14 くらやみと | ナノ


くらやみ。

目をつぶると、闇はいつだってそこにある。寝る時は大抵暗闇だ。まぶたを閉じればそうなるのだ、至極当然なことなのだ。闇があるから光があるとか、屁理屈を言っていたのは誰であったろうか。ぱちりと目をあけると、元通りの景色が俺の目には映り込む。これも、至極当然。

ソファの上で、ぎゅっと両膝を抱きかかえる。俺はにぎやかに会話を交わす、画面の向こう側の有名人たちをぼうっと見つめた。今日の特集は恐怖症、だそうで時折少しも驚いていないかのような、わざとらしい声をあげながら話が進んでいる。最初は暗所恐怖症、次に閉所恐怖症、その次に高所恐怖症、その次に先端恐怖症、視聴者の気を引くために話はどんどんマニアックになっていく。なんだそら、という恐怖症もあった。例えば8の字恐怖症。どういうことなんだ。それで苦しんでいる人には申し訳ないが、突飛すぎてよくわからなかったり。

「光樹、もう寝たら?明日も早いんでしょう?」

ぼんやりテレビを見ているだけの俺を、母さんがそうたしなめた。確かに、昼間に体を動かしているからもう随分と眠い。テレビ自体、興味があって観ているわけでもない。

「うん、もう寝るよ」

俺は母さんに素直に返事をした。ソファから立ち上がり、ぶちりとテレビを消した。あははは、なんて笑い声が途中で途切れて、中途半端な静寂はなんだか間が抜けている。

「おやすみ」

おやすみ、という返事を背中で受けながら自分の部屋に引っ込んで、布団の中に潜り込んだ。すっかり冬で、寒いなあ。布団はまだ冷えきっていて、ぬくくなるまでにはもう少し時間がかかりそうだ。

恐怖症。

誰しも、怖いもののひとつやふたつはあるだろう。しかしそれが変に重篤なものになってしまっているのが恐怖症ではないだろうか。例えば、頭が痛くなる、体が動かなくなる、腹痛、息苦しくなる、過呼吸になる、意識を失う。俺はそんな大層なものになったことはないからよくはわからない。わからない、けれど。俺は布団の中に鼻まで埋めて、堪えきれずにため息をついた。他人には意味が分からない恐怖症。


例えば、赤司恐怖症。





WCは滞りなく進んでいる中、俺はどうやったら目の前で、火神めがけて一閃したあの鋏を忘れられるのだろうかと悩んでいた。俺たちをなんとも思っていないような赤と黄のオッドアイも赤い髪の毛も、頭から離れない。流石に試合に集中している時は基本的に思い出すことはないが、ふとしたときにフラッシュバックのように思い出してしまう。

総合体育館の廊下を歩いている、そんななんてことはない今ですらそうだった。

これでは駄目だと振り切るようにかぶりを振ると、ぐらぐらした視界の端にさわやかな水色が飛び込んだ。ひゅっと変な風に息を吸い込んでしまう。偶然通りかかった洛山の生徒のジャージの色だ。すれ違った彼らを見ただけで吐き気と腹痛がして、俺は遅ればせながらアレが完全にトラウマになっているという結論を下した。昨日浮かんだ馬鹿らしい言葉で言うならば赤司恐怖症。こっそり服の腹のあたりを握り締め眉根を寄せれば、一緒にいた、人間観察に秀でている黒子はすぐに俺の変調に気がついたようだった。

廊下の隅に寄って、黒子は降旗くんと心配そうな顔で俺を覗き込んだ。

「降旗くん、もしかして赤司くんのせいですか…?」

どうしてそんなピンポイントに見抜かれてしまうのだろうか。俺は無意識に黒子から視線を逸らした。嘘をついても、やっぱり黒子は見抜いてしまうだろう。俺は観念して正直に答えた。

「……黒子には悪ィけど…そうみたいだ」
「すみません、あそこまで非常識なことをする人だとは思っていなかったのですが…」
「あ、や、黒子は悪くねえよ!俺が…気が弱いから…」

俺は慌てて謝る黒子を否定した。本当に、いけないのは赤司と、ビビリの俺なのだ。黒子に悪いところはひとつもない。

そうは思えど、俺の内情とは別にぐるる、と腹が悲鳴をあげる。俺はう、と眉根を寄せた。黒子は心配そうに再び俺の顔を覗き込んだ。黒子に呆れられるのも余計な気を遣わせてしまうのも嫌だったが、致し方ない。

