風は流れ花弁を追う

 夜風が身に沁みる。冷たさなどとうに感じなくなったはずの体でも、体温が知らず知らずのうちに奪われるのがわかる。それでも、考え事がしたくて、兼家は外に出た。
 鋭い冷気は心地よく、自分の思考が澄んでいくように感じる。また、今歩いているのは兼家しか見当たらず、考えをまとめる邪魔な存在もいない。何故だか、気分がよかった。
 しばらく歩き続けていると、兼家は立ち止まる。特になんの変哲も無い場所。しかし、人がおらず、考え事をするのに最適の場所だ。
 ゆったりとした動作で目を瞑ると、兼家は『あの時』の出来事を思い出していった。

 捕虜の見張りをしていたとき。白鷺塾の者たちが攻め込んできた。どうやら、鷺ノ宮を囮としてこちらを攻め込んできたらしい。同じく見張りをしていた者たちは白鷺塾の奴らを見かけると、すぐに逃げ出そうとした。兼家も、戦う力などないため同じく逃げようとする。自身が捕まえた捕虜と一緒に。
 しかし、近くにいた捕虜はある男を見つけると一目散に駈けていく。兼家が伸ばした手など無視して。当たり前のことである。捕虜が、自ら囚われたままでいることを望むことなど、ないのだ。
 わかっていたはずなのに、虚無感が襲う。そばにいてくれると、思っていた。約束などしていないが、ただ、ずっと一緒にいられるものだと思った。失うことなど、何も考えず。
 その後のことは何も覚えていない。ただ、気づくと仲間と同じ場所にいた。それだけだった。

 緩慢な動作で、目を開ける。目の前は、変わらない景色。人はおらず、兼家一人のみがここにいる。
 吹いている風は冷たさを増している。風は、兼家の体温をさらに奪おうとしていた。
 会いたいと、思う。なぜ会いたいのかは、わからない。ただ、彼女がいなくて寂しいと、漠然に思う。よくわからない、名前をつけることができない感情と、昔感じたことのある想いが混ざり、兼家の心を掻き乱す。
 不意に零れた涙に、兼家は気づかなかった。

 次の日、兼家は法輪寺で目を覚ます。未だ虚無感は拭えず、兼家は暇を持て余した。
 法輪寺では、怪我をしたものや白鷺塾に対し憤慨しているもの、ただこの状況を楽しんでいるものなど様々なものがいる。そこには、義母の姿も。
 ぼんやりと兼家が見ていたのに気がついたのか、義母が近づいてくる。兼家はそれをただ無感情に見つめていた。
 義母が、何かを言う。兼家は、それが何かを理解していない。ただ、音が風のようにすり抜けていくだけだ。
 それには気づかず、義母は言い続ける。途中、「捕虜にですらにおいていかれた哀れなやつ」、「また独りになってしまったのだな」という言葉だけがはっきりと聞こえた。
 満足したのだろう、義母は艶やかな笑みを浮かべて去って行く。それすらも、兼家は興味なく見ていた。
 ただ、先程はっきりと聞こえた言葉だけが反芻される。寂しい、のだろうか。ほんの数日間。一緒にいただけの捕虜に。情が、芽生えたのか。
 心の中で燻っていた感情が、晴れていく気がする。ああそうか。私は。理解すると同時に、兼家は動き出していた。

 法輪寺を出て、兼家は危険区域へ行く。自分の感情を自覚すると、いてもたってもいられなくなったのだ。
 今はただあてもなく歩いている。空からのほうが見つかるだろうか。はやく、彼女に会いたかった。
 そういえば、名前を知らないな。今さら気づいたことではあるが、再び会ったときに聞けばいいと考える。気持ちだけが、急いていた。
 どれくらいの時間、さがしていただろうか。他の者に気づかれぬように一応身を潜ませてはいるが、いつ見つかるかもわからない。はやく見つけたかった。
 ふと、見慣れた姿が目に映る。一瞬だったが、兼家にはそれだけで十分だった。
 息が、詰まる。声を出せない。ただ、その瞳は彼女の姿しか映さなかった。
 数秒の出来事のはずなのに、長い時間立ち止まったままのように感じる。今すぐ、駆け寄りたい。体が思うように動かないことが、煩わしかった。
 なんとか重い体を動かす。一歩一歩が重い。ふと、手を伸ばしかけたそのとき。
 ――彼女が、振り返った。
 驚いた彼女の顔。急いで逃げようとするその体。兼家は、なんとか動くようになった体で彼女を後ろから抱きしめる。
 ひっ、と小さい悲鳴が聞こえた。しかし兼家は気づかない。今は、ただもう一度手に入れたこのぬくもりを味わっていたかった。
 しばらくの間、彼女のぬくもりを味わっていると遠くから声が聞こえる。どうやら、白鷺塾の者が彼女を探しに来たらしい。とりあえず今はここから離れようと考え、兼家は彼女を抱きしめながらふわりと、空を飛び始めた。

 ふわりと、地面へと降りる。腕の中の彼女は、すっかり大人しくなっていた。しかし、地に足が着くと同時に体を思いっきり押される。
 いきなりのことで、兼家は体がよろめいて尻もちをつく。驚いて彼女を見ると、彼女は兼家のことを睨みつけていた。
 彼女も同じ気持ちであるなんて、あるわけないのに。彼女は、兼家から一刻もはやく逃れたいと、そう望んでいたということを、知っていたのに。わかっていたことだが、なぜだか寂しかった。
 兼家が何か言おうとした瞬間、先に彼女が声を出す。絞り出すように、吐き出して。どうして、と。どうしてまた連れてきた、と。
 泣きそうな、それでいてどこか怒りを含んだ表情が酷く印象的だった。本当は、そんな顔をしてほしくないのに。
 立ち上がり、少し離れた彼女に近づく。近づくなと、震えた声で彼女は言うが、無視をする。そして彼女のすぐ目の前に立つと、彼女が息をのむ音がはっきりと聞こえた。
 会いたかったと、兼家は囁く。彼女は顔色を変え、小さく震える。もう一度、今度はゆっくりと、兼家は会いたかったと言った。
 彼女の手を握り、膝をつく。彼女を見上げるのはどこか新鮮だ。じっと見つめていると、彼女は怪訝な表情をする。兼家が何をしたいのか、わからない様子だ。
 冷たい彼女の指が、兼家の気持ちを加速させてくる。このまま、全てを放り出して逃げ出したい気分だ。もう、他には何もいらない。

「なあ、この戦いが終わったら一緒に死んでくれへん?」

 気づいたら兼家の口から出てきたそれは、祈りにも、悲鳴にも似た叫びだった。

 

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