偉大なるソクラテス | ナノ


「矛盾」「無知の知」「ピンチ」
の三題噺として書きました。






二年生になって初めての定期考査が迫るある日、田島の部屋では勉強会が始まっていた。ただ、普段のそれとは違い、今部屋に集まっているのは田島と花井だけだ。西浦硬式野球部の愉快な仲間たちは――巣山と栄口が教師につかまり雑用をさせられたり、阿部が三橋の今日中に提出しなければならない数学の課題をウメボシをかましながら手伝っていたり――幾つかの偶然が重なり少し遅れて着くことになっている。

しかし。

――早く、誰か来てくれ…。

人が増えたら増えたでうるさくなって、更に自分は英語を教える立場になるというのに、花井は祈っていた。

原因は机の向こう側の問題児だ。

「だぁー!!ダメだこんなん全っ然わっかんねーよ!!」

そう叫んで田島は両手で自分の髪をぐしゃぐしゃと混ぜ返した。もともと好き勝手にはねていた髪の毛が更にぼさぼさになっている。足が軽くテーブルを蹴っ飛ばしたのか、卓上のグラスに入った二つの麦茶が危うく溢れそうになった。

花井は机に頬杖をついてため息をついた。田島の声でまた数式がこんがらがってしまった。阿部が来るまでに終わらせておいてチェックして貰おうと思ってた課題なのに。花井はちらりと部屋にある時計を確認した。

「…ふざけんなよ田島…まだ五分も経ってねぇじゃねぇか…」

田島の集中力が野球にしか使えないことを花井は去年の付き合いで嫌というほどよく知っている。それでも、だ。

「……てめーがやってんの倫理じゃねーか!!わかんなくても良いからまず単語覚えろ!!お前スコア馬鹿みたいに暗記出来んじゃねーかぁ!!」
「つってもワケわかんねぇもんどーやって覚えるんだよ!!」
「何も覚えないよかマシだっつの!後で西広も来てくれんだからその予習とでも思って…」
「そんでも無理!!」

花井のもっとも過ぎる正論にも田島は恐れることなく反論する。暫しお互いに睨み合った。花井はただの田島の努力不足だと思っていたが、じっと見つめてくる田島の目に少し怯んだ。花井はこの真っ黒な瞳に弱い。

結局は根っからのお兄ちゃん気質がいつも通りに災いし――花井は田島に折れてしまうのだった。花井は心の中で倫理も内容理解必須だもんな…と言い訳をした。

「……しょーがねぇなぁ…」

きっと畳の香りには気を鎮める効果があると信じ息を吸い込む。そして再び、はぁぁぁ、と深いため息ををついて花井は田島の手元を覗き込んだ。散ったルーズリーフに田島の汚い字が踊っていて、一応の努力の跡が見られた。五分ぶんだが。

「で、どこがわかんないんだよ」
「これっ」

待ってましたとばかりに田島が指差した箇所を見て、花井は絶句した。


『無知の知』


「……………………嘘だろ…」

花井は崩れ落ち、机に突っ伏した。信じられない。ソクラテスなんて倫理の初歩の初歩だ。こんなもの授業を聞いていれば覚えようとせずとも頭に残りそうなのに…!!

寝てただろ!倫理をぜってぇ睡眠時間にしてただろ!!

花井があまりのショックに戦闘不能状態になっているのにも構わず、田島は続けた。



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