「………研究所」
「…?」
「研究所のこと、思い出して」
「…これ?」

 そう言ってシゲルは自分の身につけていた白衣をつまみ上げる。きづいてたんだ、とサトシは目を伏せて小さく頷く。オーキドと初めて会った時、異様なほどに距離をおこうと警戒していたサトシにシゲルは気付いていた。ロケット団の研究所にいたというだけあって、そこの人間も研究に携わっていた人間ならば白衣を着ていたことくらいは簡単に予想することが出来た。

「あと…実験室、こんな感じで暗くって……」
「そっか」
「……ごめん、俺も寝るからお前も寝ろよな」
「…うん」

 無理やり作った笑顔はどこかぎこちなくて、ひきつっていた。そんなサトシに気づきながらもシゲルは微笑んで頷く。と、感じるのはサトシの視線。じっとシゲルを怪訝そうな目で見つめている

「…何だい?」
「そういえばお前、寝不足ってなんで?」
「研究に夢中になってて」
「身体に悪いだろ……」
「大丈夫だよ、慣れてるしね」
「だめ!ふらふらなんだから寝るの!」

 ぐっと弱くはないサトシの力に腕を引かれ、シゲルは一瞬身体をこわばらせた。拒否しようと脚に力を入れようとするが、うまく力が入らいない。サトシはシゲルの微弱な抵抗には気付かずにぐいぐいと廊下へと引っ張っていく。
 他人を心底享受することのできないシゲルはそういったサトシの行動を理解することができずにストレスを感じているのは確かだった。もうやめてくれ、ほっておいて欲しい。胸の奥をぎゅっと鷲掴みにされたような、ひどい衝動をともなうそれを抑制する。

「…サトシ…っ」
「ちゃんと寝なきゃだめだろ!」
「……平気」
「っ!…どこが平気なんだよ。昼間みたいに無理やり笑ってみせることだってできないくせに!」

 ――ずかずかと僕の中に入ってこないでくれ。
 サトシの手を強い力で振り払い、シゲルが見せたのは確かな拒絶。これ以上入ってくるな、これ以上口出しをするなという境界線をサトシは気付かずに侵してしまっている。シゲルにはそれが許せなかった。踏み込んでいいのはここまでだ、と笑顔で諭しているのにもサトシは気付かない。普通の人間はそれに気付かずにそのライン以上に踏み込まないか、オーキドのようにそれに気付いてそっとしておくかのどちらかだ。でもサトシは違う。幼さ故に、今まで自分がいた環境が故にそういった人との距離の取り方を知らないのだ。

「大丈夫だから。眠いだけだよ」
 ――もっとわかりやすく言わないと、だめなのかな?
「ほっといたらお前、絶対寝ないもん」
「今日は寝るよ。だから平気だって」
 ――君はどれだけ人のことを馬鹿にすれば気が済むんだい、サトシ。
「……ほんとか?」
「本当」

 シゲルの目は暗く、冷たい。感情面には鋭いサトシはそれには気付いていた。昼間も冷たく凍りそうな目をしていたけれど、そのどの視線よりも今の視線は冷たく、哀しい色をしている。それでも、そんなシゲルを放ってはおけなかった。張りつめた糸が切れればいつかは崩れる時がくる。シゲルの微笑みが痛くてたまらない。本当に人のことを警戒しているのはサトシではなく、シゲルの方だった。

「……わかったよ」
「…おやすみ、サトシ」
「お前が寝てからじゃなきゃ寝ない」

 ――本当、君は僕の癪に障ることばっかりしてくれる。

「サトシ」
「シゲルが寝るまで起きてる」
「……いい加減にしてくれないかな」
「…っ?」

 背筋に冷たいものが走るのをサトシは感じた。初めて、目の前にいる笑みを崩した、無表情の少年を恐ろしいと思ったのだ。負けずと睨みつけようと目元に力を入れるが、シゲルの凍るような視線は、声音は、痛い。

「関わらないでくれ」
「……なんでだよ…」
「何が?」
「関わるな、って…!」
「…僕に関わると、不幸になる」
「なんだよ、それ…」
「そのままの意味だよ」
「……オレは、不幸にならない!」
「そう」

 サトシの横をすり抜けるようにしてシゲルは歩いていく。その先は暗い廊下だ。まるで、闇に融けていってしまうのではないかとすら思ってしまうが、サトシは動けない。扉を開き、ようやくシゲルはサトシへと振り向く。
 その顔に浮かぶのは一見、笑顔。だが、口元は笑っていても目元は冷たい輝きを孕んだまま。

「おやすみ、サトシ。ちゃんと寝るんだよ」
「……シゲ、ル…」

 シゲルは、振り向かない。自分は、一体何をしているのだろう。サトシは顔を歪めたままシゲルが消えた闇の先を見つめていた。




2009.4.14
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