10/見えない傷-2






 目が覚めたとき、どうして自分が眠っていたのか解らなかった。いつ眠りに就いたのかも覚えていなければ眠る直前の状況が全く思い出せない。目を開けばそれはいつもの自分の部屋の天井だったが、もちろん自分は普段眠る時の格好をしてはいないのだ。

「あ…!」
「……?」
「シゲル、大丈夫か?」
「…、サトシ…?」
「よかった…」

 サトシもサトシの膝の上にいるピカチュウも嬉しそうに顔を見合せている。自分が未だになぜここにいるか解らないシゲルはふわふわと揺らぐ意識を手繰り寄せるように視線を空中に彷徨わせ、ゆっくりと身体を起こそうと腕に力を入れた。

「あ、まだ寝てろよ!」
「……大丈夫…」
「ならいいけど…すっげ顔色悪かったし…ホントに大丈夫か?」
「ああ…。僕…なんで、寝てたんだ…?」
「覚えてないのか…?」
「なんか、頭がはっきりしなくて…」
「お前、倒れたんだぜ?」
「………え…」
「えっと…玄関、で…。いきなり倒れるから、びっくりしたぜ」

 言いづらそうに目をさまよわせ、苦笑いしながらそう言ったサトシにシゲルはようやく記憶の糸をつかんだ。

 ――そうだ、僕は…

 ざわざわと指先から不快感が這いあがってくる。もう思い出したくない、もう何も。視界が揺れ、指先の不快感を握りつぶしたくなる。なんだろう、どうしてこんな。

「…あ、…」
「シゲル…?」
「う…、…」
「…どうしたんだよ?まだ気持ち悪いのか…?」

 ギシ、とベッドが軋んだ。サトシがシゲルの肩に触れた瞬間にシゲルはその手を弾き、後ずさりながらガタガタと震え始めた。呼吸が乱れている。その様子を見、またシゲルがひどいストレス状態にあることを知ったサトシはどうにかしなければと気が焦っていた。

「シゲル、大丈夫だから…!」
「っ!!」
「うわっ!…し…シゲル……」
「……っ、…」
「ッ、シゲル!!」

 再度肩を触れても、また同じように弾かれてしまう。シゲルはひどく憔悴していて、傷ついている。ガタガタと震える彼の顔色は青く、目を見開いているままだ。どうすればいいのか解らずに呆然とシゲルの様子を見ていたサトシは振り払われたときに尻もちをついたその体勢から立ち上がり、シゲルにぐっと抱きついた。そのぬくもりから逃れるように、拒むようにシゲルは乱暴に暴れるが、サトシは離れようとしない。大丈夫だ、大丈夫だから。そう何度も何度もシゲルに声をかけながら。

「もう、荷物…ないから…!怖がらなくていいんだ…っ!」
「…っ……」
「大丈夫…大丈夫だから…」
「、…サト…シ…」
「…シゲル、…おちついたか?」

 かたかたと震える指先を自分で抑え込むように握ったシゲルは静かにこくん、と頷いた。良かった、とサトシは息をつき、シゲルから身体を離す。サトシとシゲルの両方を心配する様に二人を少し離れて見つめていたピカチュウもほっとしたように二人に駆け寄っていく。

「………ごめん」
「気にすんなって!落ちつけてよかったぜ!」
「でも…サトシ、けが……」
「ん?こんなのへっちゃらだって!仕方ないじゃん、思い出してやだったんだろ?」
「……」
「いっ…!」

 背中を少し庇うように意識してまた笑ったサトシを見て、シゲルはそっとその小さな背中を撫でる。と、サトシは痛そうに顔を歪めた。少し触るだけでも痛いんじゃへっちゃらなんかじゃないだろう、とシゲルは自分が何かをしたかすらも曖昧であることが申し訳なくて仕方がなかった。よっぽど酷く暴れたのだろう。そう予想することしかできない。

