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まるで味気のない日々を喰らう毎日


出逢いは最低だったと言えてしまうかもしれない、だけどその中で唯一最低じゃなかったのは青の街頭のもと浮かんだ仄白い顔があまりにも綺麗だったことくらいだった。そのすぐ近くには雨に滴れた紫陽花が皮肉にも水滴を帯びて煌いていた。


その日は仕事を早めに切り上げた、それというのも近頃台風が近づいてきているから。今日も例外なくそのせいか酷い曇天と激しい雨だった。靴の中にまで水が染み込んですこし気持ちが悪かった。そんな足早に帰る帰り道、どうしてか瞬間というのはいつも最悪でその場にはこんな時間帯だというのに彼と私しか其処にいなかった。


たまたま横に振り向かなければよかった。

私が見たその瞳に映し出されたのは溝があったのかそこにできた水溜りの上で力なく崩れ落ちた体躯だった。その傍に立っていたのはすこし項垂れて雨に濡れそぼった男の子だった。


その瞳がこちらを向くと視界が交差した、その瞳は今にも泣き出しそうな瞳だった。いや泣いていたのかもしれないそれがわからないほど彼は滴り呆然とそこに立ち尽くしていた。その顔は驚くほど蒼白で、まだこんな夕暮れ時だというのに曇り空のせいで真っ暗になった世界に痛々しいほど浮かび上がっていた。唇は色をなくして無造作に枝垂れた腕も血の気をなくしていた。彼の着ている服は身体に張り付いてすこし肌が透けていた。


私は一瞬でも少し前に戻りたいとさえ思ってしまった、見なかったことにしたいと。だって厄介なことには変わりないのだから。そう思うのはある意味私がちゃんと人間らしいからだと思う。だけどこんな状況を見てしまったからには腹をくくらなければならない。私はそっと彼に近づいて傘を傾けた。そして考えた。

こんな時、なんて言葉をかけたらいいのだろう。


大丈夫とは聞けない、けして大丈夫ではないから。
何があったんですかとも聞けない、私が聞いていいものなのかわからないから。

彼の視線はくずおれる体躯にまた戻っていた、私の瞳が交差したのは一瞬だった。だから私は彼の見つめる方を見て言った。


「…救急車呼びますか?」

すると弱々しげに首を横振った。彼も理解していたんだろう、もう助からないと。私も分かっていたけれどここでそれを言わなければ死を認めてしまうことになりそうだったから避けた。


「…じゃぁ警察を呼びますか?」

そういうとすこし沈黙を置いてからまた弱々しげに首を微かに縦に振った。


「わかりました。だけどすこしだけこうしておきましようか…」

そっと彼の力のない弛緩した指先に触れた。思いのほか冷たくていつからこうしていたんだろうと考える。知りもしない人の手を繋いだのは初めてだった。だけどこのまますぐに警察を呼ぶのは酷な気がした、彼にすこし考えさせてあげる時間が必要だと思ったから。その手に温もりを分け与えるようにすこしの間そうしていた。

その時間の中で冷たくするりと長いその指がほんのすこしだけ縋るように私の手をほんのすこし握りしめたのを私は見逃さなかった。


味気のない日々を退屈だとは思っていたけどこんな衝撃的な日々を望んではいなかったのにと矛盾したことを思っていた。すぐ近くに咲いた紫陽花から水が滴るのを見て彼の涙の代わりなんじゃないかと思った。


fin .





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