カーテンの隙間から覗く空は暗い群青色で、直に夜の括りに入りそうだった。俺はとっくに慣れてしまった梶の部屋で梶と二人別々に漫画を読みながらだらだらしていた。ここに異常は一つもない。いつも通りが並列した空間だった。 しかしそれは突如発生した。 「なぁ梅ー」 ベッドに寝転んで漫画を読んでいた梶が俺を呼んだ。 「なんだー」 そのベッドを背もたれに漫画を読んでいた俺は返事をした。梶は間髪入れず俺に尋ねた。 「男とキスしたことあるかー?」 「キッ!?」 俺はあまりにも予想外過ぎる言葉にぶほっと吹き出し思わず漫画から目を外した。振り返ると梶が上半身を起こしていてベッドのスプリングが軋んだ音を立てた。 なんだその質問!? 「ある訳ねぇじゃん!」 答えはしたが俺は勿論動揺した。確かにいつも通りだらんだらんだらしなくしているけれど、それにしても脈略がなさすぎる。と、いうか梶の狙いが全くわからなかった。 梶はベッドの上をほふく前進して俺のすぐ側までやってきた。そして、尋ねてきた癖に興味が無さそうな声を出した。 「ふーん…」 「…」 俺はちょっと変な話をしただけか、と再び意識を漫画に戻そうとしたが、それより前に梶が口を開いた。 「…あのさ、俺今これ読んでたんだよね」 そう言って梶は俺に一冊の漫画を見せた。二人の男性が艶っぽく並んでいる表紙の漫画だった。……ほんのちょっと背筋が冷たくなった。もしかしなくともこれは…。 「ホモ、漫画?」 「巷ではBL本というらしいぞ」 「…えーと」 「ボーイズラブの略だな」 「いやそうじゃねぇって」 ああなんか薔薇のかほりがどこからかする気がする。珍しく梶との会話の軸がずれているようだ。俺は頭をがしがし掻いて問うた。 「なんで梶がそんなもん持ってんだよ」 「やー…バイト先の仲間でボーリング行ったとき負けて……罰ゲームで買わされた…」 梶の声には哀愁が漂っていた。それにしても地味にくるえぐい罰ゲームだ。俺は同情した。 「…なんかごめん……」 「おう……」 でも、と俺は更に尋ねた。 「でもなんで読んでるんだよそんなの」 売るには度胸がいると思うが(いや度胸だけでは片付けられないものが必要だ)捨てるのは簡単。持っていたら百害あって一利なし、家族に発見されたら大いなる誤解を生む、速やかに捨てることが望まれるブツだ。 「そりゃそうなんだけど買って終わりじゃ金が勿体ねぇじゃんか」 「良い子か。そりゃー金は大事だけどさ」 「案外読めちゃうんだよなー…あ、性描写はおいといてだけどな?」 「あぁーもぉー性描写って言葉がなんかもう嫌なんだけど!生々しいわ!!『おいといて』っつうか滅してくれ。俺お前が怖ぇ…!」 俺は恐慌状態に陥りながら首を左右にぶんぶん振った。案外読めるとか、ない、ないない、ぜってぇない!! 「だから実験したくなってな」 「…何、男でもいけるかって?」 「そーそー」 鼻で笑って言った冗談に素直に頷かれて俺は叫びそうになるのを必死に抑えた。 「『そーそー』じゃねーよふざけんな俺は冗談で訊いたんだぞ。そういうのは浜田にやれよ」 「あー、浜田な!アイツはなんかやだ」 なんかやだってさ…。役に立たない金髪だ。明日蹴っ飛ばしてやる。 「だからって俺ェ!?」 「他に許してくれそうな奴いないし。…嗚呼…ホモ漫画なんて読めちゃった俺は実際バイなのだろうか……」 「やーめーろーよぉー、そーゆー疑惑は胸の中にそっとしまっておけよー…」 そう愚痴っていると左頬を暖かいものが覆った。少しかさついてる、梶の手だ。頭の中で警報が鳴った。げ、と思った時にはもう遅い。 ふに、と柔らかい物が唇にあたった。 触れ合った一瞬の後にどちらともなく顔を離した。しばし無言で見つめ合う。 「…」 「…」 「……」 「……」 「…案外いけてしまった……!!」 「だからやめろっつったじゃんかよぉ!!」 口を押さえ腹が立つほど微妙な表情を浮かべる梶の頭を俺はすぱこんっ!と結構本気で一発殴っておいた。 BL本購入を罰ゲームとした人間を小一時間問い詰めたい。何故そんな早まったことをしたんだ。お前のせいで梶がぶっ壊れた。責任をとれ。 偏見と非難されるのは癪だが、俺はBL本とかゲイカップルとか、自分の知らない男同士がいちゃついてんのを見るのは気色悪いとしか思えない。言い換えれば自分から気分を悪くしたくないというのもあって元々興味がないのだ。 だけど。 梶とは、多分キスくらいはしても平気だと思ってた――だから俺はその「実験」が嫌だったんだよ。 嗚呼、俺もバイなのだろうか。BL本購入なんてきっかけもなくそんなことを思ってたなんて、言い訳効かないだろう。しかしそんな疑惑は胸にしまっておくことにした。それこそ取り立てて言うことでもないからだ。 引っ叩かれた頭をまだ抱えて蹲っている梶を見ながら、俺は呟いた。 「梶のばぁか」 きっかけの不在 20120905 back |