ダウト 02 | ナノ


自分の似顔絵を描いてください



小さい頃、どうして皆が笑っているのか、泣いているのか、どうして自分の邪魔をする"おともだち"に拳を向けたり踏みつけたりしてはいけないのかわからなかった。自分の都合のままに振る舞っているとすぐに幼稚園の先生たちは俺をトラブルメーカーとして扱い始め、問題行動の報告をされ対応に追われた母は俺の前で泣き叫んだ。しかし俺にはその、母の悲しみもわからなかった。

俺の共感という機能は完全にイカれてしまっていたのだ。

だが、どこまでも自分本位に生きていた俺にもターニングポイントというものが、訪れた。五才の時、『軽蔑』を理解した瞬間だった。

恥ずかしい――そう思った。今までの自分の思い出せる限りの所業によって顔が焼けるような気持ちだった。羞恥心ともうひとつ、自分の行動に制限をつけないことは他者からの逸脱や排斥されることを意味するとやっと理解した。人の輪に溶け込めないことは途徹もなく不利なことで、自分を脅かす理由のひとつになるのだ。

どうやったらあの群れの中に溶け込めるのか。あまり悩むこともなく出された俺の答えは実に安直だった。真似っこをすればいいのだ。生来俺は器用にできていたようで、周囲、特に人気者の模倣を始めた。はなは、きれい。ともだちはなぐらない、なかよくする。みんながわらっていたらわらう。ときにはあまえる。いやなことはおこる、なく。特に俺が心を砕いたのは笑うという感情表現だった。

笑うのは難しい。真似を始めた頃は笑ってみても皆、異質を見るような目を俺に向けた。頬はひきつり、目は無理矢理に細められ、余程のバカでなければ一瞬でああコイツは嘘をついているとわかってしまう偽りの笑顔だった。これでは俺は人に混じることはできない。俺は毎日鏡の前で笑ってみせていた。母のドレッサーの前で繰り返し繰り返し口角を上げた。どうすれば、どの角度なら、この顔が人々の目に魅力的に映るのか熱心に研究した。

そうして俺はついに人を欺ける完璧な笑顔を習得したのだけれど、その代償はとても大きいものだった。





ぺらん、と頁を捲って眺める、並ぶ言葉は古びて重々しい。一文字一文字が鉛のようだった。紙すらずっしりとして感じる。

その動作を繰り返し繰り返し、すっかり腕が痛くなってしまった頃にようやっとその小説を読み終えると俺はため息をついた。



翌日、部活終わりに部室で着替え途中の黒子っちを捕まえた。適当にじゃれついて、足止めをする。次第に部屋から人が消えてふたりきりになったのを見計らい、俺は黒子っちに文句を言ってやった。

「あれはひどくねぇッスか」
「なんの話ですか」
「本の中の俺のそっくりさんの話ッスよ」

皮肉に言えば黒子っちは目をぱちりと開けて驚いた。信じられないとでも言いたげに、不躾にじろじろ俺を見る。

「キミ、太宰、読んだんですか」
「そッスけど。その目はなんスか」
「いえ…正直僕黄瀬くんのこと侮ってました。本読めたんですね」
「馬鹿にしてるッスね」
「ええ、してますね」

なんて軽い言葉の応酬。むっと黒子っちを睨むと、すみませんと形だけで謝られた。黒子っちはガゴ、と自分のロッカーを開けてブレザーを取り出した。

「…それで…自分と似ていると思いましたか?」

仕切り直すように黒子っちは訊ねた。俺は壁に凭れ、不快感を隠すこともなく答えた。

「全然。あんなに情けないつもりはないし、俺は他人を騙す時、あんな風に罪悪感なんて持ち合わせてないッス」
「へぇ、そうなんですか」
「そうッス…じゃなくて。似てるってあんまりじゃないスか?あの主人公の末路ったら!!」

思わず声が大きくなる。それほどにすっきりしない、陰惨な結末だったのだ。

「まぁ『人間失格』ですからね」

人間の社会なんですから失格は失格として扱われるもんですよ、なんて黒子っちは厳しいことを言う。

しかし黒子っちと俺の間にはどうやら齟齬があったらしい。黒子っちは自分の考えの補足説明を始めた。

「僕は罪悪感が薄い癖、他人の目に悲しいくらいに怯える姿がそっくりだと言っただけで、キミがあんな惨めな一生涯を終えるだなんて言ってはいませんよ。
 …黄瀬くんて意外と気にしいなんですね」

