きぃんとした音が、鼓膜を突き抜けていく。ああ、打たれちまった。ランナーの背中が遠くなる。三橋はもうヒットの音に怯えはしないけれど、この局面で打たれたことにはきっと落ち込んでいるだろう。俺はメットを外して三橋に駆け寄った。 「あ、あべくん」 マウンドまで行くと三橋の方から話しかけられた。吃ってはいるが、落ち着いている。俺は何も言わずに三橋の次の言葉を待つ。 三橋はそろりと、俺と視線を合わせた。 「俺を食べて」 唇が確かにそう動く。明らかにおかしな言葉を俺は異常だとは思わなかった。 三橋は右手を俺の唇へと伸ばした。少し固くなった指先が俺の口腔に侵入しようと、軽い圧をかけてきた。かつ、短く切られた爪が歯に当たった。 「ね 食べて」 どこか誘うような雰囲気があった。誘い、惑わせるような。頭がぼうっとして、配球もスコアも吹っ飛んだ。俺は言われるがままに小さく口を開けて三橋の指先を受け入れ、かじりついた。三橋の指は繊細な飴細工でできていたのか、弱く噛んだだけでかしゃんと砕けて俺の舌に広がった。なんだか、甘い。甘いのはあんまり好きじゃないけれど夢中になって舐めて、かじって、飲み込んだ。 一通り味わうと、三橋はぷらん、と手をおろした。 欠けてしまった三橋の指先からは、薄青と藍と紺の混じってうねうねとせめぎあっているような液体が滴り落ちた。ぽた、ぽたり。見覚えのある色だ。空色。夜色。ああ、夜だ、道理でいつの間に広い野球場には俺と三橋の二人ぎりしかいなくなっている。 気付くと三橋も指先から流れ出す夜に囚われて、滲むようにいなくなっていた。 いや、なんて抽象的な夢なんだか。 俺はもぞもぞとかけ布団に顔を埋めた。自分の体温で温くなった布が頬に触れ、僅かに安心感を得る。夢を見るのは久しぶりだった。生々しさに欠けた夢は逆に俺の深層心理でも表していそうで寝覚めが悪い。俺が馬鹿のように大事に大事にしている三橋の指をぶっ壊したいなんて思うわけがないけれど、ひやりとした恐怖を感じるには十分だった。 二度寝をする時間はなく、俺はのろのろと朝練の為に起き上がった。支度を終えて外に出れば、ひやりとした空気が顔にぶつかった。 いつも通り徒歩でグラウンドに向かっていると背後から声がかかった。 「阿部おはよっ」 「はよ…なんだ栄口か」 「なんだとはなんだい」 「別に」 朝から失礼な奴だ!と栄口は俺の肩を小突いた。いてえな、そう振り向いた先の栄口の頬はうっすら赤くなっていた。木枯らしがひゅうと通りすぎ、埃を巻き上げていく。 「随分寒くなってきたなぁ。空気なんて乾燥してぱりぱりしてる。お肌が…」 「女子か。水谷みてーなこと言ってんじゃねーよ」 若干の軽蔑をこめて栄口に言う。栄口は爽やかに笑いながら返した。 「えー、あはは、あれと一緒にすんなよ」 「………お前も大概言うよなぁー」 憐れ水谷。 だらだらと会話をしているといつの間にかグラウンドだ。そして時間になれば、いつも通りの練習が始まった。春にこの野球部が発足した頃に比べるとその内容は遥かに厳しいものになっていた。とはいえ朝からそんなにガンガン体を動かしていては身が持たないので適度な練習メニューが組まれていた。 「あっ、あべくっ」 アップが終わると三橋が目に見えてわくわくしながら近寄ってきた。 「おう、投球練習しよーぜ」 「うんっ!」 そう、この景色。三橋が嬉しそうに、堂々と立ってこちらをじっと見てくる。そして構えれば、白球がスパンッ、とミットに叩き込まれた。三橋の指先はかじかんで暴投、なんて事件は起こさない。左手がじんと熱い。類稀な制球力、それを生み出す腕、指先。 「ナイピッ」 言って返球すれば、三橋は不細工に笑った。再び構える。朝は時間が少ないから、一球一球を丁寧に。今度はカーブ。これもしっかりとした重さと共にキャッチャーミットに吸い込まれた。 俺も嬉しくなって三橋に声をかける。 「調子良いな三橋」 「うっ うん!!」 『あべくん、オレを食べて』 現実に差し込まれた映像に一瞬、真顔になってしまった。 「……」 もう一度座り直す。