最近、松田くんの元気がなかった。
彼女さんと別れてしまった事が原因らしい。噂好きの後輩からそれを聞いた私は、とてつもなく驚いた。お相手に会ったことはないけれど、お似合いのカップルだと思っていたから。

同じ警察官として一緒に働く中で、同期という事もあって松田くんとはそれなりに仲が良かった。例えばそれは現場でのチームワークからなるものだったり、あるいは同じ上司を持つ者同士愚痴を言い合える事だったり、はたまた警察官として日本の未来をたまに憂いてみたりと、まあ結局は職務上でしか成り立たなかった関係なんだな、と今になって思う。
でも硬派で通っている彼が唯一職場で自分から話し掛ける女というのが、私だったのだ。

そんな訳で、気付けば私はうっかり彼に片思いしてしまっていた。だがしかし現実とは常に厳しいものである。松田くんには素敵な彼女さんがいたのだ。同じく同期の萩原くんがこっそりプライベートで盗撮したという2人の写真を見せてくれた時、それはそれは動揺した。
だって、あの愛想の悪い松田くんが、とても柔らかい視線を彼女さんに向けていたのだから。
写真を通しても伝わる2人の仲睦まじさは、いとも簡単に私の想いを打ち砕いてくれたのでした。さよなら私の恋。これは墓場まで持っていきます。
そう思って1年が経った時だった、そんな噂が流れてきたのは。

松田くんは、いつも通り淡々と仕事をこなしていたけど、普段より口数が少なくなった。もっと言えば親友の萩原くんと一緒にいるところを見る機会が減った気がする。え、なんで?松田のいるところに萩原あり、署内でそんな名言作られてなかったっけ?

そして、結局私からその話に触れる事も出来ずに、少しの違和感を抱えて1ヶ月が経った頃。仕事終わり、松田くんに飲みに行こうと誘われた。

「ん?ああ、久しぶりにみんなで行く?誰が集まれるかなあちょっと連絡してみ…」
「…や、出来れば2人が良いんだけど」
「へ」

驚く私を余所に、松田くんは首を傾げてだめか?と言った。

あ。
墓場まで持って行こうと仕舞い込んだはずの想いが、せり上がってくるような気配がした。





署内の飲み会でもよく使う居酒屋の半個室席。
まさかここに松田くんと2人で来る事になるなんてなあと内心どきどきしながら向かい合わせに座る。私の想いいざ知れず、松田くんは涼しい顔で色々と注文してくれていた。
いつもの元気がない。きっと飲みたい気分なんだろう。ならばとことん付き合いますよと心の中で呟いて、あえて明るく「かんぱい!」とすぐに運ばれてきたビールのグラスをぶつけ合った。その時松田くんは一瞬目を見開いた後、子供の様な笑顔を見せてくれて、すごく嬉しくなってしまったのはここだけの話。

暫く経って段々と酔いが回ってきた頃、松田くんはぽつりと話し始めた。彼女さんと別れてしまったこと。だいぶ前から仲が冷めてしまっていたこと。お互いにそれを修復する努力が足りなかったこと。
私は、うん、そっか、とか相槌を打つ事しか出来なかった。

一区切りつけると、彼はごとんと額をテーブルにぶつけた。ふわふわした黒髪がテーブルの上で揺れている。

「…手、かして」
「え?」

俯いたまま松田くんは、私の手を握ってきた。

テーブルの上で、縋り付かれた様なてのひら。
ごつごつしてて、いつもは爆弾をいとも簡単に解体してるくせに、今はこんなにも弱々しい、熱い、男の人の手。

「…なっさけねえ、俺、なんも言えなかった」
「…彼女さんのこと?」
「うん。…あいつ、寂しかったんだな。でも俺は全然気付いてやれなかった。大切にしてたつもりだったけど、仕事が忙しいのを尤もらしい理由にして、いつからか逃げて。…だから、あいつは」

消え入る様な小さな声で、その後何かを呟いて、松田くんは言葉を切った。
ぎり、と奥歯を噛み締めて。その目には恐ろしい位の、懺悔の念。
一体2人の間に何があったのかはわからない。ただ私は、悲しい擦れ違いだったんだろう思った。
ぼんやり繋がれた手を見つめながらそんな事を考えていると、松田くんはまた言葉を紡いだ。

