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満たされない日々の底で夢を見るから


どうしてこんな事になったんだっけ、回らない頭でそんなことを考える余裕だけは僅かにあって感じる小さく響く心臓の音とひどく熱い腕の抱擁に意識が眩みそうだった。

わたしが深く息を吐くと彼は愛おしそうにわたしを抱きしめるから勘違いしてしまいそうになる。ほら、そうゆうところ狡くて嫌い。

彼に抱きしめられているこんな状況は少し前に遡る。


幼い頃の話をしていた、それと言うのも彼が聞いてきたからだ。どうして花屋になろうと思ったのかと、思えば理由なんてあったのだろうか。小さい頃に描く女の子なら夢見るゆめ、お花屋さんになりたいだとかケーキ屋さんになりたいとかあの時の気持ちは何処かに落としてきてしまった。

おばあちゃんのお店の手伝いをしたかったから、それも嘘じゃない。だけどわたしにはその選択しかなかったような気がする。


「ねぇ…」
「…何ですか?」
「…好きだよ」

唐突だった、其れはもうまるで明日世界が滅びますと言われるようなそんな感覚と。そしてその言葉は私には残酷すぎる。


「なんで…そんな事言うんですか」
「え…なんでって、」

どんな気持ちで言ってるの、どうしてそうだって言えるの。人の感情に正解なんてなくて思い過ごしだってこともあるかもしれない、恋と錯覚してるだけかも知れないのに。


「急に何でそんなこと…」
「急じゃないよ、いつも好きだよ」

あくまでも静かに梅雨が終わったと思ったのに執念い雨がまた昨日から降り出してそれは今も続いてる。


「…嘘、」
「嘘じゃないよ、」

私は平然を装って花の剪定をする、ぷつん、ぷつんと切っていく音と時計の針の動く音、雨の滴る音だけが響いていた。


「…きっと伊野尾くんは勘違いしてるんだよ、あの日たまたま会ったのが私で優しくされたから情緒に陥ってるだけ」

「…」
「…違う?」

そう聞くと黙りこくる、ほらね。人の想いなんて曖昧で漠然としていて自分で自分のことさえ分からないくらいなんだから。


「なんで俺の気持ちが勘違いだって名前ちゃんに分かるの?」

「…分かりはしないよ、そういう事もあるって思っただけだよ」
「なら、間違いだね」

そう言って彼は私の手を止める、仕事が進まないからというと少しだけ戸惑った顔を見せてそれでも手を離してくれない。細い腕、だけど血管の筋がすこし浮いていてすこし胸が弾む。ああ、これもきっと悪い錯覚。



「こうしたら信じてくれる?」

そう言うと彼は私を抱きしめて離さない、押し返そうと思うけど思ったより力が強くて離さない。あれ、だって伊野尾くんは非力でいつもへにゃへにゃしてて、頼りのない締まりのない顔をしているのに。どうしてこんなに熱いの、彼の体温もわたしの全身が熱を帯びて駄目になる。

私の手をそっと取って伊野尾くんの心臓に合わせると直接触れる男の人の身体に心臓が煩くて適わない。

「…はやい」

どくどくと脈打つ彼の心臓ははげしく動いていて熱が酷い。どうして、こんなことされたら信じざるを得ないじゃない。狡い、狡い人。

信じて貰えるまでこうしてるよ、そう言って彼は私の手を自分の心の臓に置いて手を離さなかった。でもね、信じたくなんかないの。だってそう言ってあの人も、置いていったじゃない。言葉と想いは比例にならない、それを私は痛いほど知っているから。

ああ、彼のせいで忘れていた、忘れられそうだったあの人のことを思い出した。

そうだよ、おばあちゃんの手伝いをしたかったからなんて嘘。私はあの人に見捨てられたからここにしか居場所はなくてなりたいものなんてなかった。ただ在るものに縋るだけで精一杯だった。

幼い頃、母親が死んで父親と暮らしていた。拙いながらもお父さんはわたしを沢山の愛で育ててくれたしわたしもそんなあの人が大好きだった。だけど突然だった、あの人の愛しいものが私じゃ無くなることは。知り合って恋に落ちた女の人にお父さんは連れられて私をおばあちゃんに預けて出て行った。

ねぇ、そんなに私は邪魔だった?
そんなにお母さんがいなくなったのが寂しかった?
そんなにお母さんのこと簡単に忘れちゃえるの?

ねぇ、そんなに私はお父さんにとって忘れられる存在だったの?


人の愛しいものが変わることは、移りゆく心は仕方がないことなの?

私はそんな人間が嫌い、そして私自身もそんな人間になんてなりたくない。嫌悪感を抱くくらいそんな人は嫌いなの。だからなんの確証もなく簡単に好きだなんて言わないで。信じてしまいたくなるから。

伊野尾くんもいつか私じゃない誰かを好きになってどこかで勝手に幸せになるんでしょ。


お母さんが死んだ時に約束した。
「パパは居なくならないよ、ずっと側にいるよ」

嘘つき。嘘つきだよ。

人の好きだと言う言葉ほど曖昧で残酷なものは無いよ。

だけどどうしてだろうね、伊野尾くんの触れるところ全てが熱をもって私の存在を肯定してくれる度に彼に縋りついてしまいたくなる、だけどそうしたらきっと最後。もうその手を離してあげることは出来なくなるのに。


fin .





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