疲れが中途半端だったのか、火神は夜中に目を覚ました。時計を見ると午前三時過ぎ。もう明け方と言っても良いかもしれない。ぼうっとした頭が捉える世界はさみしい位にしんとしていて、自動車の走る音がどこか遠かった。もう一度寝直そうと寝返りを打つと物音がして、同居人が帰って来たであろうことが知れた。 挨拶ついでに水でも飲むかな、と火神はベッドから起き上がった。 リビングに行けばやはり同居人である氷室が上着を脱いでいた。薄らと煙草とアルコールの香りがする。ドアの開閉の音で氷室は火神に気が付いた。 「I'm home, taiga」 氷室が英語で言うので、火神も英語で返す。幼い頃アメリカで過ごしていた為か、家の中では二人とも大抵英語だ。 『おー…タツヤ、お帰り』 『起こしちゃった?ごめんね』 『いや、勝手に起きたんだ。関係ねーよ』 火神はくぁぁ、とあくびをかみ殺した。氷室は大きなあくびだね、とくすくす笑った。 『にしても、今日帰るの遅くねえ?』 『うん、酔いつぶれちゃった人がいてね…その人の話にずっと付き合ってあげてたから』 彼の仕事はバーテンダーだ。もともと夜型の仕事であるし大したことではないと氷室は笑う。若いながらも自分の仕事に誇りを持っている氷室を火神は純粋に尊敬している。 火神はコップに水を注ぐと一気に煽った。ほんの少し口の端から垂れてしまった水を、コップを持ったままの右手で拭う。 氷室はそんな火神をじっと見て、少し目を輝かせた。 『ねぇタイガ、彼女でも出来たのかい?』 『は?いや、いないけど。いきなりなんだよ』 『だって、最近色気が出てないか?』 氷室の発言に火神は暫し固まった。 『……は?え?』 『仕草が妙に艶やかというか…』 氷室は思ったままを口にする。それは近頃の同居人の見せる表情が何やら性的であるという内容だった。原因はなんだと最近を振り返れば、火神の頭の中を駆け巡るのはバイト先でのあれこれで。 『…………いやだアアアアアアアアア!!!!』 たまらず火神が絶叫すると、火神の鳩尾に一発拳が入った。拳の持ち主は氷室だ。氷室は冷静に、美しい微笑をたたえたまま、近所迷惑だぞと火神を窘めた。 ◆ 本当時給だけは、時給だけは良いんだよ。 きゅっきゅとグラスを磨く手に思わず力が入る。うっかりすると割れてしまいそうだ。シンクもいつも以上にピカピカになってしまった。火神は勤務することによる弊害に泣きそうになったけれど、辞める気はない。まぁ色気が出るってことは女子にモテるってことかもしれないしと前向きに考え、自分を慰めることにした。 火神が悲しい自己欺瞞に努めていると、彼の周りに大きな影がかかった。 「がみちん、黒子ちん来た〜。がみちんとお話したいって〜」 「おー。了解」 「あと、お菓子足りなぁい」 影の主は喫茶"キセキ"で共に働くスタッフの一人、紫原敦だった。その大きな手にはおそらく黒子のテーブルのものと思われるオーダーがある。 紫原は大きな体にのんびりとした性格というアンバランスさに惹かれる客が多く、青峰と同じく自由奔放に客の相手をしている。体格が大きいせいか、比較的攻めとして扱われることが多い。また、無類のお菓子好きで、火神がお菓子を作ることが出来ることを知ってからは微妙に懐き、頻繁にお菓子の無心をしている。 「もう食べちゃったのか」 「がみちんのアップルパイおいしいし。クッキーも食べちゃった〜」 「じゃあ、これ食っとけ」 そう言うと火神はポケットに入れていた飴をひとつ、紫原の口にころりと押し込んだ。ついでに幾つかを紫原の大きな掌にのせてやる。紫原は顔をほころばせた。 「いちごだ〜」 「これで暫く我慢な?」 「うん、がみちんありがとう」 嬉しそうに背後に花を飛ばす紫原を撫でてから、火神は黒子のオーダーにとりかかった。(彼は自分と紫原を見詰める客には気付かなかった。) 黒子は火神が働き始める前からの常連客であるらしかった。彼は一週間に少なくとも二回は喫茶"キセキ"に訪れる。火神と知り合うのが遅くなってしまったのは仕事が立て込んでいたからだという。 ――だから、深刻に心の栄養が足らなかったんです。ささくれだった心に潤いが欲しかったんですよ。 あの初対面の日、火神と青峰のディープキスを見て満足した黒子はそう語った。その心の栄養がどうして他人のホモ行為を観察することなのか、火神には理解が及ばなかった。 黒子は大抵、紅茶をひとつ頼んで、店に大量に置いてあるBL本を何冊か選び静かに読んでいる。無表情のまま黙々と読んでいる様を、火神は少し怖いと思う。しかし、黒子が店に来ると、火神が厨房から出てくる回数はほんの少しだけ増えた。 注文された紅茶とクッキーを持って、火神は黒子の席まで行く。バニラ風味のものにしたら、火神くんはわかってますねと黒子に褒められた。青火がお気に入りだという黒子は今日は青峰が休みであるので、青峰について何かしら話すだけで良いと言った。火神は注文を不思議だなと思いつつ、青峰の横暴さをひたすら語った。 「でも、客には人気で。なんか、動きがエロいんだよ、アイツ、ですよ」 「そうですねえ、僕もたまにびっくりします」 半分愚痴になっている話を、黒子は紅茶を飲みながら静かに聞いている。彼からも話してくれることから、黒子と青峰が中学からの付き合いであることが知れた。部活が同じだったのだという。 「僕がこんな風になったのは中学二年生の時でした。桃井さんの持っていた本を読んで――」 桃井は喫茶『キセキ』のマネージャーをしているので、火神とも面識がある。美人で男受けも良い女だ。ただ、そう言って褒めたりすると「美人な男の子の受け話が読みたぁい」とか言い出す。残念な美人である。 「最初は勿論気持ちが悪かったのですが、どうしてかハマってしまったんですよね…。素質があったのでしょうか、恐ろしい。 青峰くんも、僕と桃井さんのせいで男性に対してどこか性的に動くことが上手になってしまったようですね」 静かに話を聞いていた火神はどうしても、黒子の性癖や性的志向が気になってしまった。 「ーー黒子さんはホモなのか、ですか」 訊いた後に、火神はしまった、と思った。一応知識として、腐った人々がホモセクシャルとは限らないということはわかっていたのに、興味に負けた。 黒子は少し目を見開き、その後くすくす笑った。 「火神くん、やっぱり青峰くんに似てますね。歯に衣着せぬと言いますか」 火神は顔を顰めたが、黒子はそれには構わず、わかりやすく自分について説明してくれた。 「ご存知とは思いますが、僕は所謂『腐男子』というやつなんです。男性同士の恋愛に興味はありますが、今のところ男性に恋をしたことはありませんね」 そうなのか、と火神は頷いた。少しがっかりしてしまった。火神は首をひねる。どうして自分がこういった事実に落胆しているのかわからなかった。 「ふーん…なんか難しいな、です」 「関係ないですが、火神くんは敬語も難しそうですね。年もそう変わりませんし、別にタメでも良いですよ」 黒子は火神にうっすらと微笑んで見せた。その微笑みをまともに受け止めてしまった火神は、またいつかのように頬が熱くなるのを感じた。 「あ〜」 隣りのテーブルで、かしゃんとカップが倒れる音がした。ごめんなさい、と謝る客の声がする。思わず目をやれば、巨人がのっそりと立ち上がったところだった。紫原はこちらを振り返った。 「がみちんー、こぼしたー…」 「おまっ…!!しかもコーヒーかよ!」 テーブルからだくだくと滴る褐色の液体に火神は目を剥いた。紫原の白いシャツも幾らか褐色に染まっている。同じテーブルにいた緑間はため息をついていた。火神は急いで布巾と雑巾を取りに行くと、緑間に一枚を手渡す。そしてテーブルの上から先に拭い始めた。むせそうになる程香ばしい香りがする。クロスをかけているわけではないので、簡単に拭くだけでどうにかなった。客に被害もないようだ。次は紫原だ。布巾を使い、白いシャツの染み抜きを軽く行う。火神は家事能力に特化しているため、慣れた手付きで染み抜きを終わらせた。 「っし、後は家帰ってからちゃんと洗濯しろよ」 「ありがと〜がみちんすげーね」 紫原はわしわしと火神の頭を撫でた。火神はされるがままで、満更でもないらしい。紫原は火神から手を離すと、とんでもない爆弾を落とした。 