ダウト 終 | ナノ


太宰治の最後の作品は何でしょうか?



すごい試合だった。そう、側にいた皆が口々に言うのが耳に入ってくる。試合会場の観覧席の背もたれに寄りかかり、俺は小さく息をついた。当然だ。キセキの世代緑間っちと無名の挑戦者火神大我との戦いは高校生の試合のレベルを遥かに超えていた。俺を心配してついて来た笠松先輩も、厳しい顔をしてひとり頷いている。これから全国大会に出場する相手は手強いという言葉では足りないくらいに手強いとわかったからだ。喩えキセキが優れていると知っていても、実際に目にしないとその凄さはわからないものだ。

俺も、多少は気分が高揚する。これからの試合で中学時代よりも楽しめるかもしれないと、そう思える。しかし一方で、ぞわぞわと嫉妬が頭を焼く――黒子っちと連携して戦う、誠凛の光として黒子っちの側にいることが許されている火神大我。彼だけはその存在が疎ましくて忌々しくて仕方がない。二つの思いが頭の中でせめぎ合う。また戦って今度は勝ってやりたい。でも邪魔だ。心底邪魔だ、と。……自分から黒子っちの隣を捨てた俺には何も出来ないけれど、当然の顔をして黒子っちの隣でふんぞり返っているアイツが、俺には許せなかった。

駄目だ、黄瀬涼太の仮面が剥がれてしまう。俺はふらりと立ち上がった。

「先輩、…ちょっとトイレに行って来るッス」
「ッ、…ああ」

俺の方を向いた笠松先輩は僅かに困ったような表情を浮かべた。どうやらあまりうまく笑えていなかったらしい。敏いひとだと思う。だけど、まあ、何も無かった態で押し切れば平気だろう。俺は笠松先輩に出口付近で待っていて欲しいと一応頼んでからトイレへと向かった。



外ではいつの間にか雨が降り出していたらしい。館内でももともとつるつるとした表面の床が濡れて滑りやすくなっていた。あれ、なんかこんなことが前にもあったかもしれない。

…ああそうだ、うっすらと、何度も繰り返し見る蜃気楼そのままなんだ。

ただ、通りかかった階段の前に見つけてしまったのは思い出の弱々しいあの男の背中ではなく、逞しくやたらガタイの良い筋肉質なものだった。妬ましい燃えるような赤だ。けれど、先の試合で体力を使い果たした現在の彼の身体能力はあの男と同じくらいなのだろう。火神は階段を前に、なにやらブツブツと文句を言っている。聞き取れはしなかったけれど、階段に対する不平である気がした。

俺は無意識に足音をひそめ、火神の背後に近づいた。黒子っちがいるとはいえ、俺だけでなく緑間っちにまでも勝利した挑戦者。神様のくれたギフト、奇跡みたいな跳躍力。――あーあ、いなくなっちゃえばいいのにな。嫉妬するのは疲れるのだ、それならば、いっそ。

腕を突き出せば、鈍い赤色をした一年エースは真っ逆さま…か。


「黄瀬くん、何してるんですか?」


背後から凛とした声がする。火神の背に向かって静かに腕を伸ばすという不自然な動きをしている俺を呼び止めたのは、透明の彼だった。

ざぁっと音を立てて血の気が引いた。脳に血が足りなくてくらくらするくらいだ。俺が一瞬でここまで憂惧したのは火神を突き飛ばそうとした自分の行動の愚かさにではない。他でもない黒子っちに俺の兇悪な行動の、未遂とはいえその現場を見られてしまったことだ。言い訳なんて、出来る訳がない。出来る訳がないのに、俺の口は勝手にまた、意味のない無駄な言葉をまき散らす。だって俺はそれしか武器を持っていないのだ。俺はばっと振り返って、へにゃりと顔を情けなく緩めた。

「黒子っち!え、えへへ、火神っちを驚かそうと思ったッス。でも階段でやるのは危なかったッスねー。あ、火神っち、ごめんね?」
「え?…え、あ、ああ」
「黄瀬くん、」
「それにしても二人ともおつかれさま、すごかったッスよ!あの緑間っちに勝っちゃうなんて流石の俺でも予想してなかったというか…。あ、いや、勝っちゃったらすごいなとは思ってたッスけどね!」
「黄瀬くん!!」

黒子っちから普段からは想像がつかないような強い声が出て、俺は声を発するのをやめることができた。火神まで黒子っちにびっくりしている。黒子っちは、俺が何をしようとしたかなんてもうわかっちゃってるのだろう。だったらこの先の展開とこれからの黒子っちとの関係には想像がついた。どんな手を使ってでも俺は黒子っちを手に入れたいとは思っているけれど、今は分が悪すぎる。俺は思わず一歩後ずさった。つるつると濡れた床。ねっとりとしていて溢れた血みたいだ。黒子っちからの否定の言葉を聞きたくなくて、俺は何も言わずに踵を返して去ろうとした。そんな俺のシャツの裾が、強く引かれた。

