神はサイコロを振らない<後>

穏やかに髪を撫でる感覚にタクトはそろそろと重い瞼を開いた。身体を包む柔らかい布地。視界を埋めるここ最近で見慣れてしまった天井の模様に自分が寝かされていることに気付く。
最後の記憶とは違う場所にいる――いつの間にか意識を失っていたのかと溜息を吐いた。
瞬間、空気が揺れた。
「……タクト? 目が、覚めたのか」
驚きに滲む声に視線を動かせば、寝台の横で所在無げに椅子に腰掛けるスガタがいた。タクトが彼をその瞳に捉えると安堵したように口元を歪めてみせる。無理に笑おうとして失敗したみたいな表情にタクトは胸が苦しくて息を詰めた。
「目覚めなかったらどうしようって、心配したんだ」
「スガタ……」
「――よかった」
大袈裟だなと普段なら軽く言える言葉も、苦しげに笑うスガタを前にしてまるで喉に張り付いたように出て来ない。
スガタに――知られてしまった。タクトがもっとも知られてはならないと恐れていた人物に。知られて、しまった。
その事実がタクトの思考を真っ黒に塗り潰していくようだった。
きっと、今までのような関係は、もう築けない。普通に学園に通い、週末を過ごし、共に休日を楽しむことも多分出来なくなる。ここに来る前がそうであったように、タクトが晒されている現実を知れば今まで通りに接してもらえるとは思えない。
腫れ物にでも触るような周囲の態度はもう沢山だ。そう思って家を出たはずなのに、結局は同じ道を辿ることになる。
すべてがうまくいくわけがないと、こうなることはある程度予想していたというのに、いざ直面してみれば言葉も出てこない。なんて滑稽なんだと、タクトは傷付くのも構わず唇を噛んだ。
諦めなければならない。もう、全部終わったのだから。
「……僕、帰るよ」
「タクト?」
「迷惑かけて、ごめん」
傍らのスガタを視界に入れることなく呟くように言葉を並べた。訝しむようなスガタの声にもただ俯いて「ごめん」と繰り返す。
一時的に眠ったことで気だるさが幾分和らいだ身体を起こすと軽い眩暈に襲われたが、構わず上掛けを取り払おうと手を伸ばした。けれどその手はあっさりと阻まれて、強い力で肩を掴まれるとタクトは柔らかなシーツに再び身を沈めていた。驚きに大きな目をさらに大きく見開いて、タクトを押さえ込んだ人物を見上げて息を呑んだ。視線の先では色素の薄い切れ長の瞳がタクトを見下ろしていて、ゆっくりと細められる。
それは、あの夕暮れに染まる崖で見せた威圧感を含んだ笑みに似ていた。
「――スガ、」
「どこに行くんだ?」
まるで詰問するような口調だった。逃げることを、一切の誤魔化しを許さない響きでタクトに問いかけてくる。
それに怯みそうになる己を叱咤してタクトも答えた。なるべく視線は合わせないようにして。
「……寮に決まってるだろ」
これは本当で、嘘、だ。
寮に帰って荷物をまとめようと思った。このまま、気拙い空気のままで互いに気を遣い合うくらいなら本土に戻ってしまえばいいと思った。今度こそ何にも期待を抱かずに、家から出ずに暮らせばいい。自立するという夢は絶たれるけれど、それなら他人に迷惑をかけることも、それで自分が傷つくこともないのだから。
それが一番いいと考えた。のに。
「お前は嘘が下手だよな」
断定的に吐かれる言葉。
逃れられぬよう肩を押さえていた片方の手が離れ、先程噛んだことで僅かに血の滲むタクトの唇に触れる。ぴりっとした痛みに眉を寄せるタクトを見下ろしたまま、スガタは口を開いた。
「島から出ようなんて考えるなよ。……僕ならいくらでも手は打てる」
この家の当主として生まれて、初めてこの権力が役に立つな、とスガタが自嘲気味に笑みを浮かべた。
スガタが何を考えているのかタクトは図れずに紅い瞳を静かに瞬かせる。
