ポストライカ | ナノ


宇宙に初めて行った動物をご存知だろうか。あの広くて広くて、エーテルもなにもない空間に放り出された憐れな生物は犬だった。名前はライカ。またはクドリャフカという。確か、元の名前がクドリャフカだ。彼女はロシア…旧ソビエトの作った、おもちゃみたいな、小さな宇宙船のスプートニク号に乗って生物として初めて地球の周回軌道に乗った。

この話を知っている人々は口を揃えて、ライカのことを可哀想だと言った。スプートニク号は地球に再突入もできないし、ライカだけでも地球に戻るための脱出ポット、なんてものも存在していなかったのだ。人の都合に振り回されて命を落としたライカ。可哀想、僕もそれには概ね同意だ。けれど、こうとも思う。ライカはそれでも宇宙に行ったんだ。現代では天才たちしか到達することを許されない、広すぎる、残酷なほど美しい世界に。

僕はライカに自分を重ねる時があった。なんて言うと痛々しいけれど、天才の領域に運良く(彼女にしては運悪く、)飛び込むことを許された、天才の世界でひと時の時間を過ごせた――そんなこじつけのようなことが、僕には何故か大きなことに思えたのだ。

ライカの話を知ったのは小学生のころの話であったので、僕の彼女に関する知識は当然小学生の時代のもので止まっていた。が、高校生になって初めての夏に、今更のようにまた詳しく調べてみようと思った。理由は…浅黒い手に、止められてしまった全力のパスだ。あの時から、僕はキセキの彼らに届くことが出来ないんじゃないか。そんな弱気が顔を出した。情けない話だ。

僕は誰に言い訳をするでもなく、ただの調べ学習だなんてぶつぶつ考えながらパソコンを操作した。親が随分と昔に買った、かなりな旧型のパソコンがうんうん唸って検索結果を吐き出す。まず、その文字列を見て、僕の指はぴく、と勝手に動いた。体温が下がるのを感じながら、僕はそのうちの幾つかを開いた。記述されていることを読み取れば否応無く脳みそに知識として収納されていく。

結論、僕は、調べなきゃ良かったと本気で思った。





熱い。暑いじゃなくて熱かった。一日中気分が悪かった。ぐるぐる、ぐじぐじと弱気が頭の中に渦巻いている。バスケで新しい技を編み出す切っ掛けも掴めない。悩みすぎて授業も碌に耳に入らなかった。このままじゃ火神くんレベルの馬鹿になってしまいます。

「誰が馬鹿だって?あ゛?」
「すみません、口が滑りました」

街灯のお陰で行き交う人の顔なんてはっきり見えてしまう現代の誰そ彼時、僕と火神くんはいつものマジバにいた。僕は真っ直ぐ帰ろうと思ったのだが、火神くんにバニラシェイクを奢るからと引きとめられたのだ。食欲はなかったがシェイク欲はあったので仕方なく付き合ってあげることにした。冗談です。どうやら馬鹿な癖に聡いこの相棒に僕の下らない動揺は完全に伝わってしまっていたらしかったのだ。だから、強引にマジバに誘って話を聞いてくれようとしている、彼の優しい気持ちを無碍にしたくなかったのだ。

火神くんは相変わらずな食事量を摂取しながら、僕の言葉を待っている。あんまりにちっちゃい話であるため、僕は火神くんを見て話すことができなかった。

「本当に、なんてことはないんです」

火神くんに買って貰ったバニラシェイクの入った紙コップを、軽く指で押し潰す。僕は彼に誠実であろうと、口を開いた。

「火神くん、宇宙に初めて行った動物を知っていますか?」
「は?…うちゅう?」
「もしかしてそこから説明しないと駄目ですか」
「ちげぇよ!お前がいきなり突拍子もねぇ話を始めたからびっくりしたんだ!」

