五万打企画 | ナノ
負けいくさ





今、あたしの部屋の中を駆けめぐる音。一つ、教科書をめくる音。二つ、シャーペンがノートの上を走る音。三つ、扇風機の音。そして最後に、千歳の寝息。ちなみにこれが一番うるさい。


「千歳、ちょっといい加減に起きてよ」

「ん〜‥」

「千歳の宿題を手伝ってるんやで、自分も少しくらいやってや」


千歳はむくり、と上半身を起き上がらせ、目をしぱしぱとさせている。さながらトトロやと思った。ねこっ毛の彼の髪のハネは、寝ぐせなのか自前なのかまったく見分けがつかない。


「はい、そこ座って!シャーペン持って!」

「んー‥わかっとーよ」


すっきりしない頭のまま、千歳はぼうっと問題と睨めっこしている。しばらくその様子を見てると、千歳は次第にうつらうつらしてきた。ああ、この人寝るわ、絶対。


「ちーとーせー」

「い、いてっ」


腕をいっぱいに伸ばして向かいに座る千歳の両頬をぎゅっとつねる。手を離すと若干涙目になりながら頬をさすっている。


「厳しかー」

「もう、千歳は危機感無さ過ぎやで!今日だって千歳は全国大会前の最後の休みなんに‥」


それなのになんであたしは彼氏の宿題を手伝ってるんだろう。この素朴な疑問は今日ノートを開いたときから浮かんでいた。当の本人はずっとポヤンとしとるし。


「名前、こっち来んね」

「いやや、千歳何するか分からんもん」

「何もせんよ、お前さんやらしかね」

「‥」

「名前ー‥」

「その問題を全部解いたらそっち行ってあげる」

「‥うっし、やるたい」


急にやる気を出した千歳は、近くにあったあたしのヘアピンで前髪をあげた。千歳が普段とちょっと違って見える。なんか可愛い。じっと見てると、千歳が視線だけこちらに向けてきて、目が合った。


「なんね」

「別に‥」


柔らかく笑う千歳にドキッというよりキュンとする。あかんあかん、あたしの悪いとこはここや。ほんまあたしは千歳に弱い。

これ以上惑わされまいと、目の前の問題に黙々と取り組むことにする。ふと気がつくと千歳の手が止まっていた。


「千歳、なしたん」

「分からんたい」

「どれ?」


千歳がノートをトントンと指で叩いた。千歳の横に移動して、ノートをのぞき込む。なんだ、ちゃんと解けてるやん。そう思っていると、不意に腰に手を回され、ふわっと体が浮いた。しまったと思ったときには、すでにあたしは千歳のあぐらをかいた足の上に乗っかっていた。


「ちょお、何すんねん!」

「んー、よか匂いばいねー」

「あほー!」

「ほーら、動いたらいかんばい」


千歳が少し力を入れるだけで身動きがとれなくなる。それ以前に耳元で、いつもより少し低めの声で話されるだけで力が入らなくなった。ほんま、ほんまにこいつは!


「千歳のあほう」

「ばってん、せっかく名前とおるけん、くっつきよったい」

「‥暑いだけやわ」

「なんね、文句があると?」


にこにこしながら顔を覗いてくる千歳は、ほんまに確信犯や。あたしが何も言えなくなることを分かった上でやってる。
せめてもの抵抗としてぺちん、とおでこをはたいてやった。ひどかねー、と言いつつあたしの首筋に顔をうずめて、そこにキスを一つした。千歳のふわふわの髪がくすぐったくて、猫みたいやと思った。


「顔、赤かね」

「‥暑いだけやもん」


むぞらしか、とかすれた声で囁かれる。机の上に広げられた宿題なんてもうどうでも良くなってしまう。あたしにとって、この世界で最もたちの悪いものは、やっぱり千歳でしかないと思った。