「…ちょっとトイレ行ってくる」

俺がそう言うと黒子はとても申し訳なさそうな顔をして頷いた。

ひとりになって、廊下を歩き始めて、ついため息が出てしまった。黒子にあんな顔をさせたかった訳じゃないから、自分のビビリな性格が恨めしくなった。だって、赤司に鋏を向けられた火神は、何とも思わないで元気にバスケしているのだ。その上キセキたちに絶対に勝つと闘志を燃え上がらせている。彼との器の大きさを頭の中で比較してしまってますます腹が痛くなった。うなだれつつちょっと古びた会場の廊下をうろうろする。ひんやりした空気が足下から上ってきて腹部を刺激した。階段の近くに会場の見取り図があり、男子トイレの位置を確認した。ッうああああ、お腹痛いやばいやばいやばい!俺は少し小走りになりながら廊下を移動した。こんなところで脱糞する騒ぎになったら俺は二度とバスケなんて出来ないだろう。

『――!!』

急いでいたのに。とあるドアの前を通過したところで、悲鳴が聞こえた。驚いて目を見開いてしまう。腹痛も鳴りを潜めた。悲鳴、悲鳴というにはくぐもっていて、叫び声というほどでもない。でも俺にはそれが確かに悲鳴に聞こえた。表には小会議室、と書いてある。

だ…れかいるのか?

俺は少しばかり逡巡してから、そっとドアを開けた。途端、どっと何かが床に落ちる音がした。びくりと肩を震わせてしまう。それから、空調が壊れているのか?激しく空気の行き交う音。部屋の中からは湿気たような、埃っぽい匂いがした。カーテンが締められているせいで中は真っ暗だ。取り敢えず壁を手で辿って明かりをつけた。数拍おいてからぱちん、とはじけるように室内に光が溢れ――俺は次の瞬間絶句した。

「ッ、あか…?!」

一瞬放心してしまう。室内にいたその人は、特徴的なあの真っ赤な頭髪で。

あの、赤司征十郎が、目隠しされて縛られて床に転がっていた。

それだけじゃない、大きく肩を揺らして全力ダッシュした後よりももっと激しい呼吸をしている。自分で呼吸を制御できていない――過呼吸だ。

この部屋で一体何が起こっていたのか俺にはよくわからなかったが、現状が激しく「やばい」ということだけはわかる。取り敢えず俺は赤司に駆け寄ると目隠しを外して体を起こすのを手伝った。目隠しの下には、俺が苦手になった赤と金の瞳があって、でも苦しさのために流れ落ちている涙の海の中で揺れていた。顔も真っ赤だ。ひゅうはあひゅうはあひゅうはあ!激しくなった呼吸は止まらず、むしろもっと悪化しているようだった。

赤司が過呼吸の症状に陥っているのはわかっている。できることならどうにかしてやりたい。だが、俺が知っている過呼吸に関する知識は「口に袋を当てて呼吸を深くさせる」ということだった。ここには袋はない。次に出来そうなことは何か。俺は泣きそうになった。

――どうしようエヴァンゲリオンで渚カヲルが碇シンジにやらかした例のアレしか思いつかない…!

笑わないで欲しい。俺はとにかく必死だった。必死に考えて、その知識しかなかったのだ。

幾ら治療のためとはいえ赤司相手に接吻の真似事をするのは憚られる。それにアレはフィクションの中の話だ。実際に効果があるのかもわからない。俺は赤司の体の拘束を解くが、その後はおろおろと意味もなく体を動かすことしか出来なかった。赤司の激しい呼吸は収まらない。不意にグイ、と服を引っ張られた。――赤司の手が、俺のジャージをきつく握りしめていた。きっと無意識だ、でも、俺にはそれが赤司が助けてと言っているようにしか思えなかった。

俺は覚悟を決めて、赤司の口を自分の口で塞いだ。びく、と赤司の体が震えた。当然か。ただ口を塞いだ先はどうすればいいかよくわからなくて、取り敢えず深呼吸をするように赤司と空気を奪い合った。赤司はぼろぼろ泣いていた。でも、特に暴れもしなかったし、俺のジャージから手を離さなかった。





「すまなかったね」

十分後。俺と赤司は何故か向かい合って正座していた。ただ、俺は赤司の顔を見ることが出来なかった。俯いたまま答える。

「いや…別にいいけど。でもなんであんなことになってたんだ?」
「…ふう。そうだね、僕はこういう性格と生き方をしているからたまに恨みを買ってああいうことになったりするんだよ。気をつけてはいるのだけれどね」
「ざっくりした説明だけどお前それ説明になってないからな?」

思わず顔を上げてしまう。赤司はなんだか話したくないようだった。魔王だから、他人に弱味を見せることを良しとしていないのかもしれない。赤司の涙はもうすっかり乾いていて、眼差しは強い意志を持った凛としたものだった。

「…」

暗い部屋で目隠しをされて縛られた赤司。危害を加えるのなら、もっと何かされそうだ。少しよれたジャージなど、赤司には争った形跡こそあるが、目立った外傷はない。どうしてだろう。――必要がなかった?

