それはまだ降旗が誠凜祓魔事務所に入る前、大学二年の十二月のことだった。 大学の食堂はお昼時ともなると雑音で溢れ、友人の声を拾うのがやっとだ。降旗はその隅っこの方の席に座って、さしてうまくもまずくもないカレーを咀嚼する。そうして目の前にいる友人が語る彼女とのノロケ話を右から左へ流して聞いていたのだが、そういえば、と急に友人は話題を変えた。 「降旗は例の自由レポート、どんなん出したの?」 自由レポートと言うのは大学の後期の中間考査扱いで出された課題のことである。降旗が所属しているのは祓魔に関係している学部であるため、自由レポートとは言え内容は怪異についてのものにしろと指定されていた。そのレポートの評価がつい最近発表されたので友人はこの話題を持ち出したのだろう。 降旗は嚥下して口の中を空にしてから問いに答えた。 「"出現する可能性のある新種の怪異について"」 「んだそりゃ」 ざっくりとしたタイトルを言う降旗に友人は怪訝な顔をする。降旗はカレーを意味もなくスプーンで混ぜっ返しながら説明を加える。 「ほら、俺ら"そとくに"の怪異について学んでるじゃん。そっから"やまと"に視点を戻したときにおかしいとこが一杯あるでしょ。んでおかしなことも増えてるでしょ」 「まぁな」 「…だから」 降旗は食べる気をなくしたのかカレーをテープルの端に避けて、てろんと伏せた。 「だからそっから予測して、新種をでっち上げただけー」 説明をするのもだるそうな降旗を見て友人は絶句した。 「おい…………それ単位貰えるの?」 「知らね」 教授には爆笑されたらしい。 「駄目じゃん!」 ぺちっと頭を叩かれても降旗は反撃もしなかった。 降旗が血相を変えたその教授に呼び出されたのはその日の午後のことだった。 なんでも、怪異の専門家として高名な方が降旗のレポート内容に興味を持ち直接話を聞きたいと言い出したという。降旗は混乱して明日は槍が降るんじゃないかと思った。 「奇抜な内容だったから話題に良いと思って話したらそう言い出されたからびっくりしたよー!」 ころころ笑って悪びれずに説明する教授に降旗は脱力した。人のレポート内容をほいほい他人に話すな!本当はそう言いたいところだったのだが――認められたのが、嬉しかった。 友人の手前ああは言ったが、真面目な降旗は決して適当にレポートを終わらせている訳ではなかった。今まで感じてきた違和感を繋ぎ合わせ、怪異に生じている変化についても情報を収集して――そして『自由レポート』と言って一旦簡単にまとめた渾身の作だったのだ。つまりは今後の自分の研究の指針を決める大事なものだった。本気が評価されて歓喜しないものはいない。 ――どんな人だろう。 降旗は教授に連絡先を貰うと大急ぎでメールした。その人の名前は茜部市朗(アカナベイチロウ)と言うらしい。メールの文面だけだとはっきりとはわからないが、落ち着いた人なのだろう。実際に会って話してみたいとのことで、早速週末に会うことになった。三回寝て起きれば自分を認めてくれた人に会える。夜、ベッドの中に潜り込みわくわくしながら降旗は目を閉じた。まずは一回目の夜だ。明日からは祓魔の仕事の他にもっともっと勉強もしなくてはならないな、と気合いが入った。 そして約束の日、待ち合わせ場所の駅構内に降旗は二十分も前にいた。おろおろそわそわにやにやしている様は端から見ると恋人との初デートを控えた青年にも見えるが、一応コートの下に着こんだリクルートスーツがその誤解を回避させている。十二月の身を切るような寒さに降旗はマフラーに顔を沈めた。 「君が、降旗光樹くんかな?」 カロンと足元で鳴ったのは下駄のようだ。声をかけられて降旗はバッと顔を上げた。瞬間彼の脳内にクエスチョンマークが飛び交った。 声を発した主は自分と同じくらいの年の青年だったのだ。しかも、なんというか、全体的に――赤い。 「はい…あ、え、ええと?」 「申し遅れたね、僕が茜部市朗だ。以後よろしく頼むよ」 「あ、茜部さんでしたか、失礼しました。こちらこそ、宜しくお願いします」 ぺこりと降旗は頭を下げた。表面上は丁寧な対応ができているが、彼の頭の中は困惑で一杯だ。どうしよう。思ってたのと違うぞ。 和服には着なれているようで老成した雰囲気が漂っているし、茜部の立派なえんじの羽織はやっぱり立派な人しか着られないだろう。首に巻いている白の襟巻きも上等なものに見える。しかし、茜部の赤い髪と、赤と金のオッドアイは生来のものであるとしても、どうしたって所謂一般的なお偉いさんには見えない。年齢は知らないけれど…もしかして物凄く童顔なのだろうか…。人を見た目で判断するのは良くないし、降旗自身そういった価値判断は好まないのだがあまりにもパンチが強すぎてそれどころじゃなかった。 一方茜部は降旗の凡庸な容姿に対して思うところはないらしい。それじゃあ行こうか、と歩き始めた茜部に降旗は続く。今日の予定は全て茜部任せになっていた。 「びっくりしたかな?」 「え?」 少し振り返り、にこ…と茜部は笑った。 「僕は若いし、こんな風貌だからね」 降旗は自嘲気味に言ってのける茜部を意外に思う。降旗は茜部とメールでのやり取りの中で彼を自尊心の高い人だと思っていた。そしてその認識に妙な自信すらあったからだ。 降旗は取り繕う言葉を使う方が失礼になるか、と思ったことを正直に述べた。 「確かに、こんなに若い方だったとは思いませんでした。容姿もそりゃ、"やまと"の人とは違ってますけど、でも」 そうですね、と考え考え降旗は言葉を紡ぐ。 「茜部さんは目が特に、綺麗だなって先程初めてお会いしたときに思いました。目の中に、何か秘めているみたいで」 かろん、と鳴ったきり下駄が動きを止めた。 「…え、あ、すみません!」 降旗は気を悪くしてしまったかと即座に謝罪した。振り返った赤と金の双眸が、じぃと降旗を見詰める。見透かすような、見通すような。それとも値踏みをするようにか。茜部の発する威圧感に降旗は気圧された。 しかし降旗の心配は杞憂であったらしい。 「……それは、ありがとう」 最後は茜部の目が優しく細められ、降旗はほっと息をついた。心臓に悪い沈黙だった。 もう一度歩き始めた時、茜部は降旗の方を見ずに話し始めた。 「降旗くん、実は僕の名前は茜部市朗じゃないんだ」 「え?」 突然、偽名だったと告白されて降旗は当然戸惑った。もしかして本当に会いたかった茜部とは全くの他人かと考えて、いやそれはないだろうと思い直す。茜部の職業を考えて、降旗はある可能性にたどり着いた。 「あぁ、ペンネーム、ですか?」 「そんなところかな。でも君には名を明かすのもおもしろいかと思ってね」 振り返った茜部は不敵に笑う。 「僕の本当の名前は赤司征十郎。改めて宜しく、降旗くん」 「! はいっ」 名前を教えて貰えた分だけ認められて近くになれた気がして、降旗は赤司に向かって元気良く返事をした。 そして連れて行かれた場所は降旗でも知っているような高級料亭で、しがない貧乏学生に過ぎない降旗は卒倒しかけたのだった。 大学生にも単位より大事なものはある 20140924 back |