最後に黒子っちはちょっといたずらっぽく、くすりと笑った。随分なことを言われて俺は怒った表情を続けていたけれど、形だけだった。

黒子っちは狡い、と思う。言っていることはキツいし物凄く失礼なのに何故か俺の心を逆撫でたりしない。こっちは怒ろうとか負の感情を溜めて膨らませていたのに、ちょっと気を抜くと萎えさせられてしまうのだ。なんて有能な爆発物処理班だ。

黒子っちは次いで、頼んでもいないのに『人間失格』という作品にまつわることを話し始めた。

「『人間失格』は太宰治の遺書だという見方が強いんです。大きな理由は彼がこの作品を書き終え、最終話が雑誌に掲載される日に愛人と自殺してしまったからなんですよ。まぁ、本当に心中したのか愛人に殺されたのかは微妙なところだったのですが。
 そのこともあってか…、当時は作品に感化されこの小説を側に置いて自殺する人が跡を絶ちませんでした」
「そんなに影響力があったんスか」

平面に綴られた文章が人を殺すのだと思うと、俺でも驚かずにはいられなかった。黒子っちも頷く。

「ええ、でも、それだけ人の心に入り込む魅力的な作品だったと言うことですね」

黒子っちはその後も太宰の説明や彼にまつわる逸話を話し始めた。正直興味なんてなかったが、黒子っちも何か反応が欲しくて話している風でもなかったので流して聞いた。

人の気配が消えて時間が経っているのもあり、足元からは冷気が立ち上って来ている。黒子っちは荷物をまとめて、鞄を左肩に引っかけた。そのまま腕を下ろせば右手の指に絡めている鍵の束がちゃりと鳴った。

「はぁ、いっぱい話してしまいました…それでは寒くなってきましたし、帰りましょうか。施錠もしなきゃいけません」

そんな黒子っちに自分の内面を吐露したのは、またしても気まぐれだった。

「…………ホントは、」
「? はい」
「本当はちょっと似てた…ッス」
「はい」

しかし気まぐれというのとは少しばかり性質が違うかもしれない。黒子っちは懺悔や自ら断罪をさせてしまうような、独特な無関心の気配を纏っていると思う。

俺はぼそぼそと自分の中身を垂れ流した。

「ひとを理解出来ないところ、嘘つきなとこ、女に構われるとこ……ちいさい頃嫌なことされたこと
「………はい」
「そゆの、似てたッス」

そうですか。黒子っちはふっと笑んだ。

「黄瀬くん、この作品はですね、誰が読んでも大体"自分に似ている"と思わせてしまう力があるんです」
「――え、じゃあ黒子っち、」

俺が目付きを変えても焦ることなく静かに黒子っちは否定した。

「いえ、僕はキミを騙したのではありません。僕は本当に、キミは主人公の葉蔵に似ていると思いましたから」

俺と黒子っちは部室から出て、がちりと扉に鍵をかけた。鍵は職員室まで持って行かねばならない。当番は黒子っちなのだが、今さら急ぐ用事もないし、彼について行くことにした。

「――ところで、黄瀬くんは随分、変わってないけど変わりましたね。もう僕の前では嘘笑いしないんですか」

廊下には俺と黒子っちの二人分の上履きの音が僅かに響き、周囲に人はいない。俺は部室からの調子を変えずに黒子っちに答えた。

「どうでも良いけどさぁ……建前で笑われると黒子っち不愉快でしょ」

愛想良くして文句を言われるのなら、最初からこのままで良いじゃないか。しかし黒子っちは口説き文句にも似た答えを返した。

「別に黄瀬くんの好きな方でいいですよ。キミの偽物の泣きそうな笑顔、僕、結構好きですから」
「は?あは、何それ、……あ」

俺、今。

どうしてだ、本当に笑っていた。

鏡の前で練習した笑顔はどんなに自然に見せることができても、その実筋肉がつっぱっていたのに、今、俺の表情筋は何の強制力もなく仕事をしていた。

そりゃ俺だっておかしくて笑うことはあるけれど、とても稀なのだ。それが、黒子っちのちょっと意外な言葉ひとつで。

「………俺、黒子っちと一緒にいたら人間になれる気がする」

ほとんど独り言のような呟きが漏れた。内容は少し痛々しい。黒子っちは聞き流さずに俺を見上げた。

「は?今までのキミはなんだったんですか」

怪訝に俺を見る黒子っちに俺は今度は最上級の嘘っぱちの笑顔を向けた。

「おばけッスよっ」
「……大分太宰に毒されてしまいましたね」

やれやれ、と黒子っちは困った顔をした。



画用紙の中黄色い笑顔のお面をつけている人間、それが俺。



20121116

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