俺はなんとなく直感的に、赤司についてわかったことをそのまま言ってみることにした。確信が持てたのは、きっと昨日見たテレビ番組のせいだ。

「赤司さ、もしかして極度の暗所恐怖症だったりするのか?普通暗がりに閉じ込められた人間、それも赤司みたいな奴は過呼吸になったりしない」

赤司の目は一度軽く見開かれた後、すぅと細められた。

「ふうん」

赤司はどこか品定めするかのように俺のことを見た。その視線が痛くてあさっての方向を向いていると、くすりと笑い声が聞こえた。

「惜しいな、閉所恐怖もだ」
「!…そ…なのか…」

誤魔化されずあっさりと認められたことに吃驚した。ただ、暗所恐怖についてはわからなくもないかもしれないと思った。まだ対戦していないけれど、黒子から赤司はとても目がいい、ということを聞いている。相手の未来の動きまでも見通してしまう目……それは逆に言えば「普段見えすぎている」ということになる。見えすぎているのが普通な奴が、視覚情報を奪われたら――どうなる?

赤司が再びふふ、と小さく笑い声を漏らしたのを聞いて、俺は意識を赤司に戻した。赤司は何故かとても愉快そうな顔をして、俺に尋ねる。

「君、誠凛の人だね。名前、なんて言うの」
「……降旗光樹…」

どうしてだろう、自己紹介がまるで悪魔と契約を交わすかのように思えたのは。赤司は今度は不敵な笑みを浮かべ、俺に言い放った。


「そう。じゃあ、降旗くん。僕のことを守れ」


一体何を言われているのかよくわからなかった。

「…えっと?」
「実を言うと僕のこの事情を知っている者はごく一部、しかも洛山高校には存在しない」
「はぁ?!マジかよ!」

ここまで重度な、障害と言っていいものを持っていながらどうして隠し通すのだ。誰かしら信頼の置ける人に知ってもらっておくべきだろう。しかし赤司は俺の声なき批判もどこ吹く風だ。

「だから協力者が必要だ。この大会、こういった妨害で潰す訳には行かないからね」

言わなきゃわからないのならと俺は赤司に提言した。

「いや、えっと…それだったら今から洛山の誰かにカミングアウトして…」
「部をまとめているものが自分の都合で彼らを使う訳にはいかない」
「滅茶苦茶だよお前」

俺は深々とため息をついた。自分のことしか考えていなさそうだと思っていた魔王は、実際は他者のことしか考えていない。俺だってもう少し利己的に動く。コイツ、もしかして頼ることを知らないのか?

悶々としていると、魔王はにぃ、と好戦的に笑ってみせた。

「それにベストの状態で戦わないといけないだろう――君たちと戦うかもしれないからな」

俺はその表情にぞわぞわと鳥肌が立つのを感じた。嬉しいことだ、と思う。赤司ほどの力を持つ者が、俺たちを全力で潰しにかかってくる。いや、全力じゃないと潰せないと言っている。

怖いけれど、爽快。

「何、キスまでした仲じゃないか」
「ごごごごごめんなさいうわあああちょっと今それ忘れてたんだから言わないで!」
「いいよ、君にとっては医療行為だったんだろう。本来意味はなかったが」
「ううう…」
「丁度良く発作もおさまったことだしね」

赤司はくすくす笑って軽口を叩く。意外だった。俺の中で実体験と聞いた話をもとに作られた"赤司征十郎"は勝利のみを追求する冷酷無比な男で、恐怖の象徴であった。けれど、今目の前にいる赤司は普通に笑うし、怖いものも持っているし、人のことばかり考えていて、不器用で頼ることが下手で、どこか抜けているところもある。赤司征十郎は…ちゃんと人間だったのか。自分と同じ生物であるのか。そんな当たり前のことがストンと心に落ちてきて、俺は妙に納得してしまった。

「それじゃあ、そろそろ戻ろうか」

そう言って、ジャージの裾を払いながら赤司は立ち上がる。赤司の中で俺が赤司を警護することはどうやら決定事項らしい。明らかに効率が悪いしやりようが無いのに、拒否されることを微塵も考えてはいないようだ。呆けて座ったままでいると、ほら、君もと手を差し出される。俺はその、少し皮が硬くなっている赤司の右手を反射的に、そっと手にとった。

赤司の手は暖かくて、そういえば自分の腹痛がすっかりなくなっていることに、俺は遅ればせながら気付いたのだった。


くらやみとみっしつとあかしせいじゅうろう



20131114

あとがき

100000hitフリリク部屋

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -