虎恋2 | ナノ


その後の火神くんの凹みっぷりたるや、再起不能という言葉がしっくりくる。ドライヤーを使って身体を乾かし終えたら僕を一度も振り返らずにリビングへと移動、身体を丸めて不貞腐れてしまったのだ。まるでトラ柄のでっかいクッションみたいになっている。僕は一旦彼は放っておいて、自分もシャワーを浴び火神くんのジャージを勝手に借りた。嫌みな程ぶかぶかでズボンは腰のひもでどうにか縛った。

バスルームから出ると、火神くんは前とおんなじ姿勢でふてていた。僕は彼の背後に屈んで、その背中をわしゃわしゃと弄くり回した。

「火神くん、僕が悪かったですから。ほら、どうやったら人間に戻れるか考えないとですよ」

火神くんはちらりとこちらに視線をやって、また目を閉じてしまった。いいよもう、めんどくせえ。彼は現在虎なので言葉は話せないが目が語っている。態度に腹が立ったのでもう一度尻尾を掴んで今度は固結びにしてやろうかと思った。ただ、僕が火神くんの思考を読めるように彼も僕の考えをある程度読めるので、その嫌がらせは不発に終わった。

火神くんがこんなにも呑気に過ごしているのだからきっと元に戻る宛はあるのだろうが、怠惰な彼には釈然としない。僕は今度は火神くんの頭の近くに腰を下ろした。

「火神くん、いい加減理由を教えてくれたっていいじゃないですか。あいうえお表くらいだったら僕にも作れます。コミュニケーションの手段がない訳ではありませんよ」

僕が解決案を提示しつつ火神に言い募ると真っ赤な光彩が再び顔を出した。縦の瞳孔以外見慣れたそれはどうしてか僕の値踏みをするようだった。火神くんはごく自然に頭を僕の膝の辺りに擦り付けてから立ち上がった。行動も動物っぽくなっている。のしのしと彼が歩いて行く先は僕が入ったことがない部屋だった。火神くんは現在ネコ科なので夜目が効くが、僕は人間なので勝手に電気をつける。綺麗好きな火神くんにしては部屋の空気が埃っぽい。多分物置として使っているのだろう。大きな本棚とパソコンが一台置いてあるところを見ると、もしかしたらここは火神くんのお父さんの部屋になる予定だったのかもしれない。

火神くんはパソコンのあるデスクに両前足をのせると僕を振り返った。起動しろ、ということだ。本人の了承を得ているので僕は躊躇いなくパソコンの電源を入れた。ログインの際のパスワードは必要ないらしい。火神くんは自分の鼻先を器用に使って、メールのアイコンを示した。その通りにマウスを動かし、クリックする。そんな拙いやり取りを繰り返し、僕は火神くんのお父さんからのメールを開いた。

内容はやはり火神くんの体質のことだった。手始めに原因の欄を読んで行く。

『慢性的な不安感や動揺、苦悩、矛盾。精神的に安定が得られるまで元に戻れない』

火神くんはやっぱり、何かしらの不安を抱えていたらしい。虎になるほどに思い悩むまで放置してしまった自分が情けなくなった。

「火神くんこれ読めましたか?」

重い空気になるのだけは避けたくて火神くんをいじると、ぐるると唸り声が上がった。

「はいはいすみませんすみません。えーと…え?」

更に読み進めて、僕は火神くんを振り返った。

『特に恋が原因になることがあるから気をつけなさい』

火神くんは僕から顔を背けていた。

「火神くん…恋しちゃってたんですか」
「…」

こちらを向こうとしない火神くんの態度は煮え切らない。尻尾が不快そうにゆらゆらと揺れている。耳をつついて嫌がらせをすると、耐えかねた火神くんはやっと振り向いた。火神くんは大きな手を使って、どうにか文字を打ち込もうとし始めた。伝えたいことがあるらしい。しかし、火神くんの手のサイズではどう頑張っても無理だ。がしゃがしゃとキーボードが抗議の声を上げる。諦めの悪い火神くんに僕は声を掛ける。

「あいうえお表を作ります。ちょっと待ってください」

何枚かのコピー用紙を失敬し、大急ぎで紙を貼り合わせて表をつくる。雑になってしまったのは仕方がないだろう。リビングへと場所を変えてコミュニケーションをはかる。大きな表を作ったつもりだったのだが、やはり火神くんの大きな手ではわかりにくかった。彼の手の下にいくつも文字が隠れてしまうのだ。もう一回表を作り直していいたら埒があかない。人差し指の位置の文字を拾う、ということにした。火神くんは一生懸命手を動かす。僕は彼の隣りに座り込んで、それを覗き込んだ。

