偉大なるソクラテス 2 | ナノ



「だってさぁ〜、『無知の知』って意味わかんなくね?ムジュンしてるっていうか」

田島はむぅと頬を膨らませた。花井も田島が言いたいことが少しはわかる。言葉のニュアンスとしての違和感は否めないと思う。だが、一応『無知の知』がどういうことを意味しているのかは理解しているため、花井は持っていたシャーペンを机に転がして田島のために解説を始めた。

「無知の知っつうのは、神託…お告げで最も賢いと言われたソクラテスが、自分は賢くない、そのお告げは間違っていると証明しようとした時に、自分は『何も知らないことを知っている』から他人よりも賢いんじゃないかって気付いたのを表す言葉、かな。主に詭弁ばっかり言っていた他の知識人を非難してる面がある」
「とりあえずキベンって何」
「もう辞書引け馬鹿たれ」

田島は説明を受けても、うーんうーんと悩んでいる様子だった。見かねた花井は言葉を付け足す。

「まぁ、簡単に言えば知ったかぶりは良くないってところかな」

聞いて田島はそれなら少しわかっかも、と頷いた。

「出来るヤツぶるんじゃなくて、自分がバカってわかってるってことか。俺じゃん!!」

にししと笑う田島に呆れつつも笑みを返し、花井はシャーペンを握り直し自分の課題を始めた。どうせ皆が集まるまで田島は勉強なんざ出来ないだろうと、かりかりとプリントに数式を書き込みつつ、なんとなく田島との会話を続ける。

「ん…野球に関して言えばお前は知の無知ってとこかな」
「へ?なんで。しかも更にわかんねー」

花井は怪訝そうな声を出す田島の方は見ず、数学に集中して半ばぼんやりと答えた。

「だってお前、どれだけ自分がすげぇのか、わかってねぇと思うからさ」

ここは積分すれば答え出んな。一定のテンポを保って黒色が白に跡を残していく。

「野球のセンスとかは持ってるから『知ってる』ってことになるだろ……でもそーゆーのが他の奴らがどんだけ欲しいものなのかは……イマイチわかってねぇっつうか…」

あれ、変な答えになっちった…あ、やべ、区間分けなきゃ駄目じゃんこれ。

「…俺らがピンチになればなるほど、そう思ってさ、俺はそういう時お前のこと…カッコい………」

くそ、始めからやり直し…って待て待て待て!!

花井はやっとそこで自分が何を言おうとしているのか気付いた。今俺だいぶ恥ずかしいこと言おうとしてなかったか!?

しかも田島は黙ってじいっと話を聞いていたようだ。

「………ナンデモナイ」

堪らず無かったことにしようとした。

さっきまであんなに騒がしかったのになんでこういう時は黙るんだよ、と花井は殊更居心地悪く思った。田島の反応が怖くて恐る恐る顔をあげると、にかっと笑った田島の顔が見えた。

ずっと下を向いていた花井は、田島のその顔が花井が顔をあげる少し前までうっすら紅潮していたことを知らない。

「花井、なんか顔赤くねえ?」

田島は気付かれていないのを良いことに自分のことは棚上げにしてにやにやと指摘した。自覚があったのもあり、花井はその言葉に更に顔が熱くなるのを感じた。

「あ、暑いからじゃねぇの」

確かに若葉の眩しいこの季節は気温も随分と上がってきてはいるが、しどろもどろに言った言い訳が通る訳がない。花井はしっかり自覚していて、彼の頬の赤みは中々消えなかった。

「ふーんへぇー花井って俺のことそんな風に思ってたんだぁー」

田島は机から身を乗り出して花井の色素の薄い瞳を覗き込んだ。動揺した薄茶がゆらゆらと揺れている。く、と田島の喉が鳴った。

花井はまたこれだ、と田島の様子に眉を下げた。いつもの田島は小学生か、はてまた幼児かと言いたくなるくらい幼い。人目も憚らず全裸になろうとしたりナニ発言連発したり、言ってしまえばただの手のかかるチビのエロガキ。

だが、彼の瞳は時々、自分よりもずっと大人びた色を含むのだ。

気付くと田島はもとの位置に戻っていた。花井はいつもと何も変わらない田島を見て、動揺してしまった自分は負けな気がしていた。

「花井は無知の無知だな」
「は…?」

田島は違和感の残る笑顔でそう言った。しかし田島の複雑で些細な表情の動きなんて全く気付かないほど花井は田島の言葉で頭が一杯になっていた。

無知の無知。

それは、俺が野球のセンスなんて全然持ってないことに俺が気付いてないって…?