「お互いのベストな選択肢が離れる事だったと思ってる。だから別れた事は後悔してねえんだけど」
「うん」
「…努力を尽くせなかった自分が、情けねえっつーか…」

松田くんが、くしゃりと顔を歪める。

繋がれた手が熱い。
私が、熱いのか。
仮にも好きな人に手を繋がれて。いつも強い人が弱い所を曝け出していて。彼は一体何を考えているんだろう。
いや、松田くんは今心が弱ってるんだ。私なんか眼中になくて、そこに手があったので、くらいの感覚でこうしているに違いない。そう思わないと、胸の奥に押し込んだ想いが今にも暴れ出して叫んでどうにかなりそうだった。

「…苗字…?泣いてんのか?」
「へ、え?な、うそ」

自分でも気付かない内に、ひとつぶ大きな涙がこぼれ落ちていた。
そのままぽたりぽたりと、堰を切ったようにどんどん溢れてくる。

「ご、ごめん、ぅ」
「……」

向かいに座っている松田くんは私の手を握ったまま、沈黙していた。私はその沈黙が怖くて、俯いたまま涙を流すだけ。

悲しいのか、苦しいのか、感情がぐちゃぐちゃになってわからない。
ただ松田くんが発する言葉が全て『彼女』へ向けられているという事実が、辛かった。
そこに私はいない。私はあなたの目の前にいるのに。

すると、ふと手の中のぬくもりが消えた。
あ、と思う間もなく、すぐに隣に松田くんの気配がした。

「まつだ、くん?」
「…泣くなよ」

そう言って私の隣へ身体を滑らせた松田くんは、そっと私の頬に触れた。
少ししか、指先しか触れていないのにそこがとても熱くて、松田くんの目が熱をはらんでいて、私は、私は。

「お前に泣かれると、どうしたらいいかわかんねえ」
「そ、んな事言わないでよ…。納得してても、未練はあるんでしょ…?」
「……」

ほら沈黙は肯定だよ松田くん。
そう言って明るく振り払おうとして、気付いたら私は松田くんに抱き込まれていた。

「…俺は」

狭いシートの中で、彼の体温を感じる。
松田くんの声が、耳のすぐ側で聞こえる。ああ、こんなにも低くて綺麗な声だったんだ。

「嫌だったら、殴ってくれ」

掠め取るようなキスが、落とされた。



「んんんんんん」
「なに唸ってんだよ」

居酒屋からの帰り道、私は松田くんに手を繋がれてゆっくりと歩いていた。何とも形容しがたいこの気持ちと状況だというのに、彼は楽しそうに私を見ては繋いだ手をぶらぶら揺らしている。何なの初々しいカップルみたいで小恥ずかしい…いやいやていうかさっき…。
そんな私の考えを見透かしたのか、松田くんは悪戯っぽく笑う。

「お前が殴らねーから」
「…松田くんは、ずるいよ。私が好きって気付いてた?」
「ん、それはさすがに気付いてなかったけど?」

松田くんって、こんなに優しい顔するんだ。
お酒と恥ずかしさで火照った熱い頬を包むように松田くんの手のひらが添えられた。それはかつて私が見てしまった、写真の中の松田くんの瞳。

「…ねえ、ほんとに未練ないの?」

そっと問い掛ける。
この手をとりたい。
もっと一緒にいたい。
でも、そんなことありえるのだろうか。

「だーいじょうぶだって。うだうだ語っちまったけどお陰ですっきりしたし…あいつらも、俺ももう大丈夫だ。それに、気付けた」

…あいつら?
どういう事なんだろう、それを考える暇もなく、松田くんは爆弾発言を落としてくれた。

「今の俺は苗字が大好きだってこと」

そう言ってこんなにも晴れやかに笑う彼を、どうして拒否できるというのでしょう?
あまりの嬉しさに、私は繋がれた手を痛いくらいの力で握り返してやった。


2020.06.17
萩原短編の「鬼さんこちら」とリンクしています。
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