余裕を見せてやろうと思いからかうと、案の定火神くんはがぁと吼える。その後、彼はすぐに怒りをひっこめて、うぅんと軽く考えこんだ。

「お前が俺にきくんだから…いぬ?」
「ご名答です」
「うぇ」

火神くんは予想通り嫌そうな顔をした。彼の犬嫌いは相当なものだ。まぁそれは既知の事実であるため流し、僕は話を続ける。

「だったんですけど」

宇宙に初めて行ったのはライカ。だったのだけれど。

「違ったみたいで」
「おお…」
「僕、その犬、ライカのことを自分と重ねてる部分があったんですが」

スプートニク2号に関する旧ソビエトの過去の発表には不審な点が幾つかあり、これまた幾つかの情報と論文が真実に光をあてている。

曰く、ライカの宇宙旅行は、そんなに美しいものではなかったのではないか。

一高校生であり、特に頭が良い訳ではない僕には難しい話はわからなかったけれど、ライカの生存を疑う話の多くはこう語った。

本来、ライカは打ち上げから十日後に薬入りの餌を与えられて安楽死させられる予定だった。しかし、実際は打ち上げから四日後には死んでいたのではないか。もっと言えば、打ち上げ数時間後には絶命していたのではないか、と。原因として宇宙船の断熱材が損傷し宇宙に向かう途中で船内が高温になったこと、また船内の変化によりライカが激しいストレス受けたことが上げられる。実際、宇宙船が飛行を開始してから五〜七時間後にはライカが生きている証拠はなくなってしまったらしいのだ。

数時間。それは「ライカが」宇宙に至れたと言えるのか。

僕がぽつぽつと話す中学生の調べものみたいな内容を、火神くんは静かに聞いていた。僕はやっぱり俯いたまま呟いた。

「ライカは、宇宙にいけなかったんです…」

ライカが宇宙に行けたとは、今の僕には言えなかった。

熱い熱い密室の中で絶望して、なんにもない世界に行けたのは刹那、無音の絶景を目に焼き付けることもできずに死んで行った。その終わりのお粗末さは、まるで僕みたいだ。

「ぼくも、とどかないかもしれません……」

中学のあのころ、天才たちの世界に触れられたと勘違いをして。本当はひとつも届いちゃいないのに、響いちゃいないのに、天才よりも知った顔をして。ああ、苦しい。僕のいられる世界の、なんて――狭い。

「お前は犬じゃないだろ」

センチメンタルになっている僕に火神くんが最初にかけた言葉はこれだった。

「…そうですけど」

僕はむすっとして答える。ちょっと気が抜けたので、火神くんの顔を久しぶりに見ることにした。どうせ馬鹿にしているか呆れた顔をしているんだろうなあと思うと気は進まなかったけれど、いつまでも俯いているのも情けないと思った。

火神くんは、食べかけのバーガーを持ったまま、僕の方なんて見ないで一生懸命に何やら考え込んでいるようだった。

「お前は人間じゃん。…ほら、えーと、あのお菓子と同じ名前の」
「…アポロですか?」

何の話をしたいんだろう。とりあえず、某ロングヒット商品である、三角錐の二層構造イチゴチョコの名前を言うと火神くんは僕を指差した。

「そう、それ。えーと、アポロ…15号?」
「もし月面着陸のことが言いたいのならアポロ11号ですが」
「おあ!それだ!!」

顔を上げた火神くんは、僕に満面の笑みを向けた。

「黒子と同じ番号じゃねえか!背番号!」

――目の前を、「11」がひらりと踊って飛んで行った。窓を通過して、街灯を越えて、ひらり、夜空へ突き抜けた。

僕は一瞬息をするのを忘れてしまった。どうして――どうしてキミは、僕の話を嗤わないで、そんな必死になってるんですか。僕が呼吸をやめた間にも、火神くんは精一杯の熱弁をふるう。

「アポロ11号は宇宙に行ったんだろ。ってか月まで行ったんだ。お前、人間じゃん。大丈夫、お前はちゃんと届くよ。月にも行ける、足跡だってべたべた残せるよ」

僕は机の上に置いてあったナプキンを火神くんに差し出した。

「……火神くん、口の端。ソースついてます」
「お、thanks、ってそうじゃないだろ」

火神くんははぐらかされていると思ったのか、不満げな声をあげた。けれど、すみません、ちょっとこっち見ないでくれると嬉しいです。今、僕、嬉しくて、泣きたくて、切なくて、どんな表情をしているのか、自分でもわからないんです。きっと、ひどい顔なんです。見ないでください。

ねぇ、宇宙に「行った」ライカ、宇宙に行きたくもなかったライカ。僕はキミと似ていると思っていたんですけど、ちょっと違うらしいです。

「火神くん」

やっとのことで顔を上げて、声をかけた。口の周りを拭き終わった火神くんが僕に目を向ける。落ち着いた赤色がふたつ。火神くんの、あったかい色だ。

「僕、行くなら火星が良いなと思うんですけど、どう思いますか?」
「…やっぱお前、よくわかんねぇや」

火神くんはそう言うと、しょうがなさそうに僕に笑った。


ポストライカ



20130510

back


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -