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花瞼


一度だけ、会いにくるよ。
その時、まだ俺を忘れられないでいてくれたら…


目を閉じると浮かぶのはあなたの顔、飽きるくらい見てたはずなのに、くしゃっとちょっと苦しそうに笑う顔も、そんなに下がりきらない頑固な眉をすこしだけ崩して困る顔も、泣き顔がお世辞にも綺麗だといえない顔も私にとっては全部が特別でだいすきだった。

私だって子供じゃないからそれなりに何度も恋をしてきた、そしたらやっぱりきっと慧ちゃんも何度も恋をしたのかなーとか思う。それはきっと当たり前でお互いがはじめて抱いた感情ではなくてそれでも私より前にもこの人に愛された人がいるのかとか思うと複雑な気持ちになるし、私以外にもこの人を愛した人がいるんだと思うとすこし嫉妬してしまう。

慧ちゃんの口で「好きだよ。」と何回言ったんだろうとか「お前はかわいいなぁ」とか口癖の言葉を何度使ったのだろうと思う。使いまわされた「すき」という言葉はきっと私だけのものじゃなくてやるせなくて切なくなる。初恋以外の恋は全部わりと醜い気がする。

それでも、もしもあの時をもっと大切に過ごせてたらってそう言えるのは今だからだ。あの時はただずっと君と一緒にいれると確信もないくせにそう信じてた、馬鹿な私。ほんと駄目駄目だったよね。


初めてデートをした時。
こんな私服を着るんだな、かっこいいななんて思ったり。コートを脱ぐだけの仕草もすこし長めのニットの腕をめくって時計を見るときに見える女の私と違って細いけどすこしだけ骨ばって筋があるとことか、熱い飲み物をふーふーしてる口とか、照れた時にすぐに泳いでしまう目線とか目が離せないくらい全部が可愛くてドキドキして、私はやっぱりずっと慧ちゃんに恋してるんだなあと再確認したんだ。


初めてそういうことをするってなった時。

「…こういうの着るんだ?」
「…こういうの苦手だった?」
「いや…意外だっただけ」

歯切れ悪そうに言うから私はどんな印象をもたれてるのか逆に気になっちゃってつい聞いちゃったんだよね。そしたらそれこそ意外な言葉が返ってきたからこっちが意外だわって返したんだよね。


「…私ってどんな下着つけてるイメージだったの?」

その日ははじめてかも、と思ってやっぱり普段つけてるものとは違っていわゆる勝負下着、とまではいかないけど慧ちゃんが好きな色、狙い過ぎてないものを選んでデートする昨日の夜からそわそわして着て寝たっていうのに。控えめのフリル、すこしだけ白い花柄が申し訳なさそうに散りばめられている物だった。


「いや…正直もっと地味なのを想像してた」
「なんで?」
「…だって見せる相手、俺だけだと思ってたから」

つまり慣れていそうな下着、見せるための下着があることを前々から持っていてそれを見せる男がいたって可愛い勘違いをしたみたいだ。それはそれで嫉妬する慧ちゃんが可愛くて嬉しかったからそのままでも良かったんだけど可哀想だから本当のことを話した。


「…馬鹿、慧ちゃんに見せるために用意したんだよ」

そういうと、いつもあんまり何を考えてるのかわからなくて顔に出ないその表情がすこし崩れた気がしてまた胸の奥がきゅんって鳴った気がした。慧ちゃんでも嬉しいって思ってくれてるんだと不器用だけど伝わった気がした。



私たちは知り合って半月で付き合った、わりと早かったのかもしれない。付き合った期間は三年。

漫画みたいな十年来の幼なじみでなんでも知ってる仲でもないし、想い出がたくさんある訳じゃないのに、もうまるでずっと慧ちゃんと過ごしてきたかのように記憶は上書きされて慧ちゃんと出会う前を忘れたようないるのが当たり前の存在になった時だった。


急に別れを切り出されたのは。

だけどなんとなくわかっていた気もした。仲が悪くなったわけじゃない、好きなのに離れがたいのに離れてほしいと慧ちゃんが願ったからだ。


慧ちゃんの家庭は少しだけ複雑で、だから結婚の話もあんまりしてこなかった。将来のことを話すと慧ちゃんが苦しそうな顔をするからだ。慧ちゃんのお父さんは亡くなっててお母さんに育てられたみたいだけど酒に酔って帰ってくるか男を連れて帰ってくるかのどっちかでしかなく家を出てもお金をせびられたりしてほっとけないんだと慧ちゃんの優しさが痛かった。