「ごめん…」
「だ、大丈夫だってこのくらい!全然!!」
「……」
「ホント大丈夫だって!全然痛くないし!」
「痛がっただろ、さっき」
「びっくりしただけだって!な、ピカチュウ!」

 突然話を振られ、二人の視線にさらされたピカチュウも少しびくりとしたものの、サトシの必死の視線の訴えに大きくこくこくと頷くことしかできない。
 そんな見え透いた嘘、と思った。わかりきっている嘘をどうしてわざわざ声高らかに言うのか。お前のせいだ、お前が暴れた所為で痛くてたまらないとでも言えばいいのに。どうしてこの子は、この子たちはそうしないのだろう。彼らは優しいのだろう。そうとわかっている筈なのに彼らを疑ってしまう自分が、彼らの優しさを疑ってしまう自分が情けなくて仕方がなかった。

「ごめん、気遣ってくれて…ありがとう……」
「……シゲル…」
「…ごめんね」
「謝るなよ…」

 何と声をかけていいのかもわからず、サトシは肩を落として視線を少し下に落とす。シゲルももやもやとする自分の胸中を処理しきることができず、行き場を失くしたようにさまよった手は胸元の首飾りへとたどり着いた。

「…それって……」
「…母さんの持っていたものだよ」
「かたみって、いうやつか…?」
「博士から聞いたのかい?」
「うん……」
「そっか…それで、驚かなかったんだね」
「…うん」
「嫌なこと聞かせたね。…ごめん」
「いや…オレの方こそ、聞いちゃってごめんな」
「僕は構わないよ、大丈夫」

 どこか上手くいかない言葉のやり取りに結局二人の間には沈黙が流れてしまう。サトシは気まずい沈黙が大の苦手だった。何か、何か言わなきゃ――なぜかそうやって焦ってしまうから。この時も同じで、サトシはそわそわと何か言わなきゃ。そうだ、シゲルにちゃんと言いたいこと、あるじゃないか、と言いだすタイミングをうかがうように口をもごもごと動かした。

「………あの、シゲル?」
「……ん?」
「お、オレも手伝うから!!」
「へ…?」
「犯人!捜すの手伝う!!」
「ちょっ、え…」
「んで、そいつの頭、床にごりごりさせてやるから!!」
「ご、ごりごりって君…」
「謝られても気持ちはおさまらないだろうけどさ…それでも…!」
「……サトシ…」

 大きく身振り手振り必死に自分の本気を伝えようとするサトシをぽかん、とした顔でシゲルは眺めていた。どうしたら信じてもらえるだろう、と試行錯誤した結果がこの言動なのだろうか。なんて、なんてあったかいんだろう。

「だからっ…その………元気、出せよ…」
「……」
「…や、やっぱ元気出ないか…?」
「……いや、」

 くす、と笑った。その時、確かにシゲルはおかしそうに笑ってみせたのだ。すると、つられたようにサトシもへら、と頬を緩ませ、嬉しそうに笑う。

「ホントか?」
「ホントだよ。サトシのお陰で、元気が出た」
「よかった!」
「……本当に…ありがとう、サトシ」
「い…いいって!あんま言うなよ、照れる!」
「わかったよ」

 そう言うサトシが心底恥ずかしそうに慌てた所為で、ピカチュウもシゲルも一緒にくすくすと笑った。そんなに笑うなよな、とむすっとした顔でその頬をぽり、と指で掻くがその顔がほんのり赤く、照れ隠しの意味もない、と思っても口にせずにまたシゲルは笑った。
 そしてシゲルがまたサトシに視線をやると、サトシは神妙な顔つきで自分のことを見ていたということに気づき、じっと見つめ返してしまった。何やらサトシはまだ言いたいことがあるのか、言いにくそうに今までの声よりは控え目にぼそぼそと言いだした。

