12/見えない傷-4






『…ぼくが、僕が…サトシ…っ』
『ぼくが、殺した…!!』

 血に染まった研究室でサトシを抱きしめて泣いていたシゲルをオーキドが見つけたときには彼がひどく錯乱し、冷静ではなかった。年相応の子どものように声を上げてしゃくりあげて泣く自分の孫の姿に狼狽しつつも、オーキドはサトシの様子を確認する。そして、彼が未だ息をしていることを素早く確かめた直後、自分がやったのだと何度も何度も叫ぶようにして繰り返すシゲルをサトシは生きていると言い聞かせ、漸く落ち着かせたところで、適切な処置をしたおかげでサトシは一命を取り留めたのだった。

「厄介なのはいつの時代も、身体の傷より心の傷じゃのう…」

 オーキドは階段の下から上の階にいる二人を想い、肩を落とした。



  *  *  *



 サトシの傷は随分と癒え、今では自分自身の力で研究所の中を移動することも可能なまでに回復した。おぼつかない足取りや食事をするときに上手くいかない、と腕を必死に動かしている様を見ていればまだ完治には遠いようであるが、それでも随分良くなったものだ。
 それよりも重症なのは、心の傷。あの日以来、シゲルは自室に引きこもりがちになってしまっていた。サトシを避け、オーキドとも必要最低限の会話しかしない。
 そして何度も何度も、サトシはシゲルの部屋の前で話しかけようか、と悩むように扉の前を右往左往する。
 今日こそはちゃんと話そう、話さなきゃだめだ、とサトシは勇気を振り絞ってとんとん、と扉を叩き、サトシは部屋の中にいるシゲルに話しかけた。

「……シゲル。…鍵かけてるだろ…あけてくれよ」

 扉は内側から施錠されており、外からは開くことが出来ない。この声は届いているのだろうか。サトシは不安だったが、それでも扉の前から動かずじっとシゲルの反応を待っていた。
 と、部屋の中の足音が聞こえた気がして、ばっとサトシは俯いていた顔を上げ、扉を、そのドアノブをじっと凝視していた。するとガチャ、と施錠が外される音がして、サトシはゆっくりとドアノブに手をかけた
 ――あいた。

「……シゲル?」
「なんだい?」

 サトシに背を向け、ゆっくりとベッドの方へ戻っていくシゲルはサトシに呼ばれたことでゆっくりと振り返った。しかし、その顔に浮かぶのはまるで出会った頃と同じ、完璧な、完璧すぎる笑顔だった。

「なんで、話、してくれないんだよ……そんな顔して…」
「話してるだろ?」
「話してない!上っ面だけじゃんか!!」
「…じゃあ、どうすればいいのかな?」
「前みたいに、普通に……シゲルと普通に話したい!」
「普通に話してるじゃないか、相変わらず変なことを言うね、君は」
「ふつうじゃない!こんなの、ぜんぜん!!」
「僕は普通だと思うけどな?」

 困ったように笑ってみせるシゲルとの距離がもどかしくて、サトシは泣きたくなる。どうしてそんな風に笑うんだよ、俺たち、俺たちは。
 ――ともだち、って。

「なんでだよ…あれから全然部屋から出てこないし、鍵開けてくれたと思ったらそんな風で……」
「そんな風?」
「……初めて、会ったときみたいだ」
「…サトシ?」

 泣きそうに歪んだ顔をしているサトシに不思議と今は申し訳なさだとかそういった感情は湧かなかった。早く出ていけばいい。オーキド研究所にいることは良しとしたとして、自分の心的領域にこれ以上足を踏み入れさせない。今までだってこれからだって変わらない。ずっと。

「うそばっかりだ。ホントそんな顔、したくないくせに」
「したくないならいないよ?」
「……まだ、気にしてるのか?」
「何を?」
「…この間の、こと」
「………」
「あんなの、もういいから。オレなら全然平気だし。…だから…!」
「いいわけないだろ?」

 シゲルはあくまで笑みを絶やさない。一見穏やかに、にこやかに優しげな表情を貼り付け、自分の心中を決して目の前にいる人間には見せようとしない。それでも、それでもサトシはシゲルの友達でありたいと願った。初めて友達ができたと笑ってくれたシゲルを信じて、友達として一緒にいたかった。

「いい!もう傷だって殆ど治ってるし――」
「傷が癒えたって、やったことは消えない」
「それはそうかもしれないけど、でも、お前はやりたくてやったんじゃないだろ!だからそんなに思いつめることなんてないじゃないか!!」
「そんなに思いつめることなんて?自分を責めるなってことかい?また繰り返すかもしれないのに」
「それは!……わかんないけど、でもっ…」
「でも、何だい?…なあサトシ、わかってる?」

 必死に訴えかけるサトシの言葉を交わしながらシゲルは諭すようにサトシに言葉を突きつける。

「僕は、君を殺そうとしたんだよ?」

 ひとつひとつ区切るように発されたその言葉は悲痛で、ちくちくとサトシを傷つけるための言葉だ。シゲルは優しいから、本当は傷つけるのがいやだから近付かないようにサトシにわざとその言葉をぶつける。サトシにだってそのことはわかっていた。でも、それでもそこで引いたらまたシゲルはひとりぼっちのままだ。

「………わかったら、僕に関わるのはもうやめなよ。気遣ってくれてありがとう」
「……わかった」
「ん、よかった。ごめんね?」
「わかった、はっきり言う」
「…は?」
「痛かった!おもいっきり!!」

 声を張り上げ、サトシはそうはっきりと言い放った。予想だにしなかったことにぽかん、としたシゲルにずかずかと詰め寄り、サトシはその大音量の声でまだ続ける。

「すっげえ痛かったし苦しかったし、本気で死ぬかと思ったんだからな!!」
「ご、ごめん…ごめん…」
「声が小さァい!!もっとでかいこえで!きっちり謝れ!!」
「っ!…ご、ごめん!」

 あと少しで鼻先がつこうかという距離でサトシにじっと見つめられ、シゲルは思わず後ずさりしてしまいたくなるが、今はそれをしてはいけない気がしてぐっと動かずに我慢し、サトシを見つめ返した。

「…しょーがない。謝ったから許してやる!」
「……」
「謝りもしないで引きこもってるのムカつくんだよ!うじうじしやがって!もうやんなきゃいいだけの話だろ!!」
「…そんな簡単に…」
「だって。誰だって間違うだろ?」
「いや、それにしたって間違うにも限度があるだろう?」
「正せるから問題なし!!」

 そう言いきり、腰に手を当ててふんぞり返るサトシを見つめているうちになんだか今まで色んなことを思っていた自分がとても小さな気がして、シゲルは身体中から力が抜けるような気すらした。
 くすくすと笑いだしたシゲルを怪訝そうな顔で見つめながら、それでもよかったのだろうか、とじっと見つめていた。

「…人があんなに悩んでたって言うのに、君は…」
「お前は悩み過ぎなの!ハゲるぜ!?」
「それはいやだなぁ…」
「だろ?!なら、んな悩むな!謝ってもらったし、オレもう気にしてない!」
「……うん」
 ふわりと笑って見せたシゲルを見て、サトシは満足げにうなずき、へへ、と自身も嬉しそうに笑った。純粋にこうして笑えることがサトシには何より嬉しかったのだ。もう、シゲルはあんな冷たい眼をしていない。
 そう嬉しそうに笑うサトシを、シゲルはぐっと引きよせ、抱きしめた。

「…サトシ」
「んお?」
「いいって言ってくれたけど、もう一度謝れせてくれ。……ごめん」
「…うん」
「それから、許してくれてありがとう」

 嫌われても仕方ないと思っていた。拒まれて当たり前だとすら思った。それでも、サトシはそんな風に笑うなよ、と悲しそうに自分のことを引きとめてくれる。サトシはやっぱりあたたかく、これ以上に無邪気に、素直に感情を表す人間などシゲルは知らなかった。

「お礼言われることじゃないぜ?」
「僕が言いたいんだよ」
「…どういたしまして?」
「うん」

 シゲルが笑うのが嬉しかった。嬉しくてたまらなくて、サトシはシゲルをぎゅう、と抱きしめ返す。ありがとうと言いたいのは自分だってそうだった。言ったら変な顔されるだろうから、せめて、と抱きしめる力をこめ、サトシは顔を緩ませる。
 と、シゲルが大きく息を吐き、力を緩めたのを感じ、自分も力を緩めてその顔を覗き込むと、疲れきったような、でも満足気な顔をシゲルはしていた。サトシから手を離し、自分の腹へと手をやり、ずるずるとその場に座り込む。また何かあったのだろうかと少し焦りとともに驚いたサトシにむかって少し恥ずかしそうに笑いかけた。

「安心したら、お腹すいてきた……」
「じゃあおやつ、食べようぜ!オレもすいた!」
「そうだね…ずっと何も食べてなかったからなぁ……」
「自分が引きこもってたんだろ、シゲルは!」

 叱るように言い、サトシはシゲルの頬をぺちぺちと叩く。そうだね、確かにそうなんだけど、と苦笑いをしてシゲルは立ち上がり、ごく自然にサトシの手を取る。他愛もない話は続き、階下へと降りて行く。
 ぱたぱたと響く足音はふたつ。その音は軽く、二人の少年の笑い声が聞こえてきた。すぐに姿を現すであろう二人の笑顔を待ちながら、オーキドは微笑んだ。




2009.6.24
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