火のないところに煙は立たぬ
「あ、比呂志お兄様!」
よく晴れたある日。歩いていると、突然誰かに声をかけられた。振り返ると、淡い髪色と透き通ったような目の色をした少女。数年前に家を追い出された従兄妹、祁荅院綾子だった。
「お久しぶりですね、こんなところに会うなんて素適な偶然です!」
嬉しそうに笑う彼女は、最後に会ったときと変わらない。透き通ったような彼女の目は、どこかで見た空の色を思い出させる。それはどこだったか思い出せないが。
「久しぶり。こんなところでどうしたの?」
話しかけてくる綾子に返事をし、比呂志は辺りを見回す。バイト帰りなのです、と告げる綾子は、少し慌てた様子の比呂志には気づかない。
彼女には、いきすぎた妹想いの兄がいる。その兄は何かしら理由をつけては妹である綾子に付きまとっているのだ。特に男と二人きりでいるところを見つけると、何をしでかすかわからない。
とりあえず彼女の兄が近くにいないことに安堵する。緩やかに吹いた風は、比呂志の気持ちに呼応するように少し暑さを感じる初夏に心地よい涼しさを与えてくれた。
「じゃあちょっと時間ある? よければ久しぶりに話しがしたいんだ」
尋ねると、綾子はよろこんで、と答える。嬉しそうにはしゃぐ彼女が動くたびに、髪も揺れ動く。無意識に、その長い髪を誰かに重ねていた。
小奇麗な喫茶店に二人で入る。久しぶりに会ったことで話に花が咲き、話題が尽きなかった。暫く話しを続けて、一息ついた時だった。
「比呂志お兄様は、よく志摩さんという方の話しをしますが、その人のことがとても好きなのですね」
柔らかい笑顔で、綾子が告げる。何を言ったのか理解できず、すぐに比呂志は聞き返す。それはどういう意味なのかと。すると、綾子はきょとんとした顔で答えた。
「だって、先程から比呂志お兄様はその方のお話しをよくされるではないですか。それはつまり、その人のことがとても好きだと私は思うんです」
比呂志お兄様にそんなに思われてるなんて、その方も幸せですね、と更に言う綾子に、比呂志は何も言えなかった。いや、何も考えられなかったのが正しいだろう。
喫茶店に流れる穏やかな音楽は、今の比呂志の耳には入らない。周りの雑音も聞こえない。先程の綾子の言った言葉だけが、頭の中で反響していた。
途端、『彼女』と再会してからのことを思い出す。そして、今までの自分の行動を振り返ったところで、気づく。これではまるで……。
暫く何も言わない比呂志に、綾子は心配そうな顔をする。しかし、比呂志は気づかない。綾子が呼んで、やっと比呂志は彼女の顔を改めて見た。
「もしかして具合が悪いんですか? お顔が赤いですよ」
言われて、顔に熱が集まっていることに気づく。綾子は見当違いな心配をするが、今はそれがありがたかった。
「ああ、そうだね、なんだかちょっと気分が悪くなってきたかな」
やっとの思いで言葉を吐き出す。嘘ではあるが、彼女には気づかれないだろう。
変わらず比呂志の体調を心配する綾子を落ち着けて、とりあえずと喫茶店を出ることにする。お金は綾子が出すと言っていたが、断って全て比呂志が出した。
外は、入る前と然程変わらない温度に少しくらりとする。喫茶店は、心地よい温度で保たれていたのだろう。気温差に少しやられそうになった。
綾子は送ろうかと聞いてきたが、それも断った。今は、一人になりたかったから。比呂志の体調を心配する綾子を見送る。途中、彼女は何度も振り返ったが比呂志はこれ以上心配させないように笑った。うまく笑えていたか不明だが。
綾子が見えなくなってから、比呂志は外をしばらく歩くことにした。少し、考えを整理したかったのだ。これからどんな顔をして『彼女』に会えばいいのだろう。足は、無意識に『彼女』のほうへ向かって行く。比呂志がそれに気づくのは、『彼女』の住まいに着いてからになるだろう。