13/見えない傷-5






 悲しくてたまらなかった。シゲルが傷つくのは見たくない。笑ってくれるようになったと、ようやく平穏に過ごせるのだと思った。だが結局、自分は自分の立場をわかってはいなかったのだ。自分は追われている身、あの大嫌いな場所に、自分は必要不可欠な特別実験体だった。追手が来るのは当たり前だと思っていたし、そこから逃げるのも当然だと思っていた。それなのにいつから自分は平穏な日常を、優しくてあたたかい日常を求めてしまっていたのだろう。ぼろぼろとこぼれる涙はとめどなくサトシの頬を濡らし、喉の奥からは嗚咽がこみあげてくる。

「ピカ、ピカピ…」

 強い力に抱きしめられながら、慰めるように顔を覆うサトシの手に触れ、ピカチュウは切なげに鳴いた。どうか泣かないで、まるでサトシにそう声をかけたがっているかのようだ。しかし、サトシの涙は止まらなければ、彼の胸の痛みすらなくなりそうになかった。

「みんな、オレのせいだっ…オレがここにいるから……!!」
「ピカ!?ピカピカチューウ!」
「違わない!!!」
「ピッ…」

 はっきりとした声でサトシは叫ぶ。ピカチュウを責めているわけではない、慰めの言葉を拒絶したには変わりなかったが、彼が何より拒みたかったのは自分の弱さであり、甘えだった。誰よりも自分がここにいたいと思ってしまった事実。それが大切なものを傷つける結果になるのなら。

「オレがいなかったら、町は襲われなかったしシゲルだって怪我、しなかったし責められなかった!!」

 シゲルが、大きな怪我を負った。いつものように町の警護にあたっていたシゲルが遭遇したのは黒服の――ロケット団員であろう男たち。いつもの輩と同じく研究資料を求めてきた人間だろうと思い、手元には自分が日ごろ扱っている双剣を持ち、ゆっくりと男たちに近づいている。このとき、シゲルは気付いていなかったのだ――そう、いつもの侵入者たちよりも人数が格段に多いことに。その理由はシゲルにはわからなかった。だが、いつもと確実に違ったことはただひとつ、彼らがオーキド研究所のみを襲ったのではなく、マサラタウンをも襲ってまで"何か"を探していたということ。そして、苦戦を強いられたシゲルは彼らの町への侵入を許してしまった。勿論、それでも侵入者たちを一掃することには成功したものの、次に待っていたのは家屋を、道を壊された町人たちの罵倒。

『なんでちゃんと町を守ってくれなかったの』
『町を守るのはあんたの義務じゃない』
『子どもだからって許されない』
『遊びと町とどっちが大事なの』
『博士の孫ならちゃんとやりなさいよ』

 自分たちは守られてばかりのくせに、とふらつくシゲルの身体を支えながらサトシは胸中で悪態づいたが、それでもシゲルは何も反論せずにただ素直に頭を下げ、ひたすらに謝罪をし続けた。
 ――おまえは、わるくないだろ
 サトシは確かに聞いてしまっていた。男たちが探しているものの名前。それは、自分がよく知る名前。

『"ゼロ"がこの辺りで発見されたという情報が入った!必ず逃すな、生きて捕らえろ!』

 ――"ゼロ"
 どんなにシゲルが傷ついても、サトシは本当のことを言うことはできない。あいつらは自分を捜しに来たのだということ、シゲルには何一つ非はなく、自分がいたからあんな風に町を襲われたのだということ。サトシは怖かったのだ。出て行けと言われ、お前がいたからと罵られること、何より、シゲルにそう言われるのが怖かった。

『遅効性の毒じゃと…!あれは処置が遅れる上に性質が悪いものが多い…サトシ!向こうの台所からお湯とタオルを!』

 その結果が、こんなことになるだなんて思ってもみなかった。ロケット団との戦闘でシゲルが負った切傷の中に、武器に毒が塗られていたものがあったのである。じわじわと身体に這いまわる毒に耐えながら、シゲルは町人たちの声を聴き、頭を下げることすらして見せた。だが、そうさせたのはまぎれもない自分。
 オーキドによる素早い治療のお陰でシゲルは何とか持ちこたえたものの、未だ彼は毒が抜けきらない状況のまま眠っている。そう思うとサトシはもうたまらない気分だった。自分にイライラしてたまらなくて、出来ることなら誰かに殴り飛ばして欲しかった。

