01/森の中で-1





 あの時の記憶は、断片的にしか、思い出せない。


「走るぞ、サトシ!!」

「お前たちは俺が守ってやる」

「…――いないんだ」

「先に行っていろ!!」

「……っ」


 叫び声と、背後に迫る恐怖。ただママの手を握って、走ったことしか思い出せない。
 あの人が、どうして泣いていたのか、オレにはわからなかったし、訊くこともできなかった。



「サトシ、逃げて!!」


 ママの手が離れて、それでもオレは走るしかなくて、どこへ行くのかどうすればいいのかもわからなかったけど、だけど、走った。白と黒は、怖い色だ。
 ピカチュウの声が、もう聞こえなかった。








 すごく、怖い夢を見ていた気がする。サトシは薄く開けた目に飛び込んできた部屋の白さに眩しさを覚え、瞼をこすった。

「大丈夫かい?」

 聞こえてきた声に関して自分の記憶の中でその声の主を探してみるものの、どうやら自分の知った人ではないようだ。やわらかな、同じくらいの年齢の子どもの声。知らない人間だと判断するものの、頭はまだ夢と現の境界をうろうろしているようだ。サトシの声に張りはなく、視線もどこかをさまよったままだ。

「……だれ…?」
「僕はシゲル。君は?」

 シゲル。やっぱり知ってる人じゃない、あれ、ママたちはどこへ行ったんだろう。
 サトシの思考はあくまでふわふわしており、現実感を掴もうと思考は働いているものの、それを理解しきれずに思考を繰り返しては霧散していく。
 ――なまえ、なまえだ。オレの名前は、どっちだっけ。
 ママが、ピカチュウが呼んでた名前。それが自分の名前のはずだ。

「…サトシ……」
「サトシ、か。…大丈夫?どこか痛むところ、あるかい?」
「いろんなとこ、いたい…」
「そうか…まだしばらく休んでるといいよ」

 いたい、と眉を顰めたサトシに優しく微笑んだ。一方サトシは視線をゆっくりと彷徨わせ、周囲を見回していた。
 見覚えのない場所。白い部屋は同じなのに、ここは『あそこ』ほど暗くはない。陽の光が差し込んでいるし、風がある。眩しいのは白さではなく、窓から差し込む陽の光だったのだと今更ながらに気付いた。

「……ここ、どこだ…?」
「ここはオーキド研究所。病院も兼ねているけどね」
「…けんきゅう、じょ…?」
「そう。導術やポケモンの研究をしているんだ」
「どうじゅつ?…ポケモン…けん、きゅう……」

 サトシはシゲルが口にした言葉を口の中で繰り返し、頭の中に入れていく。思考は少しずつはっきりしてくる。聞き覚えのある単語の所為だっただろうか。周りを見回すのをやめ、白い天井をじっと見ては言葉を反芻していた。

「…大丈夫かい?あまり無理はしない方がいいよ」

 そうシゲルが声をかける。その声音はどこか心配そうだ。サトシはもう一度、きょろきょろと周囲を見回した。

「…、…――ッ!!」

 目に入ったのは様々な機材。以前から何度も見たことあるような、研究の機材だろう。サトシは俊敏な動きでベッドから起き上がり、身を低くしてシゲルとの距離を開けた。その姿はどこか動物が敵を威嚇している様を思い出させる。
 突然のサトシの行動に驚くものの、ここで取り乱しては余計に警戒されるだけだろうと、シゲルは笑みを崩さない。

「…どうしたんだい?」
「お、お前ッ…あいつらの仲間だな!?」
「あいつら?」

 『あいつら』とは誰のことなのだろうか…――身に覚えのない言葉にシゲルはため息をつきたくなったが、サトシは焦っているのか、真っ直ぐにシゲルを睨みつけたままだった。

「ママたちをどうしたんだよ!!なんでオレだけここにいるんだ!?」
「………よく、わからないな。勘違いしてるのかい?」
「っ、とぼけんな!」
「とぼけてないよ」
「う、うそつくなよ!!」
「…とりあえず、何の話をしているのか、教えてくれないかな?」

 今まで柔らかだったシゲルの表情と声音が、少しずつ凍るように冷たく、ひえていくような気がした。それに比例してサトシの警戒心はより大きなものになっていく。周囲の雰囲気が一瞬にして冷えたのをサトシも感じたのであろう、少しだけたじろぐようにしてずり、と後ろに下がった。無機質な壁の感触。これ以上は後ろに下がれないことを知ったサトシは、ぐっと拳を握り締めた。