過去に、タクトの病のことを知って離れる人間は、いた。タクトから身を引いてあからさまに安堵されることも珍しくはなかった。彼らにとってそれが感染するものだろうとそうでなかろうと問題ではなくて、ただ自分たちとは違う要素の有るものを排除したかったのだろうと思う。己に害を為すかもしれない可能性を切り捨てるのは仕方のないことだと、たとえ存在を抹消されたような扱いを受けてもタクトは悲観しなかった。
もちろんそんな心無いものばかりではなかったけれど、そうなると心を砕いてくれる彼らの負担になるまいと今まで以上に気を遣うことになり、その結果タクトの精神が疲弊していくという悪循環が起きる。そうなれば関係は長くはもたず、タクトの周囲からはひとり、またひとりと去っていくのだ。
それがタクトにとって当たり前のことになっていて。
だから、タクトにはスガタの反応が理解できない。
何故、自分をここに留めようとするのか――何故、彼が疎んじている節のある当主としての力を使ってまで成し遂げようとするのかと。
「どうして、って顔だな」
二人分の体重を受けて寝台が軋んだ音を立てる。唇を辿っていたスガタの指先が惜しむように離されて、そのまま今度はタクトの緋色の髪を柔らかく梳いた。目覚めた時に感じたものと同じ、穏やかな動きだった。
「……スガタは、僕に戦わせるために引きとめようとしてるんだろ?」
現状、シルシを持って彼の勢力に対抗することが出来るのはタクトだけだ。スガタは第一フェーズ以外に現段階では戦う術を持たないし、ワコは当然選択肢には入らない。そういう意味では貴重な存在であるタクトだからこそ、スガタもこうして囲い込もうとしているのではないのかと考える。島外に出てもゼロ時間の発動によって召喚されるかは不確定だ。ならば目の届く範囲に置いておこうとするのは当然のことで。
そうでなければ納得ができない。それ以外に厄介な病を持つ自分を必要とする理由なんて欠片も無いのだから、と。
けれど、タクトの推測はスガタの言葉にあっさりと破棄される。
「はは、心外だな。タクトには僕がそういう人間に見えるのか?」
首を傾げる仕草に癖のない青髪がさらりと揺れる。口ほどに気分を害した風はなく、淡い琥珀の瞳を細めると「正直、封印についてもどうでもいいくらいだ」とまでのたまった。
島の管理者たるシンドウ家の人間、それも当主のものとは到底思えない言葉を、スガタは言い放った。
「スガタ……? なに、言ってるかわかってるの?」
「出て行こうとしているんだったら、タクトにとってもどうでもいいことだろう」
「…………」
反論は、出来ない。理由はどうあれ、自分の勝手で途中で投げ出すことになるのだからそう採られるのは当然だ。
それでも、過去のように誰かの負担になるのも疎まれるのもタクトには耐えられなかった。スガタの重荷になることが目に見える未来ならば切り捨ててしまった方がいい。
最悪、シルシは他人に譲渡する。その為には適合者を探さなくてはならないが――
そこまで考えてタクトがそっと瞳を伏せると、スガタは押さえていたもう片方の手も離し、無防備に投げ出されていたタクトの手を恭しくとり、その甲へと額をつけた。まるで何かを祈るようにタクトには映った。
「僕は封印もシルシもどうでもいい」
「…スガタ?」
「タクトがいない世界なんてどうでもいいんだ」
大切に想っている人の心が離れていくのを黙って見ていなければならないのは、いつもいつも自分の方で。心配を掛けさせぬよう困らせぬよう、いつかの日のために距離をとって、怯えながら日々を過ごす。
「好きなんだ」
「――――!」
ガラスに囲まれたようなこの世界から連れ出そうとしている彼の手のひらから伝う穏やかな体温に、冷え切った心が溶けていくのをタクトはぼんやりとどこか遠く感じていた。

