※コルムナ×マルク


足元から這い上がる凍えるような空気に、少年マルクは特徴的な紅玉の瞳を瞬かせた。
「あれ……ここは」
――ここは、どこだ?
見知らぬ場所、いや見渡す限りを薄暗い闇に覆われた空間にマルクは立っていた。ぐるりと周囲を見渡して今一度確認してみるが、薄っすらと視界に捉えるものは見覚えの無い殺風景な石造りの壁ぐらいのもので、ここがどんな場所なのかも察せはしなかった。あえて言うなら牢獄のイメージに近いかもしれない。人の気配も感じない、自身の衣擦れの音くらいしか聞こえない空間は暗闇も相まって次第に不安を呼び起こす。とにかく出口を見つけ外へ出ようと足を動かすも、こう暗くては自分がどこを歩いているのかも分からなくなる。ひやりとした壁に手を付き靴音を高く響かせながら黙々と歩を進めるが、どれだけの広さがあるのか検討もつかず、歩けば歩くほど不安は大きくなっていった。
そうしてどれくらいの時間が経ったのか、気付けば目の前に拓けた空間と差し込む明かりが見えてきた。思わず走り出して辿り着くと、そこは壁と同じ石造りのバルコニーで見下ろせば一体どれ程の高さがあるのか、霞がかった世界がただひたすらに広がっていた。少しだけ身を乗り出してみるも、こうも濃霧のように霞んでしまっては何も見えはしない。心地好い風がいたずらに頬を撫でるだけだ。そんなあまりにも果てしない光景に思わず唸り、少年は肩を落とした。
「ここからじゃ外に出るなんて無理……だよね……」
「――死にたいならどうぞ?」
手すりに指を掛けて呟くマルクの背後から唐突に男の声が響いて、少年はぎくりと肩を揺らすと恐る恐る声のした方へ顔を傾けた。
気配も足音も何も聞こえも感じもしなかったのに、まさか幽霊というやつだろうか。猟奇的なものは正直苦手なので勘弁願いたいのだが。そんな思考に怯えつつも見つめた先には、最悪の予想とは真逆の至って普通のサラリーマン風の男が、癖の無い青髪を外界から吹く風に遊ばせていた。なんの変哲もないスーツを身に着け厚めのレンズが嵌った黒縁の眼鏡を掛けており、僅かに寄せられた柳眉と引き結ばれた唇から冷淡で堅い印象を少年に抱かせる。だが、この何も無い場所で見つけた自分以外の唯一の人間だと思えば、どこか近寄り難い男だろうと持ち前の人懐こさもあってマルクは安心からすぐに親近感を持った。
とにかく幽霊でも怪物でもないなら怖くはない。もしかしたらこの場所から出る方法を聞けるかもしれないという希望が湧いて、マルクは口を開いた。
「あの、もしかしてここの人ですか?」
「ああ」
「良かったぁ。すみません勝手に入ってしまって……出口を探してるんですけど教えて貰えませんか?」
「出口なんて無いよ」
住人だと言う彼に胸を撫で下ろしたマルクに冷たく切り捨てるような声が告げた。
「……無い?」
「とうの昔に閉ざしてしまったからね」
だから外へ通じるのはここだけだと、バルコニーへと男は視線を投げる。その表情はどこか寂しげで、マルクは何故か落ち着かない気分になって指先を握り込んだ。男の口振りから外界との扉を閉ざしたのは彼自身なのだろうが、ならばどうしてそんなに寂しそうなのかと問いたくなる。けれど見ず知らずの人間のプライベートを詮索するのは躊躇われて目を伏せて、そういえばと思いついた別の話題を振ることにした。出口については仕方ない、今は置いておく。
「…そうだ、まだ名乗っていませんでしたね。僕はマルクです」
あなたは? と小さく首を傾げて訊ねれば、男は驚いたように何度か瞬きを繰り返す。それから妙なものに出くわしたとでも言わんばかりの顔をして、少年をまじまじと見つめてくる。その分縮まった距離に、黒縁眼鏡によって平凡な印象を与えていた男の顔が殊のほか端整であることに気付き、妙に圧倒されることになった。
「あ、の……?」
「きみ、変わっているって言われるだろう」
「へ?」
確かに幼馴染などからそう評されることもありはしたが、初対面の相手にまで、しかもサラリーマン然とした外見にそぐわず浮世離れしている感のある男から指摘されるとは思わなかった。そんなにおかしいのだろうかと自信を失いそうになりマルクが眉を下げると、男はふっと口元を緩めてみせる。それだけで随分と柔らかさを帯びる彼に今度はマルクが驚いて、その様子に男は笑みを深くした。
「僕はコルムナだ。……ふふ、名前なんてもう必要が無いと思っていたな」
「え…? 必要、ないんですか?」
「ここには僕しか居ないからね。誰も僕を呼ばない」
至極当然というように男――コルムナは話すが、内容は酷く現実感を伴わず異様だった。