「お前らと話すことなんてない!オレはもう戻らないぜ!ママたちと、こんなところからは出て行くって決めたんだ!!」
「……ん…?」

 ばち、と空気が弾ける音がした。空気の流れがまた変わる。今まで無表情だったシゲルは少しだけ顔をしかめ、サトシを凝視した。

「ママたちのことを教えないなら、邪魔するなら…!!」
「…!?」
「っだあああぁ!!」

 ――まずい
 その時、サトシの右手がバチバチと電気を纏っていたのを見た。帯電しているのだ。 瞬時に危険性を理解したシゲルは殴りかかってきたサトシを反射的、とも言えるスピードで受け流し、その首元に手刀を突きつけてみせる。サトシの身体がこわばるのが見て取れた。どうやら、むやみに動くほど状況判断が出来ないわけでもないらしい。

「――っ!」
「っと…ごめん」

 ゆっくりと手を離し、シゲルはふう、とため息をついた。その様にサトシは目を見開く。どうして、なんで。
 シゲルの目は、もう冷たい色を放ってはいなかった。先ほどまでの、あくまで柔らかな表情で、目元で。

「…あ、あれ……?」
「どうしたんだい?」

 困ったように笑う目の前の少年が、あの、無機質な場所の人間だとは思えなかった。少しずつ肩から力が抜けていくのを感じる。

「……お前、あいつらの仲間じゃ、ないのか……?」
「君の言うあいつら、って誰のことなんだい?」
「研究所…ロケット団の……」
「…ロケット団?」
「っ…、違う、のか?」

 目の中の光が失せる、というのを、間近で見たのは初めてではないだろうか。サトシはシゲルの目元がくっときつくなるのに気づき、びくりと肩を揺らした。そんなサトシの反応を見てか、申し訳なさそうにシゲルは先ほどのように笑って見せた。

「違うよ、その逆」
「ぎゃく?」
「ロケット団に…多分、だけど、知り合いがお世話になっていてね。追ってるんだ」
「…へ……じゃあ、オレたちを捕まえにきた奴じゃ、ない…?」
「違うよ。大体、僕は君のことも知らないんだから」
「じゃ、じゃあ!…なんで、オレここにいんの?」
「…森の中で倒れて君を、僕が運んでここで治療したんだ」
「オレ、だけ?」

 サトシの目はゆらゆらと揺らめく。誰か、別の人と一緒だったのだろう。でも確かに、サトシを森の中で見つけた時は、サトシと彼の傍についているピカチュウしかいなかったはずだ。シゲルの肩をつかみ、自分の求めている答えを願いながら、サトシは返答を待った。

「君たちだけだったよ」
「……ママたちは…?」
「他に、人はいなかった」

 崩れ落ちるサトシをシゲルは支えようとしたが遅く、その手は空をかすめた。

「…サトシ……」
「オレだけ…?一緒にって、やくそく…したのに……?」

 呆然とそう呟く様はどこか痛々しくて、シゲルは自分が何をしたわけではないのに謝りたくなるような、そんな気分になる。彼と一緒に居た中に彼の母親がいることはわかった。でもどうやら、彼の反応を見ている限りは他にもいたらしい。先程の取り乱し具合といい、ロケット団の研究所から必死に逃げ出してきたであろうことはシゲルにもわかった。

「…みんな、いっしょ、って……そとにいくって、やくそく…っ」

 大粒の涙がサトシの頬を滑り落ちていく。見たところ自分より下か、同い年くらいの年齢だろう。まだ母親離れしていないのは当然といえば当然だろうし、そういった環境にいたのならば尚更だ。ぽたりぽたりと床に落ちていく涙を見ながら、シゲルはどうすればいいのかもわからず立ち尽くしていた。

「っ、う…ママ…っ…レッ…さ、ん…っぐり…さ……っ…ピカチュ…」
「…ピカチュウ?」
「み、みんなっ…つかまっ、ちゃっ…?」
「……君。君。…背中」
「…せなか…?」

 ぐずぐずと涙をぬぐい、赤くなった鼻をこすりながらサトシはシゲルの方を見上げる。どうやらサトシは今の今まで、ピカチュウが自分の背中に張りついていたことに気づいていなかったらしい。ピカチュウの平均体重は六キロ。よく気づかないものだ、とシゲルは呆れに似た感心を覚えた。

