会いたい、と言ったら突然だなと笑われた。そして、俺も会いたい、と言われた。期待はしていないけれどそれだけで嬉しくて仕方がなかった。 話を聞くと花井もかなり忙しいらしい。けれど、なんとか奇跡的に二人ともオフが重なる日が見つかり、花井に連絡を入れて一週間も経たぬうちに会うことが決まった。晩夏、まだ日の沈まぬうちに待ち合わせることになった。 だいぶ早く到着し駅で大人しく待っていると、時間通りに到着した花井は改札から急ぎ足でこちらに向かってきた。随分雰囲気が変わっている。それでもすぐに花井だとわかった自分は痛々しいが誇らしい。飲み会を断り続けていたから、花井に会うのはだいたい一年半ぶりくらいだ。陽のもとで出会った花井は髪を伸ばしていて、癖っ毛なのか柔らかそうにふわふわと揺れていた。坊主頭の花井もストイックで好きだったが、髪を伸ばした花井もそのぶん色気が出ているように感じて俺の心臓をバクバク鳴らすのには十分過ぎる興奮材料だった。 しかしそんな俺の一方的な昂りも、花井の後からある人物が現れたことで鎮火した。 「なんで阿部がいるんだよ!」 阿部はさも当然のように花井の隣に立っていた。そういえば進学先も一緒だったな、尚更腹が立つ。会って早々にかみつくと、花井は苦笑した。 「阿部がどうしても田島に会いたいっていうからさー…っていうか、お前らそんなに仲良かったっけ」 揉めているのは阿部のことなのに当人は我関せずとでも言いたげにそっぽを向いている。その態度にもっと腹が立って睨んでいると阿部はちらりとこちらを見て、べっと舌を出した。 向かったのは全国で大規模にチェーン展開している居酒屋だった。大人になるとどうしても「会う」と「呑む」が直結してしまうきらいがあるなあと思う。まぁ酒自体は嫌いではないから問題はない。その居酒屋は部屋が小さく分けられているせいか周囲の騒がしさや本来なら他所からもきつく漂っているであろうアルコールの匂いが遠くてなかなか居心地が良かった。 最初こそ阿部の存在が邪魔に思えてしょうがなかったが、第三者がいることは正直プラスに働いていた。会話内容はお互いの近況や他の野球部員の話が主で、弾んだ花井の声を聞くのはとても気持ちが良かった。 「あ、ワリ、ちょっとトイレ」 「おー、暫く帰ってくんな」 「んだそれ」 途中、阿部とそんな会話をしてから花井は中座した。阿部と二人残されて、一度会話が途絶える。もともと特に仲が良いわけではないし、沈黙は気まずいけれど、高校三年間も付き合っていただけあって場の空気を気にする間柄でもなくなっていた。 阿部はぐいっとビールをあおって、ふぅと息を吐いた。 「なあ」 「何だよ」 阿部から話しかけられて、少し珍しく思う。阿部は俺を見て、なんでもないことのようにさらりと言った。 「花井に彼女できたの、お前知ってる?」 ざ、と全身から血が引いた。動揺しすぎてジョッキの取っ手にかけていた指先が思わず震えてしまった。重たいガラスの音がテーブルにぶつかった。 こんな酒の席で、女の話が出ないわけがない。花井がそういう話を好まないのをいいことに、俺はずっと、無意識、いや、意識的にその話題を避けていた。花井が誰かに独占されてしまう可能性なんて幾らでもあるっていうのに、わかっていたけど忘れたふりをしていたのだ。 阿部は無感動に、声が発せない俺を眺めてから、うそ、と唇を動かした。 「嘘だよ。アイツ、モテるのにまだフリー。全然女っ気ねーの」 「なっ…、なんだ、先越されたかと思ったじゃねーか」 俺は必死になって動揺を押し込めて苦笑いをした。心臓はばくばくと嫌な速度で拍動を続けている。 そんな俺を見て、阿部はまたジョッキを唇に寄せた。 「ふっきれたのかとも思ってたけど…お前、花井のこと諦めてなかったのな」 「……は?」 言葉の意味を捉えかねて、思考が鈍る。俺は間抜けな顔で阿部を見た。 「え、は、何の話」 「恋の話」 「茶化すなって、」 「茶化してるのはお前だろーが、田島」 さっきから相当な量呑んでいた癖に阿部の声は冷静で真面目なもので、俺はうっかりこの話題をはぐらかすのを忘れてしまった。そして、俺が黙ってしまったのをいいことに阿部は話し出した。 「高一の頃から、お前、ずっと花井のこと見てたじゃん。だから『そういう』ことかと思ってた。それが高三の秋から、妙に花井から目、逸らしてて。ああ、諦めたんだ、って思ってたんだけど」 何を、なんて訊いたら、阿部のことだ、意地の悪い返答が来るだろう。俺は黙ってビールを口に含んだ。苦い。 阿部は横目で俺を見た。 「お前、言うの」 「……なんで阿部にそんなこと言わなきゃなんねーの」 俺はこれ以上の阿部の干渉を拒絶した。知られていたということに対する羞恥もあった。でも、阿部の言葉は俺の拒絶をぐらつかせた。 「花井の友人だからな、こんなでも」 「…、」 花井を大切にする阿部を、俺は無下にはできなかった。 少しばかり逡巡してから、言わねえ、と俺は答えた。かすれてしまったけれど、聞こえているだろう。阿部はどこか疑っているかのように俺に問うた。 「じゃあなんで、また花井と付き合いだしたんだ?」 容赦のない直球ばかりがきて、心臓が痛みで痺れてじんじんした。 「……諦めたんだよ、花井のこと」 もう阿部の顔を見ることなんて出来なくて、俺は机に広げられた飲み物とツマミを眺めた。半分ほど入ったままのビールの、ジョッキに出来た結露が表面を伝う。 「でも俺は、花井の傍にいることを、諦められなかったんだ」 そう、だから俺は実際想いを引き摺ったまま性懲りもなく花井に会ったのだ。阿部はただ、面白くもないことを聞いたように、ふーんと言っただけだった。 俺は半目になって阿部を睨んだ。 「阿部、本当何しに来たんだよ。さっきから随分シュミが悪いよな」 他人の胸の内を無遠慮に暴いて踏み荒らして、満足か。今度は俺が責め立てるように阿部に問うと阿部は小さくため息を漏らした。机に肘をつき、気だるそうにしている。 「…花井さ、最近すげー機嫌よくてさ」 「は?」 阿部には言葉が通じないのか。急転換した話題を不審に思う。けれど、この話がどのように展開されるかもわからないので俺は一先ず聞くことにした。 「で、どうした?って聞いたら、田島から連絡来たー、ってすっげえ嬉しそうに言うわけ。あー、これやべーなってなるだろ。だって田島はもう花井を諦めたかと思ったけど、本当にそうなのかわかんねぇじゃん。んで、花井の方はギクシャクしていた友人から連絡が来て喜んでるのに、会ってみたらホモでした、とかだとしたらさ、立ち直れねぇだろ」 俺は花井の友人だ。阿部は繰り返す。もしかして少し酔っているのか。 「友人だから、今日は花井を守るために押しかけたんだ。悪いとか全く思ってねぇからなザマミロ」 「てめっコンニャロー」 「――そんでだな、お前も、まぁ一応、俺の友人なんだ」 面と向かって言われて、驚いてパチクリとまばたきしてしまった。まさかあの阿部からこんな言葉が出てくるとは。阿部は続けた。 「さっき嘘で花井に彼女ができたっつったろ。どう思った?その彼女が!羨ましい、妬ましい。他には、苦しい、悲しい、色々あんだろ。オメーは花井の傍に戻ろうとしてるんだろ。傍にいれば、そりゃ、幸福に思えることもあるだろな。でもそれ以上に、見たくないものをたくさん見ることになるんだ。それ、わかってんのか」 阿部はいつになく饒舌だった。酔っている、そうは思ったがその目は真剣だ。俺は、阿部の言葉を反芻した。覚悟は、あのなんてことはない夏の夜空の下で、したのに。 「――わかってたけど、わかってなかった」 阿部の嘘のせいで一時沸き上がったあの感情はあまりに乱暴で、まだ制御出来そうにはなくて反省する。俺は阿部に軽く頭を下げた。 「教えてくれて、あんがとな。…でも、いい。これでいいんだ」 「…そうか」 断言すれば、阿部は珍しく、ふっと笑った。そして照れ隠しなのか、何にもなかったかのようにもう一杯ビールを注文し始めた。 話を終えていくらもしないうちに花井は帰ってきた。軽く頭を下げ、すまなさそうに彼は席についた。 「わりぃ遅くなった」 「いや、丁度よかった」 「は?」 阿部の言い回しを聞いて、花井はきょとんとしている。俺は花井をからかった。 「大便だったのかー?」 「オイ田島ァ!アホかちげーよ、おっさんに絡まれてたんだよ!」 「……花井ってなァんか声かけやすいもんな…」 阿部は半ば呆れたようにそう言った。 会計を終えて、夜の街に飛び込む。室内の冷房で過度に冷やされた肌が外気に蒸された。どうやら今夜も熱帯夜のようだ。 やはり癖にでもなっているようで、俺はまた無意識にくいと上を向いた。都会の激しいネオンや明かりの中では星なんてひとつも見えなくて、空は真っ暗だ。なにしてんだ、と呼び掛けられて俺はすぐに首を戻した。 そうして、三人そろってそれじゃあ帰るかと駅に向かってぷらぷら歩いていた時だった。 「あーッ!!」 すれ違った大学生の一群の一人がこちらを指さし叫んだ。その迫力と突然のことに俺は少しびくついてしまった。一体なんなんだと花井たちを振り返ると、「やべぇ」と顔が語っている。知り合いか?もう一度奇声を発した方を見ると、え、全速力でこっちに突進してきてんだけど。道行く人の迷惑になることにも思い至らず、反射的に俺は身を引き走り出した。それは阿部と花井も同じで、むしろ俺より二人の方が必死になっていたのだが………いや、この大学生めっちゃ速ぇーぞ!? 間もなく阿部と花井は捕獲されてしまった。俺は一人で逃げ続けても仕方がないので、何やら揉めている彼らの方へと戻ることにした。 「なんだよ、そういうこと!?」 「コイツら先輩よりタジマをとりやがったぁぁ、万死!」 花井は拳骨でぐりぐりと頭を攻撃されているし、阿部も絞められて「ギブ!ギブっす!!」と相手の腕をタップしている。どの人もガタイが良くて、明らかに体育会系だ。なんとなく彼らと花井たちの関係に予想はついて、俺だけがおいてけぼりにされ、さてどうするかと少し困った……が、 「え、なんで俺の名前知ってんすか?」 自分の名前が会話に出てきたことに疑問を覚え、フッツーに尋ねていた。俺の問いかけに気付いた団体の中の一人が調子よく笑って挨拶してきた。 「あ、どうもー、花井と阿部の先輩でぇ〜す」 「いや今日はオレらも呑みやってたんだよ。なのに花井と阿部は二人揃って用事があるっつってよぅ」 明らかに酔っぱらっている。やはりこの人たちも呑んでいたらしい。花井をいじめている一人が手は休めぬまま説明してきた。 「あ、名前はね、こいつがいっつも、タジマが、タジマが〜ってうるっさくってさ!!」 「いだっ、ちょ、ヒデさんッ!!」 花井はかっと顔を赤くした。それが面白いのか、花井の先輩たちはにやにやしながら情報を流してくれる。 「ホント、すげぇ頻度で会話に出てきてたんだよ」 「タジマだったら絶対今の打てたのに、とかいねぇのに張り合ったり」 「あんまり褒めるからさ、むしろマジホモかと思ったし」 「だぁーっ!!ホント違いますからぁ!!本人前にしてそゆこと言わないでくださいよッ!!」 もー!と花井は恥ずかしさに眉を寄せて顔をくちゃくちゃにした。俺はぶはっと噴き出した。 「っはは!なんだそれ!!花井俺のこと好きすぎだろー!?」 「ちっげーよ!!ふざけんな!!」 花井はぎゃあぎゃあ喚いた。そんな花井を花井の先輩方と一緒になってからかい、平常を装う一方で俺は歓びで不自然に顔が歪まないようにするのに必死だった。――だって花井は、『今』の都合があるのにも関わらず、俺に振り回されてくれたんだ。まだ追いかけてくれてたんだ。俺のこと、日常で記憶として側に居させて、くれたんだ。なんだよそれ、都合の良い夢なのかと疑いたくなる。 もちろん高校時代となにも変わってはいなくて、花井が俺に向けているのは完全に友情や尊敬といったものだ。俺のこの生臭い感情とは性質が全く違う。だから想いが噛み合ってくれることは決してない。 けれど、俺は愛(かな)しくて、幸せで、もう死んでしまいそうだった。 阿部はちらっと俺を見た。こっちは必死になって正直な気持ちを表に出さないようにしてるのに、なんでもわかっているかのように嫌そうな顔をされた。実際阿部は大体理解していて、しかし軽蔑だけはしてこない。だからむかつく。阿倍の癖に。 阿部と花井は先輩たちに連れられ、二次会という形でまた呑みに行くことになった。お誘いも頂いたが、寮の門限もあるので残念だったがお断りした。駅まででなくこの場でお別れだ。また一人、俺は自分の生活に戻ることになる。不思議と寂しくなかった。 「ね、花井、近いうちにまた会おうぜ!!」 別れ際、俺は花井に心の底から笑って見せた。星より激しく熱く瞬くネオンを背景に、花井はにっこり笑い返してくれた。再会を望む指先が、揺れる。 俺はこれから何度だって、花井に会うんだ。 20121225 あとがき back |