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歪な愛を望んだ結末の果てには


其の日はもう閉店間際だった、今日は店長が奥さんと結婚記念日らしくお店には私一人だけだったので早めに店じまいしようとしていた。

だけどその人はいつも不意に現れる。なんの予兆もなく。今日は雨が降っていてその髪が少し濡れていた。


「…まだ大丈夫ですか?」

遠慮がちに声を掛けられて思わず、はいと返事をしてしまった。外の扉にはひっくり返したクローズという掛札をしたのにも関わらず。

いつもと同じものを彼は頼んで今日も本を開けていた、暫くそうしていて私もさすがにそろそろ店を閉めなくてはと思い声を掛けると本に夢中になっていたのか一瞬驚いて彼は肩を震わせた。その振動のせいで空になっていた珈琲カップが落ちて割れた。彼は勢いよく謝る。


「…すみませんっ、」
「いえ…此方こそ急に話しかけてすみません。」

拾うのでとしゃがんで割れてしまった破片を拾い上げていく、その隙に覗いた彼の服などには染み一つなかった。それに安堵した。

静かな店内に食器のぶつかる音だけが響く、それが気まずくて私は彼に話しかけた。


「…甘いのお好きなんですか?」
「…え?」
「いえ、いつも砂糖を入れられるので」

好きです、と彼は言った。私に言った訳じゃないのに胸が跳ねた。いい歳にもなってブラックで飲めないの恥ずかしいんですけどとすこし照れ笑いながら言う彼が愛らしかった。私はそんなこと無いですと言った。そしてはじめて彼から私に話しかけられた。


「あの…ずっと僕もあなたに話しかけたいことがあったんです」

そう言うから期待してしまった。何だろうと。破片を片付けて布巾で床を拭いていた手首を掴まれて目線を合わすように彼もしゃがみ込んだ。


「…何をでしょうか?」

鼓動を落ち着かせてあくまでも冷静を取り繕って問うた。だけど彼の瞳は射抜くようで目を逸らさなかった。


「…すみません、カップはわざと落としました」

その言葉が静かな店内に響く。二人の呼吸と外から聞こえる僅かな雨音が店内には届いていた。


「…え、」
「…もうお店が閉まっているのもあなたが一人だと言うのも知っていて店に入りました。」

話すきっかけと、私と話したくてと彼は言った。手首を掴んでいた手が頬に触れる。触れられたいと思っていた手が私の頬に、そして横髪に触れてそれが揺れる。


「…あ、の」
「…いつも僕のことを見てましたよね?」

気を持ってもらえることを知っていたので伝えなくちゃと思ってと彼は言った。気付かれていた、恥ずかしくて消えてしまいたかった。熱を孕んだ瞳で卑しい目で彼を見ていたこと熱情を孕んだ想いが彼にバレていたんだとわかるとこの世界から消えてしまいたかった。嗚呼、その言い方はきっと視線が迷惑かその好意は迷惑だと言うことなんだと思った。諦めろということなんだと。だけど待っていた言葉はそんなものじゃ無かった。


「…僕も同じです。」
「…え?」

彼はそう告げると深く瞳を覗き込んできて触れそうな距離で違っていましたかと聞く。私はいいえ、とだけ言うと彼は深く熱いキスをした。

交わるようなキスは何度も角度を変えて唾液の音が響く、さっきまで静かだった店内が一つの音で支配される。彼と私の唇が奏でる音で。

服に手が掛かると私は床に尻餅をついて彼を見上げる、すこしだけ制するようにその手を拒んだ。


「…ここお店、」
「…クローズって札掛けてるでしょ」

誰も入ってこないよ、そんな私が言っている意味を交わして彼の手は止まらない。私は茹だるような彼の熱いキスに目が眩んでよく考えられなくなって最期に見たのは彼の肌けた胸と重めの前髪から覗く獣みたいな目と熱い吐息、それに見下ろされてその熱に侵された。まるで珈琲に溶ける砂糖のようにぐちゃぐちゃに愛し合った。

部屋には水音だけが響いてそれが雨音なのか何なのかは定かじゃ無い。


これが神様が仕掛けた甘い罠でも、現実で起きうる事のないことに困惑しながら甘い夢に溺れた。

私はずっと欲しかった不確かな温もりを手に入れた、それが例え一瞬の夢でも神様の仕掛けた罠でも。

彼はその日一言だけ最期に、甘かったねとだけ言った。


fin .





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