「話があります。……火神くんは控え室に戻ってください。カントクが呼んでましたから」

黒子っちが話しているのをうっすら聞きながら、俺は唇を噛み締めた。黒子っちの卑怯者。黒子っちが引き止めて、俺が逆らえる訳ないじゃないか。

よろよろと火神が去って行って、その後ろから何人か他の大会関係者も歩いて行く。そういえば、人通りがある場所だった。黒子っちは俺のシャツを握ったまま、口を開いた。

「場所、変えましょうか」

俺は勿論、無言で頷くことしか出来なかった。





大きな会場であるだけあって、人気のない場所というのも存在していた。黒子っちは方向音痴だけれど、何故かそういう場所を見つけるのだけは得意であるらしい。彼は使われていない小会議室を見つけ、薄暗い部屋の電気を勝手に半分ほどつけた。埃の臭いが強い。学校の教室と似たその場所の、放置されていたパイプ椅子に俺たちは向かい合って腰掛けた。この間、俺と黒子っちは一言も会話を交わしていない。

「黄瀬くん、今日はひとりで来たんですか?」

やっと口を開いた黒子っちがまず俺に尋ねたのはさっきの出来事とは全く関係ないことで、俺は面食らってしまった。

「笠松先輩と…ッスけど」
「じゃあ、連絡を入れた方が良いかもしれませんね。どうぞ、」

言われて、ああそうか、待たせるのは駄目だもんな、と理解する。俺は携帯を取り出して、メール作成画面を立ち上げた。カコカコと先に帰ってもらっていいと文章を打つ。どっちにしろ次に会ったときにシバかれるな、なんて想像がついてイライラした。

文章を打ちながら、俺は黒子っちに尋ねていた。黒子っちの雰囲気が何故か穏やかだったからだ。

「怒んないの?」
「…未遂ですし。あと、理由は僕にはわからないですけどね」

黒子っちは淡々と見解を述べた。

「本当に突き落とすんだったら、あんなまどろっこしい動きなんてしない筈です」

黄瀬くん、迷ったんでしょう、と黒子っちはくすりと笑った。"笑った"、俺は面食らって、同時に思い出す。そうだ黒子っちも大概、人でなしな考え方をする人だった。黒子っちは何故か明るいトーンのまま、言葉をつなげた。

「加えて言うなら、迷った結果キミは汚い手を使うことを――火神くんに傷害をはたらくことを――やめてましたね」
「それは、」

それは……何故だろうか。俺は答えに詰まった。そもそもどうして黒子っちは、今回は珍しく俺の考えのひとつひとつを間違えずに把握してくるのだろうか。悩んでも答えが出てこなくて、俺は言葉を続けることが出来なかった。それを、どう受け取ったのか、今度はちょっとずれているけど、黒子っちは柔らかに微笑んだ。

「正しい方を選べましたね。黄瀬くん、偉いです」

黒子っちのその表情を見ることができた幸福感に包まれるのと同時、俺の中の疑問がぽつりと唇から溢れた。網膜に、階段を転がり落ちる男性が映る。その髪の毛が赤になり、体格がよくなって。

「本当に突き落としてたら、どうしてた?」

それはあり得なくはない話。実際俺は、感情のままに腕を伸ばしていたのだ。この質問に黒子っちは即答した。

「結果にもよりますが、一生軽蔑してました」

だよな、うん。それくらいには俺にもわかって、何故か笑いが漏れた。それからふと、黒子っちの剥き出しの腕に目がいった。室内競技っていう理由だけでなく、真っ白い腕だ。春の終わりには、俺がつけた痣がうすく紫に残っていた。

「…うで……俺がつけちゃった痣、残らなくてよかった」
「いつの話ですか。それから、何言ってるんですか。強く握っただけですよ?あんなの残る訳ないです」

黒子っちの話し方は、やっぱりいつも通りで、何でもないことのように俺を受け止める。どうして、この人はこんなに綺麗なのだろう。綺麗で怖いけれど、俺は愚かにも夢想してしまう。抱きしめて、優しくして、心を満たして…なんてことがちょっとくらいだったら俺にだって出来るんじゃないか。たとえ、俺が彼をあいしてしまっていても。

「――ねぇ、やっぱり黒子っち、俺と一緒にいて?」
「…なんでですか?もう学校も違いますし」

俺が思わずそう黒子っちに乞うと、黒子っちは明らかに機嫌を悪くした。今までと言葉の柔らかさが違う。つっけんどんで、刺々しくて、黒子っちらしくない。思い通りにならない苛立ちを必死に逃がして、俺はなるたけ冷静にそう考察した。

