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雨は降らせないで、頬を濡らしてしまうから


「え、面接?」
「うん、もう一人募集を見てバイトしたいって人が来てるんだ」

彼を見るとすこし不貞腐れたような、いつの間にといったような顔をしている。案外分かりやすいなと微笑ましく思ってしまう。

あの日、彼の前でみっともなく弱音を見せてしまったとき気まずくて中々あの腕から逃げられないでいた。それでもその腕の温もりを惜しみながらも離れようとすると彼は言ってくれた。


「名前ちゃんは女の子なんだから弱いとこ見せてもいいんだよ」って

嬉しかった。おばあちゃんは優しかったけどどこかで迷惑をかけちゃいけないと思ってた。それがどこか私の世界を狭めて息苦しくさせていたのかもしれない。


ということもあって伊野尾くんの顔を真正面から見るのが気まずいのでもう一人バイトの人がくれば手も助かるし伊野尾くんにも休みあげられるし、顔を合わせる回数も減るから丁度よかったんだ。



「…やだ、断って」
「え…な、なんで」

その綺麗な指で包装紙をくるくると纏めて、包む用の新聞紙を机において私にくっついてきた。まるで隙間も与えないくらいに力強くでも優しく抱きしめるからすこし仄かに甘くてでもすこし汗のにおいと男の人の匂いがした。ああ、君は男の子だったわかってるのにこんな時いやでも痛感する。

伊野尾くんの柔らかい髪の先がわたしの顔に触れて擽ったい。細い腕で絡み付いてきて抱しめられているのにどうしてこんなにも彼の存在は消え入りそうなんだろう。



「…他の人なんていらない」
「…どうして?」
「二人だけでいいよ」
「でもそれだと伊野尾くん休めないし」
「いいよ、休みなんて要らない」
「…なん」
「時間があると嫌な事すぐに考えるから」

そういった彼の言葉がとても重く感じた。それは例えるならなんだろう、ううんきっと何にも比べることなんて出来なくて彼だけが感じる重い考えだったんだろうと思う。



「…そっか」
「それに独り占めしたいんだ、駄目?」

そういって首を傾げて覗き込むように見てくる。その視線は熱を孕んでいてわたしは咄嗟に目を逸らしてしまう。だって伊野尾くんの瞳は寂しそうでそれでいて真っ直ぐでとても綺麗だったから。こういうとき語彙力がなくて嫌になる。


「…だから簡単にそんなこと言わないで」
「…なんで?」
「…好きになりかけてるの」

そう言ったら嘘みたいに無音になった、まるで世界が沈黙を余儀なくされたようなそんな静けさで気まずかった。そしたら小さく彼の笑い声が響いた、それは澄んだ空に響く風の音のように爽快だった。


「…ふはっ…可愛い」

とんでもなく気まずくて恥ずかしかったけどわたしは目の前で嬉しそうに無垢に子供のような顔で微笑む彼の表情があまりに綺麗で見惚れてしまった。それから胸の音が壊れるほどに全身に響いた。わたしの嘘つき、好きになりかけてるなんて嘘。

もうとっくの前から伊野尾くんのことがすきなくせにね。

だけどこれは悔しいから内緒、彼が何度もすきだって言ってくれるならその回数が百回を超えたくらいに返事をさせて。だからそれまではずっと私をすきでいてね。



「ちょ…苦しい」

伊野尾くんはさっきよりももっと強く抱しめてきて愛おしそうにわたしの髪を撫でて大きく息を吸った、彼もわたしと同じように視覚で聴覚で嗅覚で全体で余すことなく落ち着けるそんな存在になれているんだろうか。


「さっきのは冗談だから、面接がんばってね」

俺バックヤードで片付けしてるね、とするりと彼は離れてしまった。緩急の人、触れていた熱がすぐに冷めてしまう。ねぇでもさっきの自惚れかもしれないけど冗談には聞えなかったよ、だってあんなに寂しそうで消えてしまいそうだった。だけど私はそれを言おうとして言えなかったことをあとで酷く後悔する。


「…あっ」
「そうだ、来週ね花火大会あるらしいよ」

一緒に行かないかと聞かれて二つ返事で快諾した。すると彼はさっきまでの憂いを帯びた顔なんて消し去って、晴れたらいいねとふにゃりと優しく微笑んで見せた。その笑顔と出来事が嬉しくて聞きだせなかった理由は後から彼なりの優しさだと知ることになる。

fin .





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