野球をしている今でさえ、唇と口の中にはまだ砕けた指の感触と甘さが残っていてなかなか忘れられなかった。ふざけるな、たかだか夢だと振り切って何回も何回も、投球練習を続けるうち、三橋が不安そうな表情を見せ始めた。三橋が不安になるのは、自分が投球できなくなるのではないかというマイナス思考の結果であることが多い。というかそれしかない。この短い間に何があったんだ。あったとするなら。 ――俺も存外、わかりやすいのかもしれない。 「あべ、く」 投球練習を終えると三橋が駆け寄って来た。じ、と俺の顔を見ている。この表情は不安じゃない、心配だ。そのくらいならわかる。 「あ、の、」 「あー、うん、俺が」 言いかけたところで、唇をピリッとした痛みが走った。痛む部分はすぐに熱くなる。唇が切れてしまったのか。なるほど、確かに栄口がぐちるほど深刻に空気が乾燥していたようだ。 傷ができる瞬間を見た三橋は当然慌て出した。 「あ、あ、血が、出て」 タコだらけの右手がふらふらさ迷って、俺の唇に伸びた。しかし、三橋ははっと現在の自分の状態を思い出した。 「あっ、オレ手汚ッ」 反射、とは違う。ただ俺は思わず引かれそうになる三橋の右手の指先をぱくりとくわえていた。 「うぉっ!?あべっ、く!?」 びくぅ!と三橋は物凄く驚いていた。無理に指を引くこともなく、キョドキョドと周りを見て助けを求めている。どうしようどうしたらいいんだどうしてこうなってしまったんだ。そんな心の声が聞こえてくるようだ、俺は三橋に同情した。 しかし。多分俺もそれと同じくらい、自分の行動の突飛さに驚愕していた。どうしようどうしたらいいんだどうしてこうなってしまったんだ。理由は想像がつくが、だからといって現実が修正される訳もなく、三橋の指先を間抜けに食んだまま、俺は硬直した。 一方が、他方の指をくわえて膠着状態だ。俺たちを見てしまった周りの部員も、「いっ」とか「うぇ!?」とか奇声を発して硬直した。まるで連鎖反応だ。 しかし、動揺している周囲を感じ段々と脳が動き始めたようで、俺は口を離そうとし――その前に舌で三橋の指先をなぞってみた。 「ひ!」 三橋はやはりびくりと肩をはねさせ、奇声を発した。そしてまた連鎖するように周囲も僅かに身動ぎする。なんだか面白くなって、俺はくく、と笑ってしまった。 「なに笑ってンだ、よ!!」 ばかんっ!と思いっきり後頭部を叩かれ、星が飛んだ。今のは絶対に手加減なしの一発だ。あにすんだと振り返ると花井が大変ご立腹な様子で仁王立ちしていた。 「ってーな!」 「痛くしてんだよ!!何してんだお前!」 「あ?…………ワリ、わかんね」 「ふざっけんな!!真顔で言うな!」 取り敢えず、一番に叩きに来たコイツはやっぱり主将だなぁと感心してみたりした。 三橋は真っ赤になっておろおろしている。まずは謝罪か。俺は三橋に向き直るとわりい、と謝った。 「なんかよくわかんねぇんだけど、噛んでた」 「あっ、え、うぉ……へ、へいき、だよ」 三橋はふにゃ、と眉を下げた。 「ったく…意味ワカンネーけどとにかく練習あがっぞ!!阿部はとっとと防具片せよ」 「おー。三橋先行っていいぞ。田島も呼んでるし」 「あ………うん!」 みぃはしーっ!!とぶんぶん手を振る田島の方へと三橋を送り出す。三橋は何か言いたげな様子を僅かに見せたが、俺の言う通り田島の方へと駆け出した。花井もため息をつくとモモカンの方へとさっさと行ってしまった。 俺ものんびりはしてられない。移動しながら、くちのなかで舌を動かしてみる。 土の煙たさと、汗のしょっぱさと、刷り込まれたような硬球の香り。えぐみが強くて食べるには不味すぎる。早く口を漱ぎたいくらいだ。 「…やっぱりこっちが三橋の味だよなぁ」 俺は誰にも聞かれぬようぽそりと呟いた。夢の中の三橋は、儚げに甘さを気取っていたけれど、本物の三橋の努力があんな風に甘ったるい筈がない。だから、あんな破壊欲求にも似た悪夢は恐れるに足りないのだ。 口直しに唇の傷口を舐める。そうしてやっと、俺は一日を始めた。 逆夢メランコリー 20121227 back |