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煩くなった雨音を嗤って


鏡に映る自分、今日はもう何度それを見返しただろう。心臓の音は時間が近づくたびに心拍数が上がっていったような気がする。いい歳にもなっておかしいな。

青の浴衣はおばあちゃんにいったら昔使っていたお母さんのを引っ張りだして解れていたところを繕い直してくれた。それから言ってくれた。一度こういったことをしてあげたかったと。わたしが我儘をいわないから、学生の頃も帰りは遅くならないし、男の子と出かける様子もなかったからと。

わたしはそれを聞いてまた情けなくも泣いてしまった。わたしが迷惑かけないようにと思ってたことは必要じゃなかったってこと。女の子だから甘えていいんだとわたしの頭を撫でながらおばあちゃんは言ってくれた。

その直してくれた浴衣をそっと撫でて顔が思わず綻ぶ。


時間になるとふわふわと柔らかい髪を風に泳がせて下駄の涼やかな音がする。白い浴衣にすこし麻の入った紺色の帯が彼の肌の白さをより引き出していた。


「…いこっか」
「…うん」

待ったとか、浴衣なんだねとか、似合ってるねとか何にも言えなくておたがいすこしだけ気まずくていつもと違う場所で見慣れない格好で合うのは変に緊張してうまく喋れなくなる。だけど彼の指先を微かにつまむように握ると嬉しそうに横顔でも微笑んでいるのがわかった。夏のせいかな、暑くて熱が顔にも指の先まで伝わって恥ずかしくて下を向いた。



「おばあちゃんの様子はどう?」
「…あ、えっともうすぐ退院できそうだって」

よかったねと自分ごとのように伊野尾くんは笑ってくれる、マイペースであんまり他人のことには興味なさそうな印象だったけどわたしの知ってる君は誰よりも優しくて他人のことを思いやれる感受性の強い人だとこの短い間だけでもよくわかったよ。

かき氷を買って石段に腰掛けるとぐしゃぐしゃとかき混ぜた。


「何味にしたの?」
「なんだろう、ブルーハワイかな」

そっちは何味ときかれてレモン味だよと応えて一口頬張るとすぐに溶けて消える。


「…ちょっと頂戴」

そう言われて返事をする前に息が止まる、取りやすいように彼の方に傾けたかき氷は無視されて可哀想に氷がバランスを崩してすこしくずれた。蒸し暑くて体温を下げようとして含んだ氷はあっけなく彼に奪われる前に口の中で溶けてしまったけどお構いなく彼はくちびるを最後に一舐めして満足げに微笑んだ。


「…っ、」
「…おいしいね?」

それから一掬いして自分の所に入れると子供のように無邪気になって喜ぶ。こっちはまだ放心状態なのに。


「あ、色が変わった」
「…」
「黄色と青混ぜたら緑になるんだね」
「…そうだね」
「味も変わるのかな」

そういって隣の勝手な人を無視してたらまた顔の前に影が出来た。胸元が浴衣の隙間からちらりと見えて、柔らかいくちびるの感触。手はそっと触れて見下ろす瞳の熱に侵されそうだった。



「…どう?」
「わ…わかんないよ」

目の前でしてやったり顔のふにゃっと笑う顔が、いつも振り回されてばっかりで悔しくてこの顔を崩してやりたいと思ってわたしは持っていたかき氷を手放す。当然のように石段をどしゃりと無残に落ちる。無駄にしてごめんね、と心の中でそれは謝りながら彼はそちらに視線が向く。


「えっ…ちょ落ち、」

視線が奪われた彼の無防備な隙にわたしは手の空いた両手で頬をつかんでキスをする。さっきから突然だったからか意識がなかったけど自分から改めてすると思っていたよりも柔らかい感触におどろいた。マシュマロみたい。


「…仕返し、」

そう言って恥ずかしくて顔を背けると背中にごつんと頭がぶつかる。後ろからはずるいってと聞こえる。ああ、このままこの夏が終わらなければいいのに。そう想いながらしばらく夏の暑さに侵されたのかそこから動けなくて顔の熱がようやく引きそうになった頃に大きな音が響いた。



「…始まった」

そういった伊野尾くんの横顔を見るとまたあの日見た瞳で憂いを帯びた顔をしていて、まるで何か終わりを危惧しているようだった。


「綺麗だね、」
「…うん」
「雨、降らなくてよかったね」

天気予報は夜は雨になっていたから心配だったけどもうすこし持ちそうだ。花火は何発も大きな音を響かせていた、反響して残響が耳に残る。そのあいだ一言も話すことはなくただ手をじっと繋いでいた。まるであの日のように。

