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倖せの音が聴こえた気がしていた


ふと、彼が気付いたかのように目視する。黒いグランドピアノの上に丸まる一匹の猫に。

「今迄、いたっけ?」

この間、拾ってきてここに置けないかと思案したら店長が了承してくれた。最近は其処がお気に入りなのかよくピアノの上で丸まって寝ている、色が黒色で同化してよく気がつかないお客さんも多い。

あの時はまだ伊野尾くんとこんな関係にもなっていなくてあの子を妬んでいたことを思い出す。近づいて名前を呼んで耳の後ろを撫でると心地好さそうに喉を鳴らす。


「…モデ、お前最近太った?」

餌のやり過ぎかな、と思い心配している私の気も知らないでその黒猫は大きな欠伸をかます。

「…モデ?」
「…うん、ピアノが好きでいつもここにいるから音楽に纏わる名前にしようと思って」

モデラート。速度を表す楽語で「中くらいの速さ」という意味だけど本来の意味は「控え目の、節度のある」といったもの。あのたくさんいた猫の中で端っこの方で控えめにいるからいつも餌をもらい損ねる、だからどんどん痩せてきちゃって毎日そこを通る度に心配だった私はつい先日とうとう連れてきてしまった、すると次は太り過ぎてしまって困ったもんだ。


「なんかぽいね、名前…」
「うん、それにねピアノを弾くと反応して尻尾をふるの」

それが一番可愛いかな、というと一音鳴らすとついっと尻尾をふる。ピアノは私は弾けないが一音だけでも鳴らすと反応する、前飼っていた飼い主がもしかしたら家にピアノを置いていたのかもしれない。どことなく寂しそうに見えるから。


彼は遠慮がちに口を開いた。

「…これ、弾いてみてもいい?」

一応インテリアとして置いているピアノだけど弾けないことはない、だけど調律なんてしていないから正しい音階かは怪しい。それを伝えてもいいよと彼は微笑った。


高音のミから始まった。彼はそっと手を添えると流れるような手つきで奏でだした。

サン=サーンスが作曲したヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲。

「…序奏とロンド・カプリチオーソ」

前奏は甘くのびやかなアンダンテの序奏、後奏は軽快なプレストのロンド。

カプリチオーソには気紛れという意味がある。最初は気紛れに奏でて最期は何度も繰り返しを重ねる。その気紛れさが彼らしいなと思った曲だった。

ずっと聴いていたくなるような、そんな音だった。ピアノの上ではうたた寝していたモデがまるで耳を澄ましているかの様に思えた。


細くてしなやかな指先がいつも私の身体を熱していると思うとその指先に焦がれる、響く音が気紛れで自由でそれでいて今は苦しげに縛られているような気もする。伊野尾くんという人が分からない、身体を重ねても愛してると伝えても彼が何を考えているのか。すべて知りたいと思うのはエゴなんだろうか。

弾き終えると外は雨が降っていた、あの日と重なる。


「…来て、」

そう言われて誘われるように彼の膝の上に跨がる。見つめあって自然と触れ合う唇。綺麗な瞳は雨にでも触れたら溶け出してしまいそうだなんて馬鹿げたことを考える、この夢が醒めるのはいつなんだろう。

永遠に夢が見れないように、人間はいつか目を醒ます。それはいつなんだろう。

だけどどうか今はこのままで。瞳を閉じて瞼の裏に伊野尾くんが瞬きした顔が思い浮かぶ、睫毛が触れ合って擽ったい。誰かのものになったことがあるであろう唇に身を寄せるのが切なくて物悲しい。

彼の全ては私だけを知っている訳じゃない、その唇は今迄誰を知ってきたの?

聞きたくなんてないくせに考えてしまう、こんな女々しい気持ちには蓋をして砂糖入りの甘い珈琲に溺れて夢を見よう。


fin .





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