「ぴ、ピカピ…」
「へっ…!?」

 こぼれていた大粒の涙は引っ込み、興奮したのだろう、カッと頬に赤みが戻った。サトシが背中に手をやるとそこには慣れた、柔らかな感触。大きな目がさらに大きく見開かれたかと思えば、後ろから飛び出してきたピカチュウを抱きとめて一人と一匹はぼろぼろと先程とはまた違った涙をこぼしていた。

「ピカチュウ!!」
「ピカピ!」
「よかった、無事だったんだな…!!」
「ぴっか、ピカチュウ!」

 どうやらピカチュウはサトシにとって大きな存在であったらしい。あんなにも取り乱していたサトシが一瞬にして嬉しそうに笑うのだ、ピカチュウがサトシと一緒でよかったとシゲルは思わず笑みをこぼす。

「感動の再会、かな?」
「あ……ご、ごめんな…。その……疑って…」
「いや、構わないよ。誤解が解けたならよかった」

 そういってシゲルは笑ってみせる。サトシはシゲルをきょとん、と見つめたが、すぐに悲しそうな、少し焦りが混じった顔で俯いた。ピカチュウは不安そうにサトシとシゲルを交互に見ている。

「…助けてくれて、ありがとな。すぐ…出てくから」
「行くあてがあるのかい?」
「ないけど。……でも、ママたち、探さなきゃ」
「…追われてるんだろう?」
「うん……だから、ここにいたら迷惑がかかるしさ」

 ピカチュウを抱いて立ちあがるものの、昏々と眠り続けていたのだ、すぐに万全な状態になる筈がなく、少しだけふら、とよろめいたのをシゲルは見逃さなかった。

「行くあてが見つかるまで、ここにいていいんだよ?」
「だって、お前、迷惑そうだし」
「…そんなことないよ?」
「だって、嘘ついてる」
「……嘘?」
「ホントはやだから、そうやって笑ってるんだろ?」

 内心、ひどく驚いている自分がいるのを、シゲルは解っていた。今までと同じように振る舞い、今までと同じように人と接しているのに、どうしてこんなにも相手の反応が違うのか、理解に難かったのだ。サトシはそれを責めるような目はせずに、あくまで少し悲しそうな、寂しそうな、複雑そうな顔をしているままだ。抱き上げたピカチュウを慣れているのだろう、肩に乗せて平気だといわんばかりに笑っていた。

「……助けてくれて、ホントありがとな。…ごめん」

 そう言って扉に向かって歩きだしたサトシの手をつかんだのは、ほぼ反射的なものだった、と思う。そういうなら、そうさせておけばいい。いつもならそう思って何も手を出さずに見送るだけだったはず。だけど、シゲルはサトシの手をつかんだ。それは、ロケット団について知っているだろう彼からの情報を求めたが故か、自分の笑顔を嘘だと言った彼に興味がわいたのか、それともまた別の理由かはわからなかったが、直感的に、彼は自分の力になり得ると思ったのだろう。
 サトシは驚いたように振り向き、シゲルはじっとその目を見ていた。

「じゃあ、正直なことを言おうか。君が出ていって、匿わなかったせいで捕まったら寝覚めが悪いんだよ」

 それはまぎれもなく、シゲル自身の本音だった。サトシもそれをわかったのだろう。シゲルのその目が違うからだ。冷たいまなざしだったかもしれないが、今までの笑顔に付随していた、凍るような冷たさじゃない。これは彼自身の本当。

「だから、遠慮しないでここにいればいい。生活に困ってるわけじゃないからね」
「……」
「嫌かい?」
「そんな、こと…」
「…じゃあ、決まりだね」

 そう言ってまた少し微笑み、ゆっくりと掴んでいた手を離した。サトシは改めてまじまじとシゲルを見たかと思えば、先刻までの悲しげな表情はどこへやら、ふにゃりと表情を緩ませて笑った。

「……おまえ、やさしいんだなぁ」
「…え?」
「心配してくれたんだろ?」
「別に、僕は……」
「あのさ、無理に笑わなくたっていいんだぜ?」
「……何のことだい?」

