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目を瞑ってしまったら遠く霞んでしまう


二十代半ばになっても俺は職につかずふらふらしていた、世間体で言えば格好がつかない情けない生き方だった。というのも一度就職していたけれど母親が何度も自殺未遂をする為、定職にはつけないといった状況だった。

ある時は服薬、飛び降り、首吊り。どれもあと一歩という所で助かったからよかったけどそんな日々がもう何年も過ぎるといっそ死んでくれればよかったのにと思う日々もあった。

その為、二十代半ばからずっとバイトで生計を立てていた。生活保護は母親は受けているけどそんなものでは足りなかった、暴飲暴食、しまいには自制の効かない爆買い、クレカのローンで借金まである。それを返しつつ働く日々、ただの二十代の男一人で定職にも就けない俺にはもう限界だった。


最近では顔を合わすのも夜帰ってきて寝る前くらいだ、その間も母親は呑気にテレビを見ていてそういう病気なのだからと苛立ってはいけないと分かりつつも、俺が必死で疲れて帰ってきてるのに夕食の用意すらされていない日々に焦れ込んでいた。

母親がこうなったのも小さい頃に父親が暴力を振るうようになってそれから逃げるように離婚して俺を一人で育ててくれた。大学まで行かしてくれて、ようやく定職に就いてからだった、母親が精神疾患を患ったのは。

医者が言うには俺が定職したことにより、働く意図がなくなり、また一人で待つということ、色々な過度のストレスからくるものらしい。そんな状態がここ何年か続いている。


「…母ちゃんご飯食べた?」

帰ってきて扉を開ける、古びれたマンションは扉の閉まる音ですら煩い。だけどそんなのは今日の酷い雨で掻き消えてしまった。もう梅雨に入りかけの最近の天気は優れない。

返事が返ってこなくてリビングにまで行くとベランダの手摺に母ちゃんがいた。


「何やってんの…」
「…」

何も答えない。いつもの事だ、手摺は低くて母親の腰くらいまでしかない。下手をすれば落ちてしまう、だけどそんな危機感が麻痺するほど日常茶飯事だった光景は俺には見慣れたものだった。もう二人で過ごした母の穏やかな顔は見れないのだと思った。

ふとテーブルに視線を向けたら請求書の束。


「…何だよ、これ」

新しいクレカに請求書の束。それを掴んで俺は早足で責め立てるように母親のいるベランダに出る、激しい雨で飛沫がかかるのなんて知ったこっちゃない。

「…慧が持たせてくれへんから作ったんよ、すぐに作れるって言ってくれてなあ」

お店の人親切やったよと柔らかく微笑む。その笑顔が俺には何かに取り憑かれたかのように見えた。


「…印鑑なんて持たせてなかっただろ、」
「…そやよ、だから慧のやつ使ったんよ」

学生の頃に使ってた口座のやつで。と俺も盲点だった部分。俺は沸々と湧き上がる怒りに手が震えた、やるせない気持ちが押し寄せる。俺がこんなに頑張ってるのに、それを誰も認めてくれない。


「ふざけんなよ…」
「…慧?」

目の前で請求書、誓約書を破り去った。そんな事しても意味なんてなくてコピーだと分かってて、これを破いても負債は俺にくるとわかっているのにどうしようもないことに俺はもう限界だった。


「…俺がこんなにっ、頑張ってるのに」
「…慧っ、」
「なんで邪魔ばっかすんだよっ…」

そう言っても母親の口から出るのは俺への謝りの言葉でもなければら労う言葉でもない。ただただ自分の欲求だけ。

「や、やめてよ…それなかったらお母さん買い物出来ひんよ」

その言葉は耳障りで、取り上げようとすると請求書の束とかを思い切り振り上げる。母親も強く握りしめててその反動で身体が傾く、わずかに手摺に手をかけたけど酷い雨で濡れた安い手摺は手が滑って真っ逆さまに落ちる。

それは世界がほんとうにゆっくりと動いて母親の瞬きする瞬間でさえ見れた。醜い音がして震える身体で下を覗き込む。傘なんて持たずに濡れるという概念などなくただ夢中で階段を駆け下りた。

動悸が激しくて嘘だと何度も問いかけた。


「…はっ、はぁ…」

見るのも無残な頭がひしゃげて足はおかしな方向に曲がっていて顔はうつ伏せだけどわずかに見える横顔から涙が流れてる気がした。それは雨なのかも知れなかったけど。

口をパクパクとさせて掠れた声で雨の音に掻き消されてよく聞き取れなかった。


「…いっ、ご…め、ご…んね……」

くずおれる体躯、懐かしい優しい声。いつも俺を心配してくれて呼んでくれた声。今となって居ないと思っていた母親の姿がそこにあった。

慧、ごめん、ごめんねと謝っていた。ひたすらに。

ねぇ、母さん許すよ。許すから。
俺の方こそごめん、死んだらいいなんて思って、今だってきっとすごく痛いよね。なのになんで俺の心配してんだよ。

すぐに母さんの息は途切れた。酷い雨が体躯を冷たくさせていって俺は茫然とそこに佇む事しか出来なかった。


小さな音がした、酷い雨だけど過敏になっていた聴覚はそちらに目を向ける。ゆっくりと近づいてきておそらく傘を傾けた、恐らくというのは俺にあたる雨が止んだから。視線は母親から離さなくて、隣からか細く警察を呼びますかと聞かれて俺は小さく頷いた。

そうか、呼ばなくては。覚悟しなくては。
驚くほど冷静だった、死を受け入れるのも、今後どうするのかも。

どれくらいそうしていたのか、俺の身体はひどく冷え切っていて彼女に触れられた指先から温もりが伝わってきた。その温かさが優しくてまばゆかった。

名前も知らない今日会ったその人、ただ慰めてくれるその手を少しだけ握り返した。母さんの手を想い出して。

よく繋いだ、幼稚園の帰り道も、小学校の授業参観の帰り道も、中学になると恥ずかしくて繋げなくて残念がって、大学生になるとスーツを見にいって新調してくれたよね。あの時一度だけネクタイを結んでくれた時、その手に触れたよね。それから触れる事なんてなかったね、すごく近くにいたのに触れなかったね。

もしもあの時、手摺にいた時。危ないことはやめろって止めて手を引き寄せてたらこんな事にはならなかったのかな。

俺は雨に紛れて涙を流した、どうか今日の夜だけはこの酷い雨が続きますようにと願いながら。


その後、警察署に行くと事情を話した。
だけど手摺のことは言えなくて何度も自殺未遂してる歴からか事故と片付けられた。

言わなきゃと思うのに怖くて、そして今捕まれば母親の葬式が出来なくなるのではないかと冷静に考えられる頭があって嘘をつくのではなく隠蔽した。それはどちらも変わらない罪だけど。

彼女もその場にいたので事情聴取を受けているだろう、けど何にも知らないので言えることはないと思う。それでも一番近くにいた俺が一番怪しいと思うだろうに何にも言わなかったらしい。

今日合ったことが、全て嘘であればいいのにと目を瞑ったけど目を醒ましても相変わらずだった。何一つ変わらない。

母親と二人で過ごした想い出は簡単に儚く色褪せて遠く霞んでしまった。

fin .





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