「……、あの、さ…シゲル…」
「何だい?」
「……見つけたらさ…シゲルはどうしたいんだ?」
「…母さんと父さんを殺した奴、かい?」
「うん…」
「さあ…どうかなあ……それは本当に、その時にならないとわからないかもしれないな」
「じゃあ!……じゃあ、みつかって、そのあと…お前も死んだりとかしないよな?」
「え…」
「……博士が…見つかってたら死んでたって…」
「博士が、そんなことを…?」

 言っちゃまずかったかな、と少し身を引いてしまったサトシだったが、言ったものは仕方ないとまたちゃんと椅子に座り直し、うかがうようにシゲルを見る。シゲルはまさかそんなことを訊かれるとは思っていなかったのだろう、驚いたような顔をしていた。それもそうだろう、サトシのその言葉はなんの脈絡ものないものだった。
 こくん、とシゲルの問いに肯定の意を示したサトシにシゲルは苦笑いを浮かべたが、オーキドがそう心配するのも無理のない話だろう、自業自得だ、とも思う。

「そんなの…いやだから……」
「…ありがとう」
「え…」
「そう思ってくれて、ありがとう」
「し…心配するのは当たり前だろ!ともだちだし…」
「友達…?」
「…?うん、ともだち」
「………そ、うか…友達…」
「あれ……お、思ってたの、オレだけ?」

 噛み締めるように口の中で反芻させるシゲルにサトシは戸惑いを隠せず、情けない声が出てしまうのをこらえきれなかった。おじいちゃんは知らなかったけど友達は知ってる。凄く暖かくて、大切で、嬉しくて幸せなものだ。そう教えてくれたのはピカチュウと、あの人たち。

「……いや、というか…僕、今まで友達っていなかったからさ」
「え…そうなのか?」
「うん。…先輩みたいな人ならいたけど、友達はいなかったんだ。だからよくわからなくて」
「ふうん…?じゃあ、オレが最初の友達だな!!」
「そうだね」
「へへ…だからな、心配するの、当たり前なんだぜ?」
「……そっか…」
「…だから、見つかっても、死んだりしないよな?」

 うん、そうかもしれない。友達に何かあったら心配するし、悲しい。そういう感情は懐かしさを持っているけれど、確かに感じたことのあるものだとも思う。
 大切なものを失くすのは、さびしいのだ。言及するように先程の問いを続けるサトシにシゲルは曖昧に笑ってみせるだけだった。なんて言ったらいいのか解らなかったのだ。本当に、自分がその時にどうするかだなんて解らなかった。

「…、……答えないなら、大丈夫だって思うからな」
「……ごめん」
「なん、で…謝るんだよ、ばか」
「…絶対死なないって、まだ言ってあげられないから。ごめんね」
「…そんな、」
「でも」
「……」
「でも、ありがとう、サトシ」

 ――君がそう言えてくれたおかげで、何かあった時に僕が生きている確率はぐんと上がった気がするんだ

「…、……うれしくない」
「ごめん…」
「あやまんな」
「…うん」
「……オレ、博士にお前起きたって伝えてくるな」
「ああ、うん、ありがとう」

 ピカチュウをぎゅっと抱き上げて扉から出ていくサトシの顔は暗く、どんな表情をしているのかシゲルには知る手だてがなかった。でもきっと優しい彼のことだから、悲しげに顔を歪めているのだろう。信じてないわけじゃないんだ、と思っていることを口にしてもまるで言い訳のようで聞き苦しいだけだ、とシゲルは何も言えずに笑ってサトシの背中を見つめることしかできない。

「ごめんね」

 それでも、その一言だけは我慢できなかった。サトシの耳にはどう響いただろう。もっと素直に友達と呼べる存在が近くにいてくれることを感謝できればいいのに。もっと素直に、サトシのように上手に感情を表現できれば良かったのに。
 閉まった扉の先を想いながら、シゲルはゆっくりと目を伏せた。




2009.6.23
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