 シゲルの言葉を阻んでまでサトシが言った一言は、シゲルの顔を少しだけ、歪ませた。別に焦っているわけではない。ただ、この目の前の少年はあまりにすんなりと心の中に踏み入ってくる。そこにシゲルはほんの少しの不愉快さを感じたのだ。

「さっきみたいに本当のこと言えるなら、そうやって笑わなきゃいいのに…」
「…そうやって?」
「笑ってるのに、つめたい」

 確かにサトシはそう言った。シゲルはわずかに驚いたように表情を動かしたが、サトシはそれには気付かない。そのまま言葉を続けていく。

「無理して笑ってたら、おまえだって、おまえの家族だって苦しいだろ?…会ったばっかりのオレも苦しいくらいだもん」
「……何のことか、よくわからないな?」
「…………っの――」
「サトシ?」

 そして、シゲルが頭に軽いとは言い切れないような衝撃が来たのは次の瞬間だった。サトシがシゲルの頭をべし、とひっぱ叩いたのである。

「っ…!?」
「おまえ、バカだろ!」

 サトシが一体何に対して怒っているのか、なぜ自分が叩かれたのか理解できなかった。今までこんな風に怒られたことはない。それに、こんな風に叩かれたことだってなかった。

「なんでそんなになるまで無理したんだよ!ばか!!」
「……?」
「わかんないのは、無理しすぎてるからだろ!それ周りの人に絶対心配かけてるぞ!!」
「………うーん…?」
「……なんか、やだ」

 そう言って俯いてしまったサトシに対してどのように声をかけていいのか判らない。なぜ彼が怒っているのか、心底ショックを受けたような顔をしているのか、シゲルにはわからない。ただ、サトシがとても不思議であるということしかわからないのだ。
 ただ一つ、それでもゆるがないのは、サトシがそう言って怒るのを受け入れられないこと、自分の内面にはまだ立ち入るのを許せないことだけだった。

「なんだかよくわからないけど、ごめんね?…とにかく、一度下におりよう」
「…………」
「ほら、行こう?」

 不満そうな顔をしながら、小さくこくりと頷いたサトシの手を握り、シゲルはこっちだよ、と示しながら階下へおりていく。あくまで自然に握られた手に違和感なく握り返していたものの、人のぬくもりを感じたのはひどく久し振りな気がして、心が少し和らぐのを感じた。

「おじいさま!」
「なんじゃ、シゲ…おお、起きておったか!」
「へっ…あっ、の……」

 一階の広い部屋――リビング、だろうか。そこかしこに本や紙が散らばっており、最低限片付いているとはいえ、確かに普通の家ではないことが窺える。病院や研究所だと言っていたのだから、ある意味当たり前なのだろう。
 シゲルがおじいさま、と呼んでいた人物が机に向かって何か作業をしていたであろう状態から振り向き、サトシの姿を見ると嬉しそうに安堵の表情を見せた。初めて会う人物に嬉しそうに話しかけられ、サトシはどうすればいいのかわからずに慌ててシゲルを見る。

「思ったより元気なようで安心したぞ!……ん?どうしたんじゃ?」
「……だ、だれ…?」
「僕のおじいさんだよ。オーキド博士って言えば結構、名も通ってるんだけどね」

 いきなりですまんな、と笑うオーキドとそうですよ、と笑うシゲルを交互に見比べながら、サトシはきょとんとしており、シゲルはその様子がどこか違和感を覚えた。

「……?」
「えっと…シゲル、おじいさんって…なんだ?」
「…お父さんやお母さんの、お父さんのことだよ」
「じゃあ、家族ってこと?」
「そう」

 少しほっとしたように表情がゆるみ、サトシは笑う。シゲルは少し安心するものの"祖父"という存在を知らないサトシから不思議な印象を受けずにはいられなかった。
 普通の生活をしてきたのなら知っているはず。母親という存在を知っているのだから、それくらい知っていてもよかったのではないだろうか。シゲルは不思議に思う。サトシは、一体研究所でどのように過ごしていたのだろう、と。これまで話をしていた限りでは、サトシの振る舞いがどこか現実離れしているという印象をそこまで受けなかった。だが、ここにきて違和感が残ったのだ。ほんの少し、であったのだけれど。

「じゃあ、しろいの着てるけど、あいつらの仲間じゃないんだ……」

 その呟きを正確に聞き取った人間は、その場にはいなかった。唯一、サトシの心情を理解しており、その呟きを耳にしたピカチュウだけは不安げにサトシを見ながら、なだめるように背中を尻尾でゆるく撫でたのだった。