「そういえばがみちんてさ、黒ちんが来てると厨房から出てくるよね?なんで?」 幼稚園児が純粋に質問するような調子で紫原は火神に尋ねた。その実内容は火神の心の核心に迫っていたりする。しかし火神は気付かず、首を傾げる。 「は?いやそんなこと…」 「あるよ〜?」 否定する火神を、紫原は否定する。火神は紫原の言葉の意図する先がわからず、或いは敢えて理解しなかった。紫原は頭の回転が一気に落ちた火神に焦れて、最後にぺんっと火神の額を叩いた。 「もういーし。がみちんのあほ」 ぷい、と顔を背けると紫原はスタッフルームへ行ってしまった。え?え?と火神は狼狽えるが答えは出ない。火神は勝手に理不尽さを感じてむくれた。そのまま黒子を振り返ると、黒子はひとりぶつぶつと呪文を唱え始めていた。 「紫火フラグですか…矢印が混線しますから考えたこともなかったですが、なるほどありと言えばありですね。お菓子から始まる独占欲…ですか。こんな分野を開拓するなんて、紫原くん、恐ろしい子…!」 「おまえなにいってんの?」 少なくとも客に対する言葉遣いと反応ではなかったと火神は後に反省した。 ついでに掛け時計で確認すると、黒子のテーブルにやって来てから三十分程度経過していた。もともと火神なしでも注文の品は基本的には作れていたので問題はないが、手の中にまだある布巾を持ってそのまま厨房に戻っても良い頃合いだ。黒子と話をするのは楽しかったので、本当はぐずぐずとこの席に居座ってしまいたかったがこらえる。 「そしたら、黒子サン、わりぃけど俺厨房戻るわ」 「ええ、ありがとうございました」 火神が黒子にその旨を伝えると、黒子はぺこりと頭を下げた。 「いや、こちらこそ」 火神が踵を返したとき、丁度からんころん、とベルが来客を告げた。客は妙にでかくて黒くて体格が良かった。 「うーす」 「青峰?!」 来店したのは青峰だった。普段の店での制服と違い、プリントTシャツにジーパンとラフな恰好をしている。ちょっと散歩に出かけた、くらいのテンションだ。とりあえずこの喫茶店の雰囲気はぶち壊しである。 「おう、火神」 「おうじゃねーよおま…!!!?」 普通店に顔出すんなら裏口使うだろ、そう嗜めようとした火神の口は何故か青峰に塞がれていた。火神は当然言葉にならない悲鳴をあげた。ぶんっと腕を思い切り振り回し青峰を振り払う。身体能力の高い青峰は火神に殴られることはなく、後ろに飛び退いてうまく攻撃を避けた。 火神はまた顔を真っ赤にして青峰に噛み付いた。 「てめぇぇぇなんで今キスした!!!?」 「あ、わり、なんとなく」 「ふざけんなぁぁぁぁ」 青峰は悪気なくのたまった。けど、なんとなく、で何回も唇奪われてたまるか!!火神はいつかのように思いっきり唇を拭った。 青峰は店に忘れ物をしただけらしく、ずかずかと店内を横断してスタッフルームへと入って行った。絶対赤司に告げ口してやろうと火神は誓う。ふと、腐男子黒子がテーブルに肘をついて震えているのに気がついた。心配になって火神は声を掛ける。 「なんだよ」 声を掛けたのは間違いであったと先に記述しておこう。黒子は真顔で火神に答えた。 「いえ…心にちんこがあったら勃起しているなと思いまして」 「ち…」 「ハートフル勃起です」 黒子がさらりと下ネタを言ってくるので火神は絶句した。こんな、ほわほわした人間が汚いネタをぽろりとこぼすなんて。 「いや…お前リアルに生えてるじゃん…。勃起の時くらいは使ってやれよ…」 「こら、こんな乙女の園で何言い出すんですか火神くん、破廉恥ですよ」 「えっ、これ俺が悪いの?」 火神が自分を指差し尋ねると黒子に頷かれ、がっくりと肩を落とした。わからない、働き始めて二ヶ月が経つがこの喫茶店での美醜の基準が全く分からなかった。とりあえず、非礼があったことを詫びてから火神はよろよろと厨房へ戻った。厨房はスタッフルームと繋がっていて、紫原と青峰が通用口から顔をだしていた。どうしてかムカつく訳知り顔で頷いてみせる二人を見て、火神は益々鬱になった。っていうか紫原、結局シャツ着替えたんなら働け!んで、青峰、お前は帰れ!! 20130517 back |