見えないハイリスク | ナノ


ガタゴトと規則正しく揺れる車内はぎゅう詰めになった人の体温で少しばかり熱い。残暑厳しいこの季節、ごおごおと冷房はフルで稼働していても、追い付くものではないらしい。

木吉はバスケ以外にこんな時も自分がでかくて良かったと思う。でかいというだけで暑苦しいと多少非難の視線を向けられるものの、飛び出た頭に冷気を沢山浴びられるからだ。ニッチの獲得に成功している。そして背が高くて良かったと思うことが更にもうひとつ。

木吉は車内を見下ろして、自分の視界の左端に見慣れた後ろ姿を見つけた。肩までかかる黒髪と、学生であることを示す制服。霧崎第一のものだ。女学生は花宮だった。

天然でまっすぐな木吉はイイコちゃんが嫌いな花宮にめちゃくちゃに嫌われているのだが、木吉本人はそのことに気付いていない。もしくは気付いているのだが、全く意に介していなかった。花宮にはお気の毒なことだ。したがって木吉は離れた距離も気にせずに迷わず彼女に声をかけようとした――のだが。

……動きがおかしい?

少し身体を捩るようにして動く花宮を見て、木吉は首を傾げた。花宮は普段、あんな落ち着きのない動きはしない。何かあるのかと花宮の周囲に目をやれば、彼女の横に立つサラリーマンの肩が微妙に上下しているのに気が付いた。木吉は即座に彼女がおかれている状況を理解した。

――痴漢か。

ますます声をかけないわけにはいかなかった。しかし、大事にするのも花宮の本意ではないだろう、と木吉は天然ながら空気を読んだ。彼は下劣な行為に苛立ちながら、そのサラリーマンを止めようと動いた。謝りつつ周りの人間を押し退けると、不満の声があがった。

しかし、木吉が花宮とサラリーマンの間に入ろうとする前に、サラリーマンがぎゃあと悲鳴をあげた。周囲の乗客は不審がり、中にはどうかしましたか、とそのサラリーマンに話しかける者もいた。しかし、サラリーマンはなんでもないと首を横に振って、小さく縮こまっていた。

木吉は乗客を押し退けるのをやめた。きっとサラリーマンは返り討ちにされたのだろう。そもそも痴漢をする方が悪いのだが、相手に花宮を選んだことが最大の敗因だ。既に何事もなかったように背を伸ばし立っている彼女を見て、木吉は自分が出るまでもなかったかと苦笑する。考えてみれば花宮のことだから、痴漢撃退に画鋲で相手を刺すくらいのこと、躊躇なくやり遂げることだろうし。

間もなく列車は速度を落として駅に停車し、サラリーマンは手を押さえてそそくさと電車を降りていった。その事をしっかり確認して、木吉は昇降する人の流れをうまく利用し花宮に近寄ろうとした。しかし多少焦ってしまったのだろうか。うまくいかずに、うっかり人の足に蹴つまづいて体勢を崩してしまった。木吉はたたらを踏み、思わず足元に目をやった。

床には点々と、赤いものが落ちていた。

「…」

木吉はぽんぽんと花宮の肩を叩いた。振り返り木吉の姿を認識した花宮はものすごく嫌そうな顔をした。太めの眉がぐっと歪められる。

「よう!」
「……話しかけてくんじゃねーよ」

なつっこい笑顔をやめない木吉に花宮は舌打ちでもしそうな雰囲気だ。しかも人が減ったとはいえ電車のような密閉空間では無意識のうちに互いの距離も近くなってしまう。花宮にとってはうざさ二割増しといったところだ。しかし木吉はやはりお構いなしに話を続けた。

「さっきは災難だったな」
「なんだ、見てたのか」

花宮が意外そうな顔をした。木吉は眉を下げた。

「ああ、一応助けようとしたんだが、自分で解決しちゃったみたいだからな。ちょっと情けないが…。いや、やっぱり花宮は強いな!」

木吉は花宮の強さを素直に評価した。花宮だからと納得してはいるけれど、ああいった手合いに反撃ができる女性は実際少ないのだ。

そして、ここから先が木吉の本当に知りたいところだ。

「でも、どうやって追い払ったんだ?」

訊きながら木吉は足元に落ちている血痕に目をやった。乾いてきてどす黒くなっている。どうしてか花宮を彷彿とさせる色だなと木吉は思う。花宮も自分から逸らされた木吉の視線を追って血痕を見つけ、ああと納得した。

花宮の答えは非常にシンプルだった。


「別に。剣山で刺しただけだ」


画鋲なんて目じゃなかった。

あんな風に血が零れるほど刺すなんて、一体どれだけ力を込めたのだろうか。木吉は心の中でサラリーマンに合掌する。そもそも花宮には生け花の趣味もない筈だ。正規の理由で剣山を持ち歩いているわけではない。つまり…確実に来るべき敵に備えて剣山を持ち歩いていたのだろう…。

痴漢と傷害。果たしてどちらの方が罪が重いのか。しかし過剰防衛だとしても、訴えられることはない。訴えれば、あの男は自身の醜悪な罪状が露呈することとなるのだ。それをわかって手加減しない花宮は、実に恐ろしいやつだった。

木吉はやれやれ、とこっそりため息を漏らしたのだが。

「バカだよな、あのおっさん。ちょっと嫌がるふりしたら、興奮して調子にノって刺しやすい場所まで来てくれるんだから」


床に落ちている血痕は踏まれて見えなくなっていた。


見えないハイリスクと犯罪の代償



20121013
20121015


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