「ピ、ピィカ…チャー…」
「………オレ、ここ出てく」

 ごしごしと乱暴に目元を拭い、サトシは立ち上がるが顔は俯いたまま、表情は暗い。そんな、だめだ、とピカチュウはサトシのズボンをつかみ、ふるふると首を振った。だが、サトシは少し顔を上げ、ピカチュウに対していつものように笑って見せた。

「ピカチュウ、お前は残れよ。…一緒にいたら、お前も危ないだろ?」
「ピカッ…!?ピーカ、ピカピッ!!」
「オレといたら危ないんだ。お前も…シゲルみたいに、怪我するかも……っ…」
「ピカピ…」

 無理に作った笑顔は胸を締め付ける感情を誤魔化すことはできなかった。サトシの目からはまた大きな涙がこぼれ、つられるようにしてピカチュウの目からもぽた、と雫が落ちた。

「っ…ピカチュウ……」
「チャー…」
「……なあ、ピカチュウ」

 ゆっくりとサトシはピカチュウを抱きあげ、ぎゅう、と一度抱きしめてから顔を離し、その頭をゆっくりと撫でた。その顔に先程のような無理な笑顔はなく、ただ、何かを諦めてしまったような寂しそうな笑みが浮かべられていた。
 ――ただ、わらってたいだけで、ただ、わらってほしかっただけなのに。

「ピカ…?」
「いっしょに、行くか?」
「ピッカ!ピカチュウ!」
「行こう。今なら、シゲルも寝てるし博士も気づかないと思う」
「…ピカ」

 サトシの声にこく、とピカチュウは頷くことで同意をかえす。いつも以上に音には気をつけて扉を開き、また音が立たないようにゆっくりと閉める。こんな風に扉の開け閉めをするのは、シゲルが倒れてしまった時に部屋に入ったとき以来かもしれない。そう考え始めるとまた悲しくてたまらなくってしまう。だめだ、こんなこと考えるのは、やめよう。そうゆるく首を振り、真っ暗な廊下の先をじっと見た。いつもならもうベッドで寝息を立てているような時間だった。それでも、今日はまだ眠れる気がしない。暗い廊下にそろ、となるべく音をたてないようにと足を滑らせ、ゆっくりと階段を目指す。自分が明かりをつけようとピカチュウはほおぶくろに力を入れようとしたが、気付かれたらまずいと思ったのだろう、サトシがそれを手で制して首を横に振ったためにピカチュウはそうすることをやめた。
 階段の段差一つひとつを確かめながら、確実に一階へとおりていく。真っ暗な階段は終わりが見えず、一階へたどり着いた時にはひどく疲れてしまった気すらした。壁に触れながら目指したのは裏口。玄関から堂々と出ていくのは気が引けたし、裏口の方がオーキドがいる部屋も、シゲルが眠っている部屋も遠い。気付かれるリスクを最低限に抑えるにはそうした方がいいくらいのことはサトシにもわかっていた。

「…さ、行こう」
「ピカ…」
「これできっと、マサラタウンはもう今日みたいに襲われたりしないよな、ピカチュウ」
「ピッカ!」
「早く離れないとな。急ごうぜ!」

 空は暗い。どんよりとした雲が夜空を覆い、星は見えそうにもなかった。月のある場所だけは雲が明るくぼんやりと丸く光っているからわかるが、月がはっきりと出ていないお陰で視界は暗かった。夜の空気は少し冷たくて、サトシはぎゅうとピカチュウを抱き締め、笑って見せた。ピカチュウもサトシに応えるようにして笑ったが、いつものように自然には笑えない。楽しくないとき、嬉しくないとき、どうやったら笑えるんだろう。シゲルはどんな気持ちで笑い続けていたんだろう。
 ――こんなの、悲しいだけじゃないか。
 暗い森を歩く。風が吹くたびにさわさわと木々の葉がこすれるおとが響く。昼間ならあんなにも爽やかで気持ちがいいのに、夜に聞こえてくると同じもののはずが不気味にしか聞こえないのはなぜだろう。普段ならびくびくと怯えながら歩いただろう。でも、今のサトシにはさしてそういったものが気にならなかったのだ。サトシは寂しくてたまらなかった。悲しくてたまらなかった。オーキド研究所にいたときから自分の母親や一緒に逃げだしたレッド、グリーンのことを忘れたことはなかったし、早く会えたら、と思っていた。それでも、近くにいたシゲルのことが気になり、苦しそうな顔をしている彼を見るのは悲しかったし笑ってくれたらうれしかった。オーキドのごつくて大きい手は暖かったし、自分を呼ぶときの低い声は優しかった。ふかふかの布団で眠るのは久し振りだったし、人が目の前で作ってくれた料理を食べるのは幸せだった。