慧ちゃんが言った、なんでこんな親なんだろうってすごく恨んだこと。それでもやっぱり愛された記憶が消えなくて、子供の頃に俺が書いた似顔絵を今もまだ大事に持っていたり、二十歳の誕生日に今までの感謝の手紙を書いて渡したときに買い物をした時に流してくれた涙も嘘だと思えなく忘れられなくて、あの人が俺を優しくして、でも突き放して、でも縋ってきて、何を考えてるのか息子の俺でさえわからないのに…

心から憎めないんだ、と慧ちゃんは言った。
家族だからと、どんなに恨んでも、腹が立っても、許してしまえるそれが家族なんだと教えてくれた人だからと君が泣くから。私は何も言えなかった。



別れを切り出された時、
君の胸元の服全てが真っ赤だったはずの返り血がどす黒く変色して、顔は涙の跡がこびりついていたから。

泣きながら別れてくれと、俺と一緒にいたら幸せになれないと、側にいると苦しいとそう言いながら。


「…幸せをありがとうっ、」

そういっていつもなら何をしてても後ろから抱きついてきて、邪魔だと罵っても遠慮って言葉も知らないみたいにくっついてきたのにその服についたもうきっとこびりついて乾いてしまってるから私につくことはないと誰がどう見てもわかるのにそれでも慧ちゃんは私を抱きしめなかった。それを私につけたくないと変な遠慮を律儀に貫き通して。

ただ両手でそっと私の頬を包んでしばらく額をくっつけて泣くから、塩っぱい水が顔に降り注いだ。その手にそっと私も手を添えて震える手を宥めるように支えて、きつく自分を戒めるために、また声を押し殺すためにか下唇を噛むからその切れた唇を愛でるようにキスをした。


私ね、知ってるよ。
どうしようもない人だと罵りながらも慧ちゃんはお母さんがだいすきだったんだよね。優しい人だから心の底からは憎めなかったんだよね、でも病に侵されて段々狂ってしまっていったその人を慧ちゃんが楽にしてあげたかったんだよね。

私、わかってるから。いつまでも待つから。



だから慧ちゃんは言った。

「一度だけ、会いにくる。いつになるか分からないけど、その時まだ俺を忘れられないでいてくれたら…」


あれから五年が経った、もう慧ちゃんのすこし高い笑い声も忘れたよ。ううん、嘘。忘れてないけど忘れそうだよ。

私が覚えてる時までに帰ってこないとどうしてやろうか。慧ちゃんより素敵な人と付き合って結婚して幸せ絶頂だと見せつけられるような家庭を築こうか。ううん、きっとそんなの出来なくて、きっとそんなことをしても慧ちゃんはきっとまたそれを遠くから見て安心して泣きそうな顔で笑って一人でどっかに行っちゃうんだ。

一度だけ会いに来るなら、私は見つけやすい場所にいるよ。慧ちゃんが見つけてくれるだけじゃなくて私も見つけられるように。


そしたらお互い視線が交差して笑いあうんだ。
ああ、ほら見つけた。


すこし曇った顔をしてそれから私を見つけて必死で涙を堪えてるの。伸ばしたニットの袖で口を押さえながらきっと震えてるその私よりも大きい体を私は抱きしめに行く。すると私を抱きしめ返してようやく口を開く。声は震えたままで。


「…忘れられてると思った。」
「…うん、忘れる寸前だったよ」
「…でも覚えててくれた。」
「…忘れられるわけないよ」

「一回だけ、会いにきたんだ…」
「うん…」
「元気でいてくれたら、それが確認できたらもう良いって…」

でもっ…でも、と慧ちゃんは私の肩口に顔を埋めて子供が泣きじゃくるようにここが都会の端っこだってことも忘れて泣いた。


「…慧ちゃんが言ったんでしょ、約束忘れないでよね」
「…うんっ、」
「…あの時の返事、今するね。」

慧ちゃんが言った。

一度だけ、会いにくるよ。
その時、まだ俺を忘れられないでいてくれたら…

「「その時は、俺から離れないで」」

きつく抱きしめて離さないよ。首をしめつけて苦しいといっても、すこし身長が足りなくて背伸びの状態で足が攣って痛くても絶対に君を離さないから。


花瞼
( すきになるのは一瞬、)
( だけどすきになったら永遠。)

fin .





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