18/空の下で-4






 久し振りに入った部屋は自分が知ったままの形を残していたことに、レッドは安心感とともに絶望によく似た空虚なものを感じていた。レッドにとって家とは孤独の象徴であったし、何より大切なものを失ったことを思い知らせるものでしかなかったのだ。だが、その想いも随分と今は和らいでいる。共にグリーンがいるからであろうか、と思っては少しだけ恥ずかしくなり、不思議な気分だ、とちらりと重い荷物を運んでくれていたグリーンの背中を眺めた。
 ちらちらと脳裏をよぎる光景がある。グリーンの背中を追う視線を少しだけ落とし、この床もあの日、赤々と血で染まったのだろうかと考えてしまう。両親は自分を罵る間もなく息絶えたが、きっと自分を生んだことを悔やんでいたであろうし自分のことを憎んだであろうとも思うのだ。ふとした夜、そのことばかりが離れずにごめんなさい、という言葉が口から洩れるのを止めることができずに何にも泣きすがることもできないまま、眠れずにいたことすらある。
 両親が死んだあの日は、どんな夜だっただろう。冬だったような気がする、とレッドは記憶の糸を手繰り寄せる。自分が浴びたあの鮮血のあたたかさが空気の冷たさによって更に感じられたことをなんとなくだが、覚えていた。
 ――そうだ、あの日は、冬。
 息が凍りそうなほど寒い中で自分の素足が床に冷やされ、感覚をなくしそうなほどびりびりと痺れていたのは、確かだ。

「レッド?」
「ああ、ごめん。……ちょっと疲れたな、飲みものでも飲むか!」
「そうだな、だいぶんすっきりしたし休憩してもいいだろう」
「細かいところは今度にして、今日は休もう。…はい、グリーン」

 レッドは手早くがさりと袋からコーヒーを取り出してグリーンへと手渡し、自分はココアに口をつけた。まじまじと手渡されたそれを見つめているグリーンを不思議そうに見ながらレッドがココアを嚥下しようとしたその時。

「……なんだこれは。泥水か?」
「どっ…ごほ、……コーヒーだよ。知らないか…?」
「コーヒー?」
「そう。ええと、説明するより飲んでみる方が早いよ」
「……飲むのか」

 当たり前だろう、飲み物なんだから、というレッドの声にグリーンはその手の中にあるコーヒーに口をつけた。レッドは安心してまたココアを口に含む。さっきは噴き出してもったいないことをしてしまった。今度はちゃんと飲もう。そう思った瞬間、グリーンが勢いよくコーヒーを噴き出し、レッドはそれに驚いてまたココアを口からこぼしそうになったのを必死に飲みこみ、咽ているグリーンの背中をぽんぽん、と優しくたたいた。

「ど、どうした!?大丈夫か、グリーン!」
「…………にがい…」
「え、そんなに苦いかな、それ…?」

 この世のものとは思えない異形のものを見つめるような顔つきでコーヒーを睨み付けるグリーンにレッドは驚いていた。グリーンが口に含んだそれはミルクと砂糖が多く入っているものであるにもかかわらず、彼はそれを苦いと言うのだ。

「じゃあ、こっち飲むか…?」

 差し出したココアを見て、これは苦くないのか、と小さく尋ねたグリーンにチョコレートみたいな味がして、甘いやつだから苦くないよ、と答えると、こくんと小さく頷いてグリーンはレッドの手からココアを受け取り、コーヒーを素早くレッドの手に掴ませた。大人しくココアを飲むグリーンの横でレッドはコーヒーを一口飲む。やはり砂糖とミルクが多く使われている甘いコーヒーだ。苦味なんてないようなものなのに、と不思議そうにレッドはコーヒーを見つめた。

「……うーん、そんなに苦いか?……まあちょっと苦いけど…」

 そう呟くレッドを見もせず、グリーンは首を横にふるふるふると横に振り、まるでコーヒーの味を忘れようとするようにココアを飲み下していた。そんなに嫌だったのか、と言うとやはりグリーンは壊れたおもちゃのようにと言っても過言ではないほど首を縦に振った。レッドはそんなグリーンを見ているのが段々と面白くなってきた。それに、普段は冷静でコーヒーはブラックじゃないと、とでも言いだしそうなグリーンがミルクと砂糖が入ったコーヒーですら苦くて飲めないということがなんだか不思議で、耐えきれずにレッドは笑いをもらした。