「……あ、助けてもらって、ありがとうございます!」
「いやいや、助けたのはシゲルじゃからの!身体の方は大丈夫か?」
「大丈夫です、なんか痛い気もするけど!」

 その言葉に苦笑しながらも、数日も眠り続けていたとは思えないくらい、子どもらしく元気に笑うサトシを見て、オーキドは優しくその頭を撫ぜた。

「それは大丈夫とは言わんぞ……しばらくここでゆっくり休むといい」
「…でもオレ、たぶん追いかけられてると思う…いたら、迷惑かけちゃうかもしれないです」
「大丈夫じゃ、ここには下手な術士など相手にならんほどの強力なガードマンがおるからの」
「ガードマン?…ポケモンですか?」
「違う違う!ともかく、心配せんでいい」

 オーキドのあたたかい態度に触れ、サトシも少しずつ警戒を解いていく。じゃあ、と言おうとしたものの、ふと、シゲルが気になってそちらの方をちら、と伺った。そんなサトシの様子を見てまだ気にしてるのか、と少しだけ胸中で苦笑してしまう。

「どうしたんだい?」
「……ホントにいいのか?」
「構わないよ」

 するとサトシの表情はまた一変し、花が咲いたように日が差すように笑った。ピカチュウもサトシの様子を見て嬉しそうに笑い、サトシとピカチュウは嬉しそうに頬を寄せ合っている。

「ありがとうございます!お世話になります!!」
「いやいや。さ、お腹は空いておらんかの?」
「だいじょ、……ぶじゃない、みたい」
「さっそくご飯にするか!」

 数日間も眠っていたままで食事をしていなかったのだ。空腹感を覚えるのは当たり前のことだろう。サトシが大丈夫だと言おうとするものの、身体は大丈夫じゃなかったようで、低く音をたてて、その中が空っぽであることを知らせてくる。恥ずかしそうに笑うサトシを見ながら、シゲルもオーキドもくすくすと笑った。

「ああ、そうじゃ。君の名前を聞いておらんかったの」
「あ、オレ、サトシです!こっちは相棒のピカチュウ!」
「ピカ、ピカチュウ!」
「そうか、そのピカチュウはやはり君のだったのじゃな!ずっと君を心配しておったよ」
「へへ……ありがとな、ピカチュウ」
「ピカピッカ!」

 サトシがピカチュウの頭を撫でれば、ピカチュウは嬉しそうに目を細めてその手にすり寄ろうとしてくる。随分懐いているのだろう、お互いのことを深く信頼し合っているであろうことが、事情を知らずともオーキドにも、シゲルにもよくわかった気がした。

「さあ、すぐご飯にするからね」
「……あ」
「ん?」
「あ、なんでもない……」

 握られていた手が不意に離れ、サトシは少しだけ名残惜しそうに眉を下げた。
 ――……レッドさんみたいにやさしい手だったから、安心できたんだけどな…
 自分と同じくあそこから脱出した仲間たちは今、どこにいるのだろう。ママは、誰かと一緒に居るのだろうか、連れ戻されてはいないだろうか…――どういう風になっているのかもわからない。サトシは今は連絡がつかない仲間たちのことを思い出し、少しだけ寂しくなる。ここには、知っている人は誰もいない。人はあたたかいけれど、白衣を着ていても優しい人が、ここにもいるけれど。

「じゃあ僕、準備してきますね。サトシをよろしくお願いします」
「おお、任せなさい!」
「あ、なんか手伝い…!」
「サトシ、用意はシゲルに任せておきなさい」
「でも、悪いし…」
「大丈夫じゃよ、気にするでない」
「……はぁい…」
「ピカチュ…」

 サトシはじっと、シゲルの消えた方向を見つめていた。背恰好は全然違うとはいえ、髪型、表情、どことなく、知っているあの人に似ている気がした。シゲルのことが気になるのはそれだけじゃない。彼の表情を見ていれば感覚的にわかるからだ。外と関わりを持たないようにしているような、拒絶することで自分を守っているように一見思えるのに、本当は他を守っているような、そんな、不器用な心。

