五万打企画 | ナノ
あんな事やこんな事





あっという間に3年かあ。カゴいっぱいのボールを運びながら、ふと思った。コートからは部員たちの声が絶えず聞こえてくる。

うちの部活は、監督があんな感じの割に、テニス部員たちの仲は結構良い。マネージャーのあたしに対しても、みんな親切で優しい。その中でも甲斐はとくによく話しかけてきてくれる。


「マネージャー」

「あ、甲斐」


振り返ると、首にタオルをかけた甲斐が立っていた。


「どうかした?なんか足りないものあった?」

「あらん」

「?」

「それ」


貸して、と言いながら伸びてくる大きな手。甲斐はあたしが持っていたカゴをひょいと持って歩き出した。


「ありがと」

「マネージャー、小さいから危なっかしい」


そりゃあ、甲斐に比べればね。一年の頃に比べたら随分おっきくなったよなあ、男の子はあっという間に変わっちゃうなあ。そんなことを考えながら甲斐の後ろをついていく。歩く度に甲斐の髪がふわふわ揺れて、犬みたいだなって考えてたら少し笑ってしまった。「甲斐、犬みたい」と言うと、振り向いた甲斐の顔がなんだか不機嫌そうでそれにまた笑った。


キツい部活がようやく終わり、みんながクールダウンしている最中、あたしは監督に呼ばれた。職員室までついていくと、部活に関係無いんじゃないかと思う仕事を色々と任され、片づいた頃には学校に生徒は一人も残っていなかった。それどころか廊下までもが暗い。「非常口」のライトと外から入る月明かりだけを頼りに歩く。まったく晴美のやつめ、女の子にも容赦しないのだわ。

ようやく部室に着いた。早く着替えて帰らなきゃ。せっせと着替えを済まして、部誌を開く。部誌には時々部員たちのコメントが入ってることがあるから少し楽しみだったりする。今日は‥珍しい、木手だ。なになに「部室が汚いです」‥苦情?部室を見渡すと確かに汚かったからとりあえず少し掃除した。最後に部誌をつけて棚に戻す。カバンをしょって、いざ帰ろう。


「う、わあっ」


ドアを開いて鍵を閉めようと振り返ると、隣りに 人影が見えてものすごくびっくりした。微かな月明かりのなか、よく見るとそれは甲斐だった。部室の外でずっとしゃがんでたみたいだ。


「甲斐、何やってるの?忘れ物した?」

「‥やーぬこと待ってたさー」

「え?何で?」

「晴美に呼ばれてたから‥」


甲斐が口をとがらせたまま続きをしゃべろうとしなかったから、心配してくれた?と聞くとバフっと帽子を被せられた。顔をあげた時には甲斐はもう歩き出してたけど、ほのかに赤い顔をしているようだ。なんか、可愛い人だなあ。

月明かりの中を二人で歩く。ふと、後ろを振り返るとあたしたちの影が二つ。甲斐の手の影に自分の手の影を重ねる。なんだか影だけは恋人みたいだと思った。


「マネージャー、バスだっけ」

「ううん、歩き」


パッと自分の手を後ろに隠した。別にやましいことしてたわけじゃないけど。


「‥甲斐ってさあ」

「ぬーやが」

「あたしの名前呼ばないよね」

「‥マネージャー、で慣れてっから」

「んー、そうなんだけど‥」


実はずっと浮かんでいた疑問だった。何が不満?みたいな意味がこもっているのか、背の高い甲斐が前屈みであたしの顔をのぞく。だって、名字すら呼ばれないのってなんか悲しいじゃん、そう思うのはあたしだけなのかな。


「甲斐、あたしの名前、名前だよ」

「‥知ってる」

「じゃあ、呼んでよ」


甲斐のシャツの裾を引っ張って、小さい子がわがままを言うように、お願いする。甲斐の声で、あたしの名前を呼ばれたい。今この瞬間、あたしの欲望はこれだけだった。
甲斐があたしの方に向き直る。顔は月明かりだけじゃよく見えない。


「‥わんの名前、裕次郎っちゅーさー」

「え‥」

「呼んで」

「ゆ‥裕次郎」

「‥」

「裕次郎」

「‥うん」


裕次郎、裕次郎。繰り返し呼んだらその度に胸の中が熱くなる気がした。
甲斐が振り返って歩き出す。ハッと気がつく。結局あたしの名前呼んでないじゃない。待って、と制止の言葉を投げかけようとしたとき、裕次郎があたしに背を向けたまま立ち止まった。


「‥帰ろ、名前」


尻すぼみ気味だったけど、しっかり聞き取れた。やっぱり甲斐の顔は赤くて、思わず笑ってしまう。嬉しい、というあたしの言葉に返答はなかったけど、振り返って差し出された手は、少なくともあたしを受け入れてくれているんだと思った。