「……なんだよ、レッド」
「いやっ…おま、おまえ、甘党だったんだなあって」
「あまとう…?」
「甘いものが、好きなんだなあ」
「……ああ」

 そういうことか、と納得がいったようだ。グリーンはうん、とまた頷き、レッドは楽しそうに笑っていた。

「じゃあ次からはココアだな」
「ココアって……これか?」
「そう、それ。甘かっただろ?」
「ああ」
「ココアは平気みたいだしさ」
「…これは、美味い」

 そう言ってまたココアを飲むグリーンを見ていると、今度は面白さと言うよりは安心感に近いものが湧き出してくる。ああ、今自分たちはなんて穏やかな時間を過ごしているのだろう。人を殺めることを強要されることもなく、食事だって自分が望むようにとることが出来る。お前と一緒にいると安心する、と言うとグリーンが微笑みながら俺もだ、と答えてくれることがあたたかくて、幸せだった。
 それでも自分はまだまだ貪欲で、それ以上の言葉を求めていることも嘘ではない。グリーンはわかっていないだろう、気付いてなんかいないのだろうけれど。

「……、…あのさ」
「なんだ?」
「研究所、出て……自由になれたけどさ」

 言いづらそうにレッドは少しずつ想いを言葉にしていく。グリーンは黙ってレッドの言葉を待ち、ココアを飲むことをやめた。

「これからも、一緒にいていい?」
「……俺の方こそ、いいのか?」
「よくなきゃ言わないだろ。っていうか……うん、いさせて、欲しいんだけど」

 言葉尻が消えて行きそうだった。言い終わってすぐに自分は何を言ってるのだろうと時間が元に戻せたらいいのになどといったどうしようもないことを考えてしまう自分自身が情けなくて仕方なかった。グリーンの言葉を待つことしかできない少しの時間ですらもどかしく、息苦しくてたまらない。

「……俺も、お前といたい」
「でも俺!……俺のとお前の一緒にいたい、は…多分、ちょっと違うと思う」
「どういうことだ?」
「……あんまり、男同士じゃ言わない感じ」
「それは…――」
「好き、なんだ。グリーンが」

 グリーンの顔を見るのが怖くてたまらなくて、レッドは顔を伏せ、視界にグリーンが、グリーンの表情が映らないようにした。
 ――だめだよな、変だよな、こんなの。
 一緒にいたいと言っておきながら、友達なんかじゃいられなくてもっともっととねだる自分はひどい欲張りだ。ごめんな、こんなこと言われたって困るよな。でも、でも我慢できなかったんだ。

「友達じゃ、なくて…もっと違う意味で」

 ――ごめん、ごめんな、グリーン。

「あはは、やっぱ言われても困るよなあ」
「――…どうして」
「え?」
「……どうして、そんなこと」

 拒絶されるのが当然だった。受け入れられてもらえるはずのない感情であることは知っていた。絶望だ、とは思わなかった。でもやっぱり落胆はしてしまう。観念して顔を上げ、レッドはグリーンに向かって笑いかける。それは痛みを隠した笑みで、決して心からの笑みじゃない。笑えるはずなんてなかったんだ。それでも笑わなくちゃいけない時が確かに存在することを今痛感していた。
 もう偽る必要もないのだから、ただ純粋な気持ちを伝えられたら、と思う。そう思ったらなんだか少しだけ救われた気がした。グリーンにとっては苦痛なことでしかないかもしれないけれど、それでも。

「どうして、とか…わかんないんだ。気付いたら、好きだったよ、グリーンのこと」
「……俺なんか、好きになるなよ…」
「ご…、ごめん……そんなに嫌だったか…?」
「諦めきれなくなる」

 え、と呟いた声が、なんだかいつも以上に響いた気がして、グリーンもレッドも黙り込んでしまう。泣きそうなまでに揺れたグリーンの声にそんなに苦しめていたなんて、と泣きたくなるのを堪えたレッドはその次に紡がれたその言葉に目の前がくらくらしていた。それは、もしかして、まさか、そんな。馬鹿らしい仮定ばかり、自分に都合のいい想像妄想ばかりが頭をぐるぐると廻る。

「それって、どういう意味だ……?」

 ――なあ、言って。それって、もしかしてお前も。

「俺もなんだ」
「…え、」
「……好き、なんだ」

 都合のいい妄想だと自分の考えを否定することばかり頭に言い聞かせていたのに、グリーンから与えられたのはその妄想を肯定する言葉で、レッドは何が何やらわからなくなってきている自分の思考を誰かどうにかしてくれ、と思ってしまう。

「それ、って……俺を?ココアじゃなくて?」
「……いくら俺でもそこまでぼけてはないぞ」
「ええと…俺、正真正銘男だけど、いいのか?」
「男だけど、レッドだろ。それじゃだめなのか」
「…あのな、普通、男の俺たちは女の人に言うものなんだぞ?ちゃんとわかってるか?」
「お前に言われなくてもわかってる」

 ああ本当なんだ、グリーンは自分でいいと言ってくれたのだ、と理解するまで時間がかかったものの、レッドはまくしたてるようにグリーンの答えを求めてはそれをかみ砕いて自分の中に受け入れた。そうすればするほど安心したとは少し違う、疲労感がどっと押し寄せてくる。

「な……なんか気、抜けた」
「……なんだよ、それ」
「いや、だって、嫌われたらどうしよう、とかさ…」

 そう言うレッドを一瞥してため息をこぼすグリーンとて、安心し、あまりの緊張に疲労を感じているのは同じだった。かなうはずもなく、諦めるしかないと思っていた想いを肯定するようなレッドの言葉に自分がどれほどまでに舞い上がったと思っているのだろう、と心中でひっそりと毒づく。

「逆だろ。なんで俺がお前を嫌うんだ」
「逆ってなんだよ!……気持ち悪い、とか思われたらどうしようってすごく緊張したんだぞ、これでも!」
「有り得ないな」
「はは…よかった……」
「……ありがとう、レッド」

 気の抜けた、へにゃりとした笑顔を向けてくるレッドから目を反らし、グリーンはぼそりと、それでも確かに感謝の言葉を口にする。感情を言葉にするのは難しい。だけど、ありがとう、という言葉は驚くほどすんなりと自分の口からこぼれた。自分自身がしたことであるのに、グリーンはなんだかそれがとても新鮮で、驚くべきことだった。

「それ、こっちのセリフだろ」
「ずっと、言わないでおこうと思ってたんだ。迷惑になるから」
「迷惑?……ああ、俺が困るかと思った?」

 そのレッドの問いにグリーンは素直にうなずく。なんだ、こいつも一緒のことで悩んでいたのか。自分は自分が思っていた以上に緊張していたらしく、体の芯から力が抜けて行くような感覚を覚えた。
 ――伝えることは悪いことじゃなかった。
 思ってたことは一緒だな、と苦笑いにも近い笑いをもらしたレッドの横で、グリーンはどこか優しげな雰囲気でそうだな、と笑った。

「……でも、よかった。これからも一緒にいて、いいんだよな?」
「ああ、一緒に…いて欲しい」
「こちらこそ、喜んで」

 そして、体に訪れたのはあたたかい衝撃。ぐっと抱き寄せられ、レッドの体はグリーンに抱きしめられる。その背中に腕を回すことに何のためらいも感じなかった。人に抱きしめられた記憶は自分の中にはないのではないだろうか、そう思いながらレッドはグリーンの抱きしめる力を心地いいと目を細めた。

「ありがとう、グリーン」

 ――あたたかさをくれて、ありがとう。その気持ちは伝わっただろうか。
 好きだとか愛しているだとか、そんな言葉は自分の想いに本当に釣り合ってくれるのかわかなくて、ただ、人を想うそのあたたかさが好きだということならば、自分はグリーンが好きなのだと断言することができる。言葉は価値観によって用いられ方が全く変わってしまう。自分が思うよりもずっと相手にとっては重い言葉であったり、軽い言葉であったりする。
 ぬくもりだけは、そんなことなければいいと思った。この確かなぬくもりだけは確実に、相手に自分の想いを伝えるものであればいい。

「俺こそ、ありがとう、レッド」




2009.9.11
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