「――…たく、ない…」

 目の奥が熱くてたまらなかった。こみ上げるのは寂しさと、悲しさと、涙だ。

「いきたくない、オレ……ホントは、もっと…もっとここにいたいよ…!」
「ピカ…ピぃ…」

 耐えきれなくなり、サトシはその場にうずくまり、ピカチュウを強く強く抱きしめた。ここにはママもレッドさんも、グリーンさんもいない。シゲルも、博士だって。ぬくもりが恋しかった。ピカチュウ、と繰り返しながらサトシは涙を止めることができずに嗚咽を漏らしながら泣いた。心臓がわしづかみにされてるみたいだ。苦しくてたまらない。

「でも…もう、シゲルをあんな目にあわせたくない…やだよ……」

 ぐす、と鼻を鳴らし、涙をぐいと拭ってまた歩き出す。前がちゃんと見えない。自分はどこに向かって歩けばいいんだろう。

「おい、今声がしなかったか…?」
「まさか、ゼロが…!?」

 小さな声だった。でも確実に感じるのは人間の動く気配。まずい、と思った時には既に遅く、眩しい光が当てられ、男たちが駆け寄ってきてしまう。黒い服装をした彼らの影は闇の中にとけており、気付けなかったのだ。いたぞ、追え、という声の方向を背に走り出す。明るい光に視界が塗り潰されているため、ロケット団員たちの気配と声を頼りに走るしかない。そうして走っていると、前方にも人間の気配がした。視界を取り戻しかけていたが、その姿をちゃんと認識できない辺り、彼らも黒服のロケット団の人間だろう。
 ――くそ、戦うしか…!!

「ピカチュウ!!」
「ピッカ!…ピッカチュウゥ!!!」
「ぐあ…っ!?」

 サトシが声をかけるとピカチュウはこく、と素早く頷き、そのほおぶくろがばちばちと帯電したかと思うと、次の刹那、バリッと音をたてて眩い電撃が放たれた。が、攻撃した直後には多少の油断が出来るもの。電撃を浴びせられた男とは別の男たちが素早くサトシとピカチュウを取り囲んでしまった。

「てこずらせやがって…!!」
「…ッ……!」
「さあ、早くこっちへ来い!痛い目に遭いたいか!?」

 逃げたくても逃げられない。もうどうあがいても捕まることは目に見えていた。

「っ…オレを傷めつけたいなら好きにしろよ…けど、もう町を傷つけないって約束しろ!」
「ははっ!随分といい子ちゃんの要求だな!」
「約束するのかしないのか、どっちだよ!!」
「はいはい、それくらい約束してやるさ。お前が素直に戻ってくるなら我々にとってそれが一番だ」
「…ホント、だな?」
「当然だ。嘘はない」
「…………わかった」

 一歩一歩、ゆっくりと近づいていく。
 ――ママ、ごめんなさい。ピカチュウ、ごめん。レッドさん、グリーンさん、ごめんなさい。
 またあの日々に戻るのか、とサトシの目は暗くなる。脳裏によぎるのは忘れたくても忘れないかこの記憶。暗い廊下と真っ白の部屋、真っ白の実験服と、鮮烈な赤。痛みと悲鳴が絶えない場所
 ――シゲル、ごめんな。

「ピ、ピカ…!!」
「…大丈夫。…お前はやっぱり、博士の研究所に戻れよ」

 男たちに近づいていくサトシに不安げに声を上げると、サトシはピカチュウに向かって振り返り、笑ってそう言った。どうしてそんなことを言うの。そう言いたげにピカチュウの瞳は揺れたが、サトシがまた背を向け歩きだした時にピカチュウは男たちの足元をすり抜け、走りだしていた。

「はっ!薄情なポケモンだな。ほら、行くぞ!」
「っ、ひっぱんな!逃げないっつの!!」

 そしてサトシはふと、視線を移す。ピカチュウの戻って行った方向へ。幼い頃からずっと一緒にいたピカチュウ。自分に沢山のことを教えてくれた。あの研究所に戻ればピカチュウも実験を余儀なくされるだろう。それには耐えられなかった。大事な友達が、親友が傷つくのを、苦しむのを見るのはいやだった。だからこれは間違っていないし、その方がきっといい。
 ――オレなら、ひとりで大丈夫だから。
 そしてサトシは、ゆっくりと目を伏せた。




2009.6.26
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