この極寒の地に腰を落ち着かせてからしばらくが経った。はじめさんは早朝からお勤めに出掛け、日が沈む頃に帰ってくる。私は家事をこなしながら彼の帰りを待つ。昔の生活とは大分変わってしまったが、静かに彼の帰宅を待っていることだけは変わらなかった。 「今、帰った」 「はい」 玄関先から聞こえてくる低い声。それはいつもと同じものだというのに、今日だけは少し緊張してしまう。彼にあまり悟られぬよう細心の注意を払い、普段通りを振る舞う。 「お疲れ様です」 「ああ、ありがとう」 「先に、夕食を取られますか」 「そうしよう。……千鶴?」 「はい、……支度をしてきますね」 けれども、やはり彼に隠し事はできないらしい。深く尋ねられる前に彼の側から逃げ出し、少しの間だけでも距離をとる。いっそのこと正直に伝えてしまったほうが、楽というものだろうか。しかし、こわくてそれがなかなかできない。悶々と考えているうちに支度はすべて整い、彼と二人、あとは食べるだけとなった。 「いただきます」 「はい、どうぞ」 質素な生活だけれど、なんとかやっていけている。けれど、これ以上人が増えたらどうだろう?彼は、はじめさんは、何と言うのだろう。それだけがこわくて、恐ろしくて、私はなかなか言い出せずにいる。そんな私の様子に、はじめさんが気付かないはずもないのだけど。 「千鶴、どうかしたのか」 「え、と」 「俺には言えぬことなのか」 「いいえ、違います」 「ならば言ってくれ」 ここまで来たら、言う以外ないだろう。彼を信じるしかないのだ。口を開くと同時に涙がこぼれ、それにはじめさんの動揺した様子が伝わってくる。震える手を強く握り、顔を伏せた。甲に、しずくが滴り落ちる。 「子が、います」 「……は」 「あなたとの、子が、ここに」 そっと腹に手をやると、身体全体に衝撃が走る。あまりにも突然で思考が追いつかないが、どうやら私は、はじめさんの腕の中にいるらしい。彼の吐息を側で感じて、少しだけ身体の強張りが解けた気がした。 「それは、本当なのか」 「医者が、そうだと」 「そうか……」 「……はじめさんは、いいのですか」 子を育てるというのは、容易なことではない。ただでさえこのような環境なのだ、不安を感じずにはいられない。何よりも、彼からの拒絶がこわい。まだ震えたままでいる手を抑えるように、白くなるほど強く強く握ると、それをほぐすようにはじめさんの手が私の手を包みこんだ。 「当たり前だろう」 「でも」 「俺は、嬉しい」 「はじめさん……」 「俺とお前の子を、産んでくれないか、千鶴」 彼にそう言われて、やっと身体の力がぬけた。すべての震えを落ち着けるように、思い切り抱きしめられる。涙が止まることはなかったが、それの持つ意味が不安から安堵に変わったのは確かだった。もうすぐそこに、春はやってくる。 ――――――― |