14/見えない傷-6






 覚えていたものは諦めに限りなく近い絶望だった。前と後ろを歩く男たちを足音で確認しながら、森の中をまるで忍ぶように音を立てないように移動するまた別の気配があるのを確認し、どうあがいても逃げることは出来ないようだ、とサトシは視線を下げた。
 ――ピカチュウ、ちゃんとシゲルのところまで、戻れたかな。
 マサラタウンにいたら、レッドやグリーン、自分の母親に再び合流することがあるかもしれない。そうなったら、もしかしたら。そんな考えをあるわけないと振り払うようにして首を振り、零れそうになる涙をぐっとこらえてかわいた地面の上をじゃりじゃりと音を立てながら歩いた。
 ふ、と変な、さっきからそばに感じる男たちの気配とはまた別の気配を感じてサトシは思わず後ろを振り向いた。その瞬間、目に入ったのは先ほど別れたばかりのピカチュウと双剣をたずさえた…――シゲル?!

「サトシ、伏せろ!!」
「え、あ…うん!」

 驚いてうまく反応が出来ないサトシを確認したシゲルは石を素早く取り出し、ぐっと力を込める。行け、と小さく呟かれた声とともに放たれたのは恐ろしいほどの熱風を伴った炎だ。突然の攻撃に導術で応戦しようとするにも遅く、サトシのそばにいた男はその熱風に吹き飛ばされてしまう。

「覚悟は、できてるんだろうね?」
「はっ…覚悟?お前こそ、死ぬ覚悟はできているのだろうな」
「――…十二、か。いいのかい、それだけで」

 うまく受け身をとったのだろう、男は舌打ちをしてはいるものの目に見えたダメージは負っておらず、じっとシゲルを睨み付ける。ちら、と自分を取り囲んだ男たちを一瞥したかと思うと余裕そうにふ、と笑みすらこぼして見せるシゲルに男たちはイライラしながらもその距離をゆっくりと詰めていく。

「随分余裕だな?だが……死んで後悔するんだな、行け!!」

 ――速い…!
 駆け寄ってきたピカチュウを抱き締め、シゲルと男たちの様子を窺っていたサトシは驚いて息を飲んだ。シゲルの動きはあまりに速く、それでいてあくまでしなやかだった。圧倒されてじっと見つめているその瞬間に引き抜かれた二本のシゲルの愛刀を前に、彼の正面から襲いかかった男たちは地に伏せたのである。

「なっ…!!」
「……からめとれ」

 音もなく刀の先端で真っ二つに切られた石はまるで柔らかな素材でできているかのように地に落ちる。シゲルの命に応えるように木の根が地面から現れたかと思えば、これもまた凄まじい速さで動揺している男たちの体を締め付け、その口からは苦しげな息が漏れた。

「な…なんなんだ、このガキ……!」

 怯えを孕んだその声をまるで聞こえないかのようにシゲルは何を考えているかもわからない、恐ろしくなるほど無表情で無情な一言を紡ぐ。

「焼き尽くせ」

 そして、夜の森に響くのは断末魔だ。砕かれたほのおのいしの力で木の根に強い火力の炎が宿る。辺りは明るく照らされ、男が焼け焦げるその姿が明確に見えるその光景はこの世のものとは思えない。サトシは魅せられたようにその光景を見つめていたその瞬間、ぐっと腕が引かれ、びくりと肩を揺らしてしまう。
 ――てき、だ。

「触るな!」
「調子に、乗るなよ……っ!!」

 シゲルのその一喝とともに球となった水がサトシを捕まえた男に放たれるが、それを読んでか男はそれよりも素早い。炎で水を相殺し、さらにサトシを拘束しようと力を強めた。

「サトシっ!!」

 その名前をシゲルが呼ぶのが速かったか、サトシがぐっと電撃を男に落とすのが速かったのかはわからない。声を上げて男は崩れ落ちたのを見、最後に残された手負いの黒服の一人は呻く。

「ぐっ…くそ…!!」
「終わり、だよ」

 ぱきん、と石が割れる音がした瞬間、そこには大きな火柱が立ち、悲鳴すら零れさす余裕も与えずに男の体を焼いた。あっという間だ、とサトシがピカチュウを抱きしめて息を吐いたその時、シゲルの体が傾き、その場にうずくまる。

「シゲル!!」
「っ…んで、こんな所に……いる、んだ…?」
「そっ……そんなこと、どうだっていいだろ!それよりお前こそなんでいるんだよ!怪我人のくせに!」

 ぜえぜえと苦しげに喘ぎ、咳き込むシゲルの間近に立ち尽くしたままその背中をさすることもできないまま、サトシは目の奥の熱さを堪えるのに必死だった。
 ――違う、こんなことが言いたいわけじゃないんだ…!!

「……なんで、来たんだよ…!」
「ピカチュ…が…呼んでくれた、んだよ…」
「ピカチュウ、が…?」

 ピカピ、と弁解するようにサトシの服をその小さな手で引き、ピカチュウは訴えかけるがサトシは振り払うように、拒絶するように首を横に振った。

「…だめだろ、ピカチュウ……怪我人連れて来ちゃ。ちゃんと責任もって、研究所まで送るんだ」
「ピカッ!!」
「っ、ピカチュウ!!」
「ピ…ッ」

 伝わる言葉がないことはとても無力であるとピカチュウは思う。少しでもいい、伝わる言葉があればいいのにとその双眸からは大粒の涙がこぼれた。その涙にびくりとサトシは体を震わせ、ばつが悪そうに視線をピカチュウから離してしまう。

「ごめ、ん……でも、ほら…シゲル怪我人だから。な?」
「…サトシ」
「ほら、怪我人はピカチュウと研究所に帰れよ!……シゲル…?」

 そして体に、特に手首に痛みが走ったのは次の瞬間。シゲルが体を起こし、怪我人とは思えないほどの強い力でサトシを木に縫い付けた。何が起こっているのかすぐに理解し、サトシは困ったような笑いを浮かべて見せるが、口元はひきつったままだ。鋭い視線を突き付けられ、そうすることすら許されていない気がしてサトシは唇を噛んだ。

「今ので、よくわかったよ……」
「何がだよ!」
「…出て行くつもりなんだろう」

 だって、と紡ぎそうな唇をサトシはまた噛みしめて必死に笑おうと努めた。自分ではどうしてこんなにも目の奥が熱くてたまらないのか、頭が痛くて苦しいのかがわからなかった。否、目を反らすことに必死だっただけで本当はわかっていた。だからこそ突き付けてくれるな、と心が叫ぶ。

「…なんの、ことだよ……やだなあ」
「とぼけるな」
「っ…とぼけてない…」
「…なら、どうして外にいたんだ」

 もう知らんぷりして背中を向けてくれよ、手首を放してくれと叫びたかった。なあシゲル、シゲルは今どうして怪我してるんだよ、立ってるのもつらそうじゃんか。それってさ、結局、オレがここにいるからだろ、放してくれないからだろ、なあ、オレがいなかったら、いなかったらそんな怪我なんてしないだろ。
 そんな言葉ばかりがサトシの胸中を満たしていく。それを吐露してはいけない、わかっているのにそんな感情ばかりが行き場をなくして目頭から熱となって零れおちようとする。

「さんぽ、だよ」
「へえ……ピカチュウは嫌がってたみたいだけど?」
「お、お前の気のせいじゃないか?」
「……泣いてるよ、ピカチュウ」
「きっと目にゴミが」
「――…じゃあ、家に帰ってもいいんだね」

 ――オレを許さなくていいよ。
 終わりの見えない押し問答にサトシの心は先程までの熱がうそのように心が冷えて行くのを感じる。終わらせなくちゃ。そんな言葉が次第に頭の中で反芻してきた。

「…二人で、先に帰ってろよ」
「どうして一緒に帰らないんだい?」
「まだ、さんぽしたいんだ」
「だめだよ、今日は冷えるから」

 ぐっと引かれたその腕の部分からぞくりと肌が粟立つような感覚を受けながら、サトシはもう自分自身がわからなくなりそうだった。冷えたはずの心がまたすぐに熱くなる。どうして。どうして、放っておいてくれないんだ。

「大丈夫、オレも、すぐいくから」
「駄目だって言ってるだろ」
「……っ!!」
「ピカピッ!」

 ばち、とサトシの体が帯電し、その腕をつかんでいたシゲルの手は弾かれる。シゲルがぐいぐいと引いていたマサラタウンの方向とは真逆に足を向け、サトシは逃げるようにして走った。自分を呼ぶピカチュウの声と聞こえてきたのは、どさりと鈍い音。どきりとして思わず足を止め後ろを振り返ると、そこには地に伏せたシゲルの姿がある。

「ッ!シゲル!!」

 顔面蒼白になりながらサトシはシゲルに駆け寄り、その体を起こす。その際に腹部に触れ、指先に温かくぬるりとした感覚にぶるぶると体が震えるのがわかった。

「ど、ど、どうしよう…!!」
「っ…サトシ……」
「シ、シゲル…は、早く博士に診せないと…!」
「いいから…聞いてくれ……」

 そんなこと言ってる場合じゃないだろ、と声を荒げようとするものの、シゲルの視線は意外にもまだ力強く、ぐっと飛び出しかけた言葉を飲み込むしかない。

「……サトシ…どうして僕が、こんな状態で戦ったか…わかるかい…?」
「…オレのためだろ、シゲル、やさしいもん」
「違う」
「……じゃあ、あいつらが町を襲ったやつらだったから?」

 違う、とまたシゲルは小さく首を振る。首を傾げサトシは困ったように言葉を探すが、これ以上シゲルの問いに対する答えは出てこない。シゲルの唇が動こうとしているがわかり、サトシはそこから零れる言葉を待つ。

「君と、一緒にいたかった…から」
「……オレと…?」

 予想だにしなかった答えにサトシの瞳が大きく揺れた。

「…離れたく、なかった。だから……戦ったのは自分のためだ」
「なっ、なんだよそれ…」
「だから…そのことを気にして出て行こうとするなら……間違いだよ」

 ――なんでそんなにやさしいんだよ。
 喉から震えてうまく言葉を音にできない。サトシは呼吸の仕方すら忘れたように小さく首を振り、シゲルに添えられたその手に力が入ることすら無意識のうちだった。

「……っ…は、はは……やだな…だから、出てなんかいかないって…言ってるじゃん…っ」
「…本当に、かい…」
「だって…っ……オレ、まだ一回もシゲルにっ…勝ててないし…も、もっと、博士に、ポケモン…見せてもらうんだもん…っ…だから………出ていかない、から…」
「……嘘だったら、許さないよ…?」

 ぶるぶると震える声が情けなくて仕方がなかった。ああ、ごめん、ごめんな、シゲル。それでもさ、それでもやっぱりだめだと思うんだ。オレがここにいたら、だめなんだ。

「…僕らの為に、出ていこうとして…その場しのぎで嘘をついてるなら、全部止めてくれ」
「う…そ…じゃ、ない……勝ててない、のも、ポケモン、見たいのも、…出て……行きたくないのだって…」

 それでも溢れ始めた自分の気持ちをせき止めることはできず、サトシは少しずつ言葉を涙とともにこぼし始めた。そこにはたくさんの決意もあった。たくさんの不安だって。

「……けど…オレ、いたら、またっ…あいつら来る…」
「そしたら…さっきみたいに、蹴散らすさ…。僕の強さ、知ってるだろ…?」
「むかつく、その言い方…。……けど…だめだ。オレがいたら…みんな、不幸にする…」

 ちらちらと脳裏をよぎるのは自分をかばって傷つくシゲルの姿。傷ついたような悲しげな表情で目で自分を見つめるシゲルの姿だ。ぜえぜえと苦しそうに毒に喘いでいたのは今からしたらほんの数時間前のことだろう。なのにそんな風に大丈夫だって笑えない。

「…君って、本当に馬鹿だね…」
「ばっ…!?」
「不幸にしてると思うなら…おじいさまに言ってみなよ。きっと、君のせいで変わっちゃった誰かさんのこと、話してくれるから…」
「……誰かさん…?」

 きょとん、と不思議そうに首を傾げ考えても勿論シゲルの言葉の真意なんて解る筈もなかった。はっとしてシゲルをまた見直せば、顔色は真っ青。血液が不足しているのだろう、急いで運ばなきゃ、とシゲルを背に負い、よたよたと家のあるマサラタウンに向かって歩を進み始めた。

「サトシ」
「なに?」
「……もう、出て行こうなんて考えるなよ」

 不意に背後から落ちてきた声に、サトシは素直にうんと首を縦に振ることことはできなかった。

「返事は?」
「…わかんない」
「わかんない、って…」
「だって、オレがいたらみんな不幸になるもん…あいつらがまた来るかもしれない。だから…」

 その先を言い淀むサトシにシゲルははあ、と呆れたように大きなため息を吐く。
 ――まったく、いつものポジティブ思考はどこへ行ったんだか。

「不幸にしたくないと思うなら…一掃するだけの強さを得ればいい。違うかい?」
「…強さ?」
「僕が君を守ったように…守る力をつければいい」
「……力…シゲル、みたいに?」
「いや…僕を越えるぐらいに、さ」

 君にならそれができると思うんだ、とそうとは言わずにシゲルは目を伏せた。そうだ、力。必要なものは傷つける力じゃなくていつだって守り通すための力だ。もっともっと強くなろう、僕も、サトシに負けないくらいに。

「越える、くらい……うん…」

 呟くような小さな声と、確信と決意をもった首肯に思わずシゲルは笑みをこぼし、サトシもそれにつられたように眉を下げて笑った。足元についてきているピカチュウも漸く今まで通りだと安心したような顔をしている。

「…安心したら、一気に痛くなってきた…」
「うわっ…ちょ、あと少しだからがんばれ!」
「そろそろ、限界かも……」

 わあわあとシゲルの傷に響かないようにサトシは走り出し、ピカチュウもそれを追いかけた。

 ――強く、強くなろう。大切なもの全部守れるように。



 オレはもっと、強くて優しい人になりたい。
 シゲルに胸張って、これがオレだよって言えるように。




2009.8.29
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