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取り残されるその前に愛しい手を伸ばして


「これで最後かな、」

あれから仕事を探して定職についた。この家も母親といた想い出が強すぎるからいると辛くなる。だから引っ越す事にした。

だけどその前に分からないように、一目だけ彼女に逢いたかった。


「…未練がましいなあ、」

そうは思うけど今彼女がちゃんと其処にいるか、俺のことなど忘れてくれているか、そして何より最後にこの瞳に焼きうつしたかった。

あれから春になった、きっとたった数ヶ月過ごした俺のことなんて忘れているだろう。

彼女とはじめて会った頃のようにひどい大雨で春雨真っ盛りだった。散ってしまった桜の花びらが花筏のようになって排水溝にのまれてく。

そこに彼女はいた。ぷつん、ぷつんと音は雨音で聞こえないけど剪定していた。

真剣な顔をしていて、どうせなら微笑った顔がよかったなあと思うけどその横顔もすきだからこれで我慢する事にした。たまにだけまたその顔をこっそり見にくるくらいは良いかな。

その時、帰ろうとすると小学生の大群がぶつかってきて派手に転んだ。雨で泥んこだ。雨合羽を着ていたおかげで膝は擦りむいていない。


「…こら、ちゃんと前見ないと」

人のことは言えないけど。俺も彼女のこと凝視してたし。起こしてやり雨合羽のフードを被せ直してやるとちょこんとお辞儀してまた走っていた。おい忠告は無視かよ。

それからふと其方を見ると、彼女が茫然と立っていて目線はこちらにある。ああ、その睫毛が濡れているのが遠目でもわかる。連絡も取れないようにしていたから怒られるかな。

そしてこちらに真っ直ぐ走ってくる。危ないって小学生の大群と同じことを注意しないといけないんじゃないかと思いながら笑みが溢れる。

雨に濡れることも厭わず馬鹿だなあと思いながらあの日とは逆に俺の胸に飛び込んできた彼女に傘を傾ける。


「…すきっ、伊野尾くん」

嘘みたいだ。邂逅して一番の言葉がそれなんて。俺はまた夢を見ているのかもしれない。だけど頬が薄紅に染まっていることがそうじゃないと分かる。
ああ、自惚れていいのかな。


「ありがとう…でも良いんだよ。」

それは恋じゃない、優しい君は俺に同情しているんだ。俺だけが優しくしたから勘違いしてる、そう思ってくれないかな。君を巻き込みたくないんだ。

「なんで…っ」
「…分かって?」
「…やだっ、私が伊野尾くんに触れたいと思うのも、触れられたいと思うのも勘違いだって言うの?」

「…うんっ、」

駄目だ、泣き声に変わりそう。すると彼女は俺の手を取って左の胸にそっと手を添える。柔らかい感触とはげしい心拍音がひどい雨の音に呑まれないで直接手の平から伝わってくる。


「…これでも恋じゃないって、言える…っ?」

ずるいよ。こんなの認めざるを得ない。てか俺とおんなじ事してる。

彼女はまた綺麗な青い涙を流していた、俺は何度君を泣かせるんだろう。だけどもしも俺が花だったなら君の涙で綺麗に咲き誇るだろう。


「…ずるいよ、」

小さな透明笠の中、彼女を抱きしめた。柔らかくて甘くて微かに花の匂いがした。#name10#ちゃんがすきだよ、花が綻ぶように咲う君がすきだよ。

「…どこにも行かないで、」

息を呑みこむような愛の言葉だった。彼女は俺の服を握りしめてその手は震えている、俺は怯えせてばっかだね。その手にそっと重ねる。伏し目がちに彼女の顔を覗き込むと自然と温もりを求めるようにくちびるが重なり合う。

いろんな角度から求めて甘い息がもれる、息継ぎをしてまだ離してあげられなくて重ねていた手は後頭部に添え変えて髪をくしゃくしゃにさせてしまう、深くふかく求めて彼女の涙が煌めいた。


「…離さないよ、ずっと」

きみを縛る言葉を彼女は嬉しそうに抱きしめた。そんな風に微笑む彼女が可愛くていじらしくてこれでもかという程強く抱きしめる。

思えば彼女との想い出は雨ばかりだった、ひどく哀しい雨。彼女の頬に何度も流れた涙、それはとても綺麗な群青だった。

僕らが愛した群青が消えませんように。
幸せの色と形になって残りますように。

fin .





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