花火が終わると空に煙がかかる、華やかな分だけ終わってしまうと何か切なくて虚しい。



「…聞きたいことあるよね?」

唐突に彼は言った。さっきまで耳がつぶれそうな音がしていたのに比例してあまりの静かさに胸がざわめく。


「ないよ、別に」

嘘、ほんとは聞きたいことはたくさんある。だけどそれを聞いたらすべて終わってしまう気がして聞きたくなかった。



「あの日、見たよね…」
「…」

死体、と祭囃子の音で聞こえなければよかったのに閑静なすこし外れたこの場所には響いて、ひぐらしの鳴き声が夏の終わりを徴証していた。

「…殺したのは俺だよ、」

お願い、聞きたくない。そんなこと聞きたくないの。繋いでいる手が震える。本当にその言葉を紡ぐことが怖いのは君のほうなのに。


「…」
「今まで何にも聞かないでいてくれてありがとう、」

あの日何も聞かずに傘を差してくれたの、手を繋いでくれたの嬉しかったよと君は言った。だから私はその手を離さないように握り直した。


「…どこにも行かないよね?」

それには応えないで伊野尾くんは触れるだけのキスをした。ああ、どうして。さっきまで触れていた時は暑いくらい熱を帯びていたはずなのに今はどうして、こんなにも冷え切ってしまっているの?


「…ごみ、捨ててくるね」

キスをされた弾みに緩んでしまった手を離して彼は微笑んだ、わたしの嫌いな顔で。ああ彼は行ってしまうんだとなんとなくわかっていたのに引き止められなかった。あまりに切なく微笑むから。まるでついて来ないでというみたいに。

カラン、コロンと音を立てて石段を降りていくその後ろ姿は帯が歪んでいて萎れたようで、哀しくも私たちを映すかのようだった。

わたしは浴衣の袖で涙を拭う、違うこんな為にこの浴衣は直したんじゃない。ただ彼に見てほしくて可愛いって想われたくて。だからこんな涙を受け止めるわけじゃなかったのに。


その時、一際大きい音が響いて空に花が咲いた。

その瞬間にわたしは走り出していた、足は止まらなかった。正直靴擦れしていて鼻緒の間が痛かったけど血が滲んでも泥がついてもそんなの構わなかった。小さな機械に連絡が一件。


――花火、最後じゃなかったね。一緒に見れてよかったね………

伊野尾くんも見てるんだ。さっきまでは誰よりも近くて一緒に見ていたのに今はこんなにも遠い。駆ける中、空に響く花火の音が煩くてわたしの声は届かない。


「…い、のおくっ……ん」

すきだよ。だいすきだよ。好きになりかけなんて嘘。きっとはじめからすきだった。わかってたの、でも認めたくなくて信じるのが怖くてまた一人になるんじゃないかって。その手を離さなければいいだけだったのにそんな簡単なことが私には出来なかった。

ぽつぽつと降り出した雨はやがて篠突く雨に変わって痛いほどわたしの身体を刺すようだった。涙か何かわからないものが紛れて君のことを思うと降る雨より胸の方が突き刺して痛かった。



翌日も酷い雨で煩いくらいの雨の音は変わらずで、わたしは店を開けているのに何の音もこの耳には入ってこなかった。ただ椅子に腰掛けて、誰もこないであろうお店をいつも通り開けて、でもいつもの君のおはようの声は聞こえなくて雨に掻き消されてしまったみたい。

いっそ嗤ってやろうか、そんなの皮肉にすらならないんだろうけど。私の耳に残っているのはそんな酷い雨よりも、昨日の花火の音と伊野尾くんの息遣いと声だけ。

今日から変わらない毎日が来るだけだ、伊野尾くんがいなかった前の。彼がいたのはたったの数ヶ月の出来事なのに、おばあちゃんが退院したらまた二人でいつも通りの前と変わらない日常に戻るだけなのに。胸がこんなにも苦しくて胸が焼けるように熱いのはなんでなんだろうね。

ああ。君は決めていたんだね。あの時から。
冗談だといったあれは他のバイトの人が入ったら自分の穴を埋められるから?
わたしが寂しくないように?

だけどそんなの意味ないよ。
君がいなきゃ意味ないし君の変わりは君しかいないし、わたしの胸には伊野尾くんとの想い出ばかりだから。

ねぇ、そこの床で君は物を運ぼうとして後ろにずっこけた時は笑い飛ばしたよね。ホースの水で焼けたアスファルトの地面を冷やしていたのになんでか毎回自分も濡れてたよね。その顔を声を想い出すだけでわたしの頬は雨に濡れるの。握りしめた小さな機械を見ることはできないのに痛いほど嫌になるほど脳内で伊野尾くんの声で再生されるの。


――花火、最後じゃなかったね。一緒に見れてよかったね。すきだよ、さよなら。

ねぇ、夏が君を連れ去ってしまうのならどうか終わらないで。
この夏だけは終わらないで。

もう居ないきみをどうしたら忘れられますか?

fin .





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