褪せた世界
月48000円の彼女のワンルームがだんだん僕のもので埋まっていって、シングルベッドも狭くなって、日曜の午後、彼女が化粧をするのを寝ぼけまなこで眺めていた昼下がりだった。
ドレッサーにはいくつかの化粧品と携帯が置かれていてそこから音楽が彼女の耳から僅かに溢れていた。というのはブルートゥースで彼女にしか聴こえていないのが悔しくてそれを気怠い身体を起こして片耳のイヤホンフックを奪う。
「…なに聴いてんの?」
そう問いかけるとこちらをすこし振り向いて柔らかな日差しがカーテンの隙間からこぼれた中で微笑んだ。
「チャーリー・プースとセレーナ・ゴメス」
「…デュエットのやつ?」
「そう、We don't talk anymore」
好きなんだよね、と彼女は口角を上げる。それに俺も自然と頬が綻んだ。
「…俺も好き、この曲」
「…知ってたんだ、さすが。」
洋楽詳しいよね、と趣味があって嬉しいと彼女は笑う。一見洋楽を聴いてると通だとか格式が高いとか格好つけとか思われるかもしれないけどそんなことは無い。正直言ってる英語は分からないことだらけだったりするし、逆に和訳の歌詞付きを見ながら聴いたり様々だ。それを全て受け入れてくれる同じ趣味の彼女が愛おしい。
「私も好きだけど…」
「…だけど?」
「別れの曲だからすこし複雑かも」
「なんで?」
「だって、もしも私と別れたら玉森くんはこの曲を聴きながら私のこと想い出すのかなんて考えたら寂しい」
私を過去にしないでほしいと、なんてねと冗談交じりに彼女は笑った。それにもし倦怠期の恋人がこれを聴いたとしても別れちゃう決定打になりそうと付け足して笑った。
「今の俺たちの関係、そんな風に思ってたの?」
「…ううん、そういう訳じゃないけど私達って好きだとは言うけどそんなにべったり好き好きとかは言わないじゃない?」
だから不安とか不満な訳じゃなくてそれでも脆くて縛りつけるものがなくてすこしだけ怖くなると言う。
「…縛りつける?」
「縛りつける…というか玉森くんを私という存在に留めておく自信がないの」
どうして私みたいな人を好きでいてくれるのか信じられなくて、飽きられるんじゃないかってと段々と声がか細くなっていく彼女を後ろからぎゅっと抱きしめた。
そんなことを言ってる彼女の方が消えてしまいそうで、俺のこの腕からするりと逃げてしまいそうで不安になる。
「僕は君が戻ってくることを望んでるんじゃないかって思ってしまう、でもそうじゃなかったらって思うと怖い…」
「…それ歌詞の?」
「…うん、俺もだよ。俺より素敵な人が見つかったら名前は目移りしてしまうんじゃないかっていつも不安だよ」
「…そんな訳ない」
「…うん、そう信じたい。だからもし俺より素敵な人を見つけたとしても俺のところに戻ってくるって信じたい」
そう言って唇を塞いだ、味わうかのようにゆっくりと確かめるようにキスをした。息がもれるそれが生温かくて身体が熱を帯びていく、彼女の髪が揺らいでいてそれをぐしゃりと崩す。
「…待っ、て」
「…出掛けるの?」
「うん…っ、約束してるから」
「…駄目、いかせない」
「なん…っで、」
「俺をその気にさせたのが悪い…」
服をすこしずつ肌けさせていくだけで脱がさないのが逆にいやらしく感じた。俺の舌で形を崩す乳房が愛しくて震える身体ごと愛しくて指で全身を甘やかした。気がつけば床に押し倒して入り込んだ日差しで息も絶え絶えな彼女が中途半端に捲り上がった服のまま、胸は俺の唾液で煌めいていた。
「…玉森くん、獣みたいだよ」
そんなに余裕のない顔をしているのか、舌舐めずりをして彼女を見下ろしていた。抑えきれない興奮にどうかしてしまいそうだった。
「…こんな俺は嫌い?」
彼女をうつ伏せにしてそそり立った自身を挿れると彼女は堪えるような声を出した。手首を捕まえてそこに舌を這わす。
「…ん、やぁ」
「…ねぇ、応えて?」
そういって腰を更に押しつけると軽く逃げようとするから、逃げられる訳ない体制なのにそれを阻むようにして体重をかけて意地の悪いことをする。
「…んぅ、嫌い…じゃないっ」
耳を真っ赤にして言うからそれが堪らなく可愛くて甘噛みすると中が締まる。感じていることが嬉しい。
深く息を吐き出して俺は更に彼女を抱きしめた、温もりが逃げないように。
「…俺もっ、」
「…ずるいよ、わかってるくせに」
玉森くんはずるい、泣きそうな声でそう言って達した。そう、狡くてごめんね。それでも彼女を手放したくないから。俺の世界にもう彼女のいない世界なんて考えられない、こんなこと想うのは愛が重荷になるんだろうか。
結局、約束を断って彼女は俺の胸の中ですこし眠ってそれから目を覚ましたとき話し出した。
「…実はね、洋楽を聴くようになったのはね玉森くんが好きだから好きなものを共有したいって背伸びしてるところもあるんだよ」
でもね、無理してる訳じゃないんだよと彼女は言った。それからあまり聞いたことのない彼女の身の上のことをはじめて聞いた。そう言えば付き合うようになってだいぶ経つのに以外と彼女のことはあまり知らない。そんなので彼女の全てを知ったつもりで好きだなんて言えたもんだと客観的に自分を見て笑える。
「…昔ね、よくお父さんが休みの日になると映画に誘ってくれたんだ」
その時は洋画が見たいって言うお父さんのことを無視して嫌だって我儘言っていつも自分の見たいものに付き合わせてた、今なら一緒によく分からない英語の映画でも、その時は美味しいなんて味のよく分からなかったお酒も一緒に飲んであげなかったの。
よく私が大人になったら一緒にお酒を飲んだりすることが夢だって言ってたのに私はそんなのいつでも出来ると思ってその時は我儘ばかりいって付き合ってあげなかったの。
「それでね…私の家はおばあちゃんとお父さんのいわゆる父子家庭ってやつでね、そんなに私に気にかけてくれてたお父さんだったのにね」
あの人の為になることを何にもしてあげられなかった。そう言って彼女は静かに涙を零した。すすり泣く訳ではなく懐かしむように愛おしそうに。
彼女のお父さんがもう居ていないことは聞いていた、それでもそれは仕方のないことだと受け入れてた彼女だけどやっぱり寂しいものは寂しいんだとこの時はじめて彼女の弱みを見た。見せてくれたことが嬉しかった。
俺は何にも身につけていない胸でただ冷たく濡れる彼女の涙を肌から心臓へと沁みるように彼女の痛みをすこしでも自分に流れるように祈るように抱きしめた。
「…それから私もすこし大人になって、洋画や洋楽の良さがわかってきたらねどうしても想い出してしまうの」
どうして好きになるのがあの頃じゃなかったんだろうって、一緒に付き合ってあげなかったんだろうって。それだけ、それだけの話と彼女はさみしそうに微笑んだ。
「…それじゃ、今の俺は一緒にその好きなものを共有できて幸せ者だね」
「…ふふ、そうかも」
彼女を慰めるための言葉は全然出てこなくてそれを伝えるだけで精一杯だったけど縋るように身を寄せる彼女に俺が抱きしめるとなんとも優しく力なく抱きしめ返した。するとすこし顔を綻ばせて目を瞑った、それはまるで行き場所を失くして彷徨う迷子の手を握って帰り道がわかった子供みたいに安心した顔つきだった。
fin .