「…黒子っちは、俺のこと嫌いになっちゃったの?」
「もともと好きじゃないですよ」
「ひどい」
「ええ、そうですね。キミには負けますけど」

黒子っちは自嘲するかのような、嫌な笑い方をした。

「あれだけ追いかけ回して、抱き枕の代わりにして、その癖僕が要らなくなったら、すぐばいばいだったじゃないですか」
「ッ違う!」

悲鳴のような声で俺は咄嗟に黒子っちの言葉を否定した。黒子っちは驚いて目を少し見開いている。頭の中で今までのことを思い出す。そんな風に思われていることはわかっていた――違う、訂正しよう、わかっているけど、わかってなかったんだ。これだ。俺と黒子っちの間で一番ズレていたことは中学の終わりの拒絶のことなんだ。俺は黒子っちを汚したくなくて彼から離れたけれど、黒子っちはそんなこと知らない。その上黒子っちは…あの異常な閉鎖環境でボロボロにされていたんだ。俺の離れた意味を、ますます違う意味で捉える。

「違うんだ…」

でも、それをどうして伝えよう?俺が彼の前で人間たれるのは、俺が秘密を持っているからだ。黒子っちは、俺の言葉の続きを待ってくれている。俺の最大の秘密をどう隠して俺の感情の綺麗な部分だけを伝えようか。

「…くろこっち、あのね」

声がにわかに震える。俺は挑戦を始めた。

「黒子っち…おれ、俺さ、いっつもこんなんだけど、黒子っちが幸せなこと、祈ってるんだ。それでね、それで」

ひゅう、と息を吸い込む。どんなに酸素が沢山あったって、あいしてる、なんて汚い言葉は、言えない。俺はどの言葉を選べばいいんだろう。どれなら、美しく想いを飾れるのだろうか。

「その時だけ、おれは、おれ、は――じぶんが、ほこらしくて」

黒子っちは、俺を見つめたまま何も答えない。しんとした部屋の中には、外からの雨の音と様々な声がかすかに届く。小さすぎて、沈黙を埋めてはくれない。体が、冷たくなっていく。

「意味わかんねぇ、だよね…でも……」

一度離れることで黒子っちを守ると決めたのに、そんなことすら貫けない、弱くて汚い俺だ。みっともない、恥ずかしい。喉がひくついて、カラカラになっている。その喉に言葉がはりついてしまったのだろう。

「…ッ……」

伝われと思うのに、もう、声なんて出なくて。俺はもう、どんな言葉も持っていなかった。使い古した笑顔の仮面は、もうとっくに砕けてしまっている。

黒子っちは、なにも言わない。

一緒にいるということが、かつてのように隣に静かに眠ることだとしたら、俺はあまりにも色んなことを知りすぎた。知らないふりをどこまで出来るか俺にはわからない。俺はどのみち自分の欲求を埋めることしかできないのだ。でも、願わずにはいられないほど限界だった。一歩も動いていないのに、全速力で走った後のように心臓がばくばくいっている。呼吸も自然と浅くなった、苦しい。

どのくらい経ったろうか。かなり長い時間、俺たちは二人して黙り込んでいた。先に動いたのは黒子っちで、彼はふ、と口元を緩めた。

「僕はあの頃、人に懐かない、美しい獣を手なずけたようで、いい気分になってたりしたんですよね」

かた、と椅子が鳴る。黒子っちは立ち上がると、こちらに歩み寄って来た。ぼうっとそれを見ていると、真っ白な手のひらが優しく俺の髪をすいた。黒子っちの使った比喩の意味に気がついた俺はやっと反論した。

「俺は、そんな良いもんじゃない」
「それを決めるのは僕ですよ、黄瀬くん。やっぱりキミは、優しい嘘をつくんですね」

懐かしいその言葉を聞いていたら、俺は顔を上げていられなくなって俯いた。頭を柔らかに何回も往復する黒子っちの手も優しくて、いつの間にかあふれてきた大粒の涙がぼたぼたと膝へと墜落して行った。俺の内情なんて知らない黒子っち、黒子っちの痛みを汲み取れない俺。そのくせこうして、いつまでもいられたらなんて分不相応なことを考えてしまう。

黒子っちがさっきの長い沈黙で、どこまで俺を知ってくれたのか、俺は知らない。

「ねぇ黄瀬くん、キミはいつだって、僕には、神様みたいないい子なんですね」

でも、黒子っちは冗談めかしてそう笑った。



『人間失格』?


20130928

あとがき

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