「シゲルが、気になるかね?」
「……知り合いに、似てて」
「知り合いに?」
「…それに、なんかさびしそうで。……気になって」
「シゲルが寂しそうに見える、と?」

 オーキドの言葉にこくん、とサトシは首を縦に振った。サトシの目線はそれでもシゲルがいるであろう方向を見つめ続けている。彼なりに心配しているのだろう。オーキドにとってはそれが嬉しかった。自分にとっては大切な孫だ。それを少しでも解ろうとしているサトシの存在が、ありがたく、嬉しく思えたのだ。

「…そうか。君にもそう見えるんじゃな…鋭い子じゃ」
「オレ、そんなこと初めて言われた…!」
「そうなのか?さあ、席について待っていよう」
「はぁい!」
「ピッカ!」

 嬉しそうな返答が重なり、その場に楽しそうな笑い声がこだました。そしてサトシは心底安心している自分自身に気付く。ここでは笑っていい、ここでは"サトシ"であっていいんだ。あったかい場所。
 ――でも、確実に何かが足りない。



*****



 シゲルが食事を作り終え、テーブルの上を簡単に片付けてからそれを運び始める。今日はコロッケだという言葉を聞き、コロッケが好物のサトシは嬉しそうに顔をほころばせた。オーキドは穏やかに話す二人を見ながら、ほほを緩める。ああ、こんなあたたかな空気はいつ以来だっただろう。サトシの状態もどうやら随分と良さそうだ。食事をとれるのだから、もう殆ど心配はいらないだろう。だが、オーキドが喜んでいるのはそれだけではなかった。サトシがいることで少しずつ変化していくものがあるだろう。そう、どこか期待しているところがあった。

「こんなに賑やかな食卓は久し振りじゃのう」
「研究所のよりおいしい…!!」
「……研究所、とな?」
「いままでいたところれす」

 オーキドはシゲルに視線を移し、その視線を受けたシゲルはうなずいた。
 ――ロケット団。二人の脳裏にはその言葉がかすめていた。

「…ええ、奴らです」
「……あいつらのこと、知ってるんですか?」
「…ああ、知っておるよ」
「仲間じゃないのに、なんで…?」
「言っただろ、知り合いがお世話になってるって。…生死は、わからないけどね」

 サトシは口の中に含んだコロッケをもぐもぐと飲み込みながら、研究所のことを思い出していた。そこにいた研究員、実験体、そこで行われていた残酷なまでの実験のことを。そのことを思い出すとサトシには、シゲルやオーキドの知り合いというその人が生きているとは、どうしても思えなかった。

「…こんな辺境まではなかなか来ないよ、大丈夫」
「………へんきょう?…そういえば、ここ、どこなんだ?」
「マサラタウン。始まりの町だよ」
「マサラタウン!?」

 がたん、と大きな音をたてて椅子から立ち上がるサトシをみて、シゲルとオーキドは驚き、目を見開いた。どうやら知っている場所であるらしい。サトシの表情からは驚愕と安堵、様々な感情がうかがい知れた。

「ここ、マサラタウンなのか!?」
「そうだけど……」
「……ここ、マサラだったんだ…」
「知ってるのかい?」
「オレたち、マサラに向かってたから…」

 力が抜けるようにへとへとと椅子に座りこみ、サトシは呆然としていた。なるほど、と納得したらしいオーキドは頷くが、サトシはふと不安げな顔をのぞかせ始めた。

「サトシ?」
「……オレたち、マサラの出身だから……」
「…たち?」
「研究所で一緒だったひとで…一緒に逃げようって……」
「そうか……別れちゃったんだね」
「…オレを逃がすのにみんな…っ」
「……」
「オレのせいで……!」

 ピカチュウもその人たちのことを思っているのだろうか。目は伏せられ、悲しげな、寂しげな表情のまま俯いてしまっている。それでもサトシを元気づけようとしているのか、ピカピ…と小さく鳴きながらサトシの手の上にその小さな手を重ねていた。

「…大丈夫。きっと、その人たちもみんな無事だよ」
「……」

 俯いたまま小さく頷くサトシの心は、それでも晴れなかった。みんな、みんなはどこへ行ったんだろう。今どこに居るんだろう。連れ戻されたりしていないだろうか。ママはどこだろう。
 不安で不安で仕方なかった。どんなに気丈にふるまったとしても、どんなに元気に笑って見せたとして、彼はまだ、十歳の少年にすぎなかったのだった。




2009.4.13
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