告げられた想いに零れそうに目を見開く少年を見下ろし、スガタは強張りそうになる表情筋を叱咤して柔らかく微笑した。
言うべきことは、言った。
拒絶される可能性の方が高いだろうことも分かっている。
それでも何も言わずに永遠に別れるくらいなら、弱みにつけ込んででも彼を繋ぎとめたいと思った。その為なら、憎しみすら抱くシンドウ家の力を使うことも厭わないとすら思えた。
封印もシルシも、興味が無いのは本当。
彼が現れるまでのモノクロの憂鬱な日常に戻ることなんて今更無理な話だと唇を歪める。一度知ってしまった幸福を簡単に忘れられるほど、聞き分けは良くない。
変色してこびり付く血液に汚れたタクトの手のひらに自身の手を重ねて、その温度を確かめる。この熱を失うことは、世界を滅茶苦茶にされることよりもスガタにとって恐ろしいことだ。自身の名が示す呪われた運命を塗りかえる存在である彼を、易々と手放すなんてどうして出来ると言うのだ。
「っは……言う相手、間違えてるんじゃないの?」
無理矢理笑おうと取り繕い視線を彷徨わせるタクトの震える声が空間に融ける。戦いに挑む姿も精神的な面でも、あんなに強いと思っていた彼が見せる脆さにどうしようもなく胸が締め付けられるようだった。
そう簡単に、奪われてなるものか。やっと見つけた、ずっと欲していた陽だまりを――
「残念。生憎視力は良い方でね」
「……じゃあ言うこと間違えてるよ」
「愛してる、の方が正解だったか?」
紅の瞳を逸らされたまま顰められる顔を覗き込んで、言葉を並べていく。
出逢ってからこれまでずっと彼を見つめてきた。僅かな変化でも、その表情が嫌悪なのか別のものなのかは大概察しはつく。
今、彼を取り巻いている感情は困惑と悲哀、だ。陰陽のラインぎりぎりのところで立ち竦んで踏み出せずにいる。
「そんなの、どっちも、間違えてる。スガタに必要なのは僕じゃない」
――このシルシと、戦うための力だけだ。
苦しげに胸の袷を掴んで、タクトが小さく吐き出す。
また、一人で背負い込んで耐えようとするのかと、スガタは重ねた手に力を込めた。
タクトが悲しみに揺れるのは自分の現状についてではない。相手が、スガタが傷付くことを憂えているのだと、気付いてしまったから。いつだって、彼が守ろうとするのは自分よりも誰かの為だったじゃないか。
「誰を必要かなんて僕が決めることだ。それがお前だったのも、僕が選んだことだ……!」
どれだけの時を自分を犠牲にして生きてきたんだと怒鳴りつけたいくらいだった。病に歪められたタクトの過去を、その辛さを解るのはタクトだけで、スガタにはきっと一生理解出来ない苦しみなのかもしれない。それを無理に知ろうとも思わない、同情にしかならないのなら知りたくもない。けれど、それでも自分の前でだけは我慢しないで欲しいというのは我侭なのだろうか。
こんな時まで誰かを守ろうとする優しさが、スガタには残酷にすら映った。
「僕がきみの重荷にしかならないって、分かってないんだ」
「分かって、どうするんだ、諦めろって? 馬鹿言うなよ。その程度で諦められるならこんなこと端から言わない」
彼の助けにと二度目の王の力を揮った時に、今度こそ目覚めない眠りにつくかもしれない覚悟で挑んだのだ。一度死んだも同然だというのに、今更、諦める要素がどこにあるっていうんだ?
「……この体がいつ駄目になるかわからないのに、一緒にいても辛いだけだ」
見下ろす先に、夕日色の瞳がじわりと滲む。
辛いのは誰なんだ。僕かお前か、それともお互いか。たとえ辛いことでも共有できるものならば悪くないと思ってしまったと告げたら、妙に生真面目なこの少年は怒るだろうかと笑いすらこみ上げてきた。
まったく、分かっていないのはどちらの方だ。
「それでもいいさ」
寝台に縫い止めていた身体を閉じ込めるように抱き締めて、スガタは穏やかに言葉を紡いだ。
離れるのは怖い、けれど知らぬ間に失うほうがもっと恐ろしい。
「そのいつかが来るのなら――その時は、王の力で殺してやる」
運命に浚われる前に、この手で奪ってしまえばいい。
「それで、僕も死んでやる」
独りになんてしてやるものか。
誰よりも何よりも、明るい陽の光の中で笑うのが似合う少年を孤独になんてさせはしない。これ以上の苦痛を彼に押し付けることを、たとえ彼自身であっても許さない。
ぎゅうと抱き竦める腕に力を込めれば、タクトの掠れた声がスガタの名を小さく呼んだ。
その音に僅かに拘束を解いてスガタがタクトに視線を合わせると、彼は普段よく見せる優しく柳眉を下げた表情でスガタを見ていた。紅玉の瞳がやわらかく瞬く。
先程までの悲壮さは、もう見えない。
「……すごい殺し文句だね」
「文字通りのな」
どちらともなく額をつき合わせて笑って、その拍子に流れた彼の涙をそっと拭った。

いつの日か、そう遠くない未来にその日は来るのだろう。
けれど、この誓いがある限り、彼はそばに在り続けてくれるのだろうと今は信じられる。
控えめにスガタへと腕をまわすタクトに微笑んで、スガタは儚い幸福をそっと噛み締めた。

交わす口付けは、血の味がした。




タイトルは某物理学者の言葉より。無駄に長くなりましたがここで終わりです。
病弱ネタは個人的にとても好きなのですけど書いてみたのは初めてで…いやすっごく難しい。死なない程度に最後は幸せっぽくしてあげたいと軌道修正何度もかけてのこの結末。頑張った割には突っ込みどころしかない作品ですが、そこはこう目を瞑って頂ければ幸いです。
希望通りのものとは程遠いとは思いますが(すみません…)リク主様、素敵なお題をありがとうございました!
@11-0114

モドル
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