自分以外に誰も居ない、だから誰も自分を呼ばない。街でごく普通に育ってきたマルクには到底想像もつかない環境である。確かにここには彼以外の気配は感じられず、彼の言う通り出入り口が無いのなら――何故かマルクは入れてしまったようだが、外部から来るものも無いのだろう。そうしてこの暗く冷たい建物で、彼はひとりの日々を過ごし続けていると言う。なのに当のコルムナは淡々としていて、彼にとってはそれが普通なのだと言外に告げていた。
でも、そんなことをそう易々と受け入れられるものだろうかとも思う。名前は誰かに呼んでもらうために在るのに、誰にも口にしてもらえないなんて悲しいことだ。自分ならきっと耐えられない。
先程の寂しげな表情が不意に過ぎって、マルクは思わずコルムナの手を取ると、レンズ越しの自分とは正反対の淡い瞳を覗き込んだ。その動作に慌てたらしくコルムナの掛けた眼鏡がずり落ちる。
「……っなに、を」
「僕が呼びます……!」
マルクの言葉にきょとんと、まるで月みたいな色をした目を大きく見開き静止した男は、初見の冷淡なイメージとは随分と違って見えた。けれど感情を表に出した彼の方が良いと、まだ男について何も知らないにも拘わらずマルクは思って、掴んだ手に力を込めた。
感じる低い体温に、いつか聞いた話を思い出す。手が冷たいひとは心が温かいんだと、子供じみた他愛ない話だ。でも、きっとそれは嘘ではないと、手を取られたままで唖然としているコルムナを見てマルクは確信を持って笑った。
「これからは僕があなたの名前を呼びます」
言い切ってにっこりと花が綻ぶように笑うマルクにコルムナは呆れたそぶりで一度溜息を吐き、繋がった手に視線を落とすと穏やかに目を細めた。懐かしいものを見るみたいに微かに和らぐそれは少しだけ切なさを滲ませていて。言ってはいけないことを口にしてしまったかと堪らずマルクが後悔しかけた時、一方的に掴まれているだけだった彼の手が握り返す感触がしてマルクははっとした。外界との接触を絶って色落ちた白い手が、意思を持って繋がれていた。
「――こうして触れることが出来ていたら、僕はここにはいなかったのかもしれないな」
自嘲めいた笑みを面に刷いてコルムナは呟く。そうして、流行らない黒縁の眼鏡を空いた手で押し上げたかと思うと、男はマルクの赤い――魔女が持つという宝石のように赤い色をした瞳を覗き込み、意味深に口角を上げた。まだ年若く見えるコルムナだったが浮かぶ表情は老獪で、ざわ、と鳥肌が立ちそうな感覚にマルクは息を呑んだ。
「僕の名を呼んでくれると言ったね。そう言ったこと、きっときみは悔いることになるよ」
「っ……どうしてですか?」
約束は破らない性質であると自負しているマルクは、コルムナに全てを否定されたような気がして咄嗟に言い返していた。それも男はどこ吹く風で小首を傾げると、「僕は一途なんだ」と何やら見当違いな台詞を吐く。
「気に入ったものは閉じ込めてしまいたくなるんだ」
いつの間にか見失ってしまった彼女のようにね。
間近に見据えるコルムナのゆっくりと動く口唇を追って、マルクはただ呆然と言葉も無く立ち尽くす。底を望めないほどの深海を思わせる青色を無造作に靡かせる男は、穏やかさを見せているのにその実、目だけは笑っていなかった。
後退りしそうになるマルクの手を引いてコルムナはうわ言のように続ける。
「今度こそ大事にしたいってずっと考えていた」
「…………」
「大きな力は僕を楽しませてくれたけど、それだけでは満たされない。やはり朝も夜も愛しい人の笑顔を傍で見ていたいし、可愛らしい声で名を呼んで欲しいと願ってしまうんだ」
まるで何かを演じるかのように饒舌に紡がれる言葉たち。
笑わない金色の瞳はマルクを映して、その奥に遠く誰かを見ているようだった。
「だから――ずっと、死ぬまで、ここから出しはしない。永遠に僕の為だけに生かしてあげるよ」
切り取られたバルコニーから強い風が吹き付ける。
ふと少年の脳裏を掠めたのは、力に魅入られ他を排除し孤独に生きるという王の物語だった。


愛は死よりも重い



ヘタレ街道突き進むコルムナさん書こうとしてたのに気付いたら微妙に病んでた不思議。あまやみ様よりお題拝借しました。
@11-0324

モドル
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テーマ「人外ファンタジー」
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