正直、田島にそんな風に思われていたということは花井にはとても痛かった。

「てーか、なーんにも知らねーっていうかー?――あ、野球の話じゃねーよ?」
「違うのかよ!……ややこしいな」

ぐるぐると考え始めてしまった花井が何に悩んでいるのかわかったのだろう。田島は言葉を付け足した。その言葉で自分では気付いていないのだろうが、花井はあからさまにほっとしたようだった。

――花井ってやっぱわかりやしーなぁ。

自分の言葉が花井の感情を揺さぶっているということが田島は少し嬉しい。それだけ強く、田島の存在が花井の中にあるということだと思うのだ。どうでもいいヤツの言葉が人を振り回すことなんてない。

だから、実は、田島は花井に振り回されていたりする。田島が倫理の基本的な単語すら頭に入らないのも田島に言わせれば花井がいけないのだ。偶然とはいえ花井と二人で帰宅、自分の部屋に二人っきり――田島自身もよくわかっていないが自分が意識してしまっている人がそんな状況で近くにいて、落ち着いていられる筈がない。折角花井を独り占めできているのに、ただ勉強だなんて時間が勿体なく思えてしまう。

これからどうしたいかわからない田島の感情は、恋というにはあまりに淡い。それでも田島ばかり嬉しくて、舞い上がっていて、内心どきどきしていて。

でもそんなことだって、

「例えば俺のこととかさー」

花井はまったく知らないのだ。

しかし、花井は知らなくても良いのだ。本当に恋というものならば、見ているだけなんて器用なこと、田島は出来ない。だから、いつか、我慢ができなくなって全て伝えてしまう――その日がくるまで。

花井は田島の言葉の意味するところを知らず、いつも通りに戻って嘆息した。

「んだよそれ…そんなん言ったら誰だってそうだろ」
「あー、そっかー。きっと皆知らないな」

田島はまたにやにや笑って見せた。それがどこか余裕っぽく目に映り、花井はむっと眉を寄せた。

田島の珍しくややセンチメンタルな心情とは違い、花井にしてみれば今の状況は、勉強は進まない、田島は馬鹿、その馬鹿に無知と言われ、落ち込んでみれば今度は田島は意味不明。

生憎花井の性格はやられっぱなしになっていられるほど穏やかなものではなかった。

「…」

時間を割いた分、田島には内容がちゃんと届いているのか?

花井はバシン!と勢い良く田島の開いていた教科書とノートをまとめて閉じた。そして身を乗り出して、さっきの田島のように、田島の目を覗き込む。不意を突かれた田島は珍しく、少しだけ身を引いた。

「え、はな、い?」

花井はにっこりと笑って田島に問いかけた。

「――んで。これだけ話したし何かしら答えられるよな。取り敢えず『無知の知』にもっとも深く関わりのある人物の名前は?」

突然の問題と花井の笑顔のアップに田島は固まった。

「あ、え、えと、あれ!?」

突然すぎる会話の方向転換に田島は嫌な予感しかしなかった。言葉がつっかかって出てこない。

しかし恐ろしく優しい調子で花井は問う。

「まず、これなら答えられるよなぁ?俺がさっき説明した時に言った筈だしなぁ?」

田島はおろおろと視線をさまよわせた。何故かそんなんわかんねぇと笑い飛ばすことが出来なかった。完全に形勢が逆転していた。

「……そ」
「ソ?」

滅多にないくらい優しく花井は言葉を繰り返した。その唇が少しエロいとか考えつつもしかし今の田島にはそんな自分の煩悩に構う暇もなく。

「そ、ソ…」
「…」

なんか…なんか……!

なんかそれっぽいの……!!

「ソウナンデス!みた、いな!!」

花井は田島の脳細胞の減少についての深刻な問題に関して心配をする余裕もなく、田島の脳天にまっすぐ拳を振り下ろした。

「もうただの日本語じゃねぇかぁぁぁ!!」
「ってぇ――――!!」

丁度その時インターフォンが鳴った。他の勉強会参加者がやって来たのだろう。花井は出迎えようと玄関へと立ち上がった。田島はうぐうぐと頭を抱えたまま、ゆっくりとその後を追った。

田島が俯いたままひたひたと廊下を歩いていると、玄関付近がが一気に賑やかになったのがわかった。目をあげればいつもの仲間がいた。花井が屈託のない笑顔を浮かべている。

ああ、終わっちゃったな。

二人っきりなんてこの先あまり期待できないだろうけれど、友達以外に何もない関係に甘さも何もないのだけれど、田島は花井と過ごせた時間を思い返し口元にほんのり笑みを浮かべたのだった。

偉大なるソクラテス



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