『こい わから ない』
「確かに、火神くんは恋愛とは無縁そうですもんね」
『でも』

火神くんは言う。

『こい しない ように』
「恋愛をしないように気をつけている、ということですか?」

虎がこくりと頷く。

「そりゃあ君、無理ですよ。恋をしないように頑張ったって。恋はするものじゃあなく、落ちるものなんですから」

恋愛という話題になった途端にこんなにうろたえているのだから、今回の騒動の原因は恋愛であるようだった。

『だれ か わか』
「お相手がわからないのですか」

火神くんはまた頷いた。僕はうーん、と唸ってしまった。火神くんとコイバナをすることもありえなかったし、僕自身も特に最近恋とは縁がない。それでも恋愛小説くらいはたまに読んではいるので、一般的だと思えることを話すことにした。

「僕もそういう感情を持ったことはあまりないのですが…きっと火神くんがご飯を食べたり、バスケをすることと同じくらい、いえ、それ以上に大切に思っている人な筈です。例えば今晩、ゆっくり考えたらわかるかもしれませんよ」

火神くんの尻尾がぱたっ、ぱたっ、と揺れている。きっと考えあぐねているのだ。

「恋って、大抵手遅れらしいですよ」

僕がそう言うと、ピタリと尻尾が動きをやめた。



火神くんは虎のままだと、例えば水を飲むとかそういった日常生活に支障をきたしてしまう。いつまでも彼が虎であるわけではないが、いつ戻るかもわからず心配だったので今夜は彼の家に泊まることにした。火神くんには断られたが、僕のしたいようにすることにした。火神くんはリビングで完全にくつろぎモードだ。だらしなく四肢を放り出している。そんなネコ科最大の動物を前に、僕は心の中で呟く。

――もう、良いですよね?

「火神くん」

声を掛けると火神くんは首を上げてこちらに目をやった。耳がぴんと立っている。僕は一気に捲し立てた。

「ねぇ火神くん、僕、キミのこといっぱい助けましたよね、役に立ちましたよねいえ別に恩を売ってる訳じゃないんですけどね、お礼として君のその立派な毛並みに頬を埋めるくらいのことをさせて頂いても僕に罰はあたらないと思うんですよねぇどうですかどう思いますか」

火神くんはぽかん、と僕を見ていた。そうですかそうですか沈黙は肯定ですね。僕は迷わず火神くんに飛びついた。両腕をぎゅうとまわして顔を擦り付ける。…天国だった。しなやかだが柔らかい毛皮と、動物らしいハリのある筋肉。中身は自分と同じ男子高校生でクラスメイトで相棒、彼が人間だったときと置き換えて考えるとぞっとしないが、今彼は虎なのだ。そんなの抱きしめてもふもふする以外ないじゃないですか。もー、自分に害がない虎だってわかったときからずーっと我慢してたんですよ。てしてしと大きな前足が僕の頭や肩をはたく。我に返った火神くんは最初こそ抵抗を試みていたが力の制御に自信がないらしく、最終的にはじっとしてくれていた。ぐるぐるぐると威嚇し唸るのも疲れてしまったらしい。

「あああ、もう役得です幸せです。戻ったらむさい男子高校生ってわかってますけどね、もう考えるのやめます。虎かっこいいです。僕今日は火神くんと一緒に寝ます」

言うと流石に体を捩って攻撃されたが、僕は諦めるつもりは更々なかった。

僕は宣言通り、ベッドに横になる火神くんの横に滑り込んだ。というか火神くんはリビングにいようがどこにいようが側を離れようとしない僕に折れたらしいのだ。寝転がるのは火神くんの背中側でも良かったのだが、つまらないので正面から。火神くんはもう好きにしろ、といった体だ。側にいると春先の夜間の寒さが全く気にならない程にぬくかった。僕は火神くんの手をとると、肉球を揉んで遊んだ。普段しまわれている爪はとても鋭くて、人間なんて簡単に殺せてしまいそうだった。大きな虎の火神くんは、大きな牙も爪も持っているけれど、人を襲ったりなんかしない。それは当然のことなのだけれど、何故だか彼らしくて笑えてしまった。

「あ、ごめんなさい」

くすくす笑いが漏れてしまって、火神くんが問うように僕の目を見詰めた。僕がなんで笑ったのか、話すのは若干気恥ずかしいので黙秘させてもらう。そのかわり、僕は火神くんに話しかけた。

「キミはいったい、誰が好きなんでしょうね。気になっちゃいます」

火神くんの大きな手を抱えたまま、僕は笑う。

火神くんの好きな人、貴女は幸せだ。火神くんは恋の動揺で虎になってしまうくらい不器用だけど、そんな超常現象よりびっくりするほどに優しい人だ。

虎は、静かに僕を見ている。

「好きになったら、もう仕様がないんです…。僕にできることがあったら、なんでも言ってくださいね」

そういって僕は火神くんの手を解放した。火神くんはじっと僕を見て、それから本当の虎のように僕の頬に顔を擦り付けた。

「…」

ぐりぐり、押し付けられる虎の頭を僕は何気なく撫でた。





翌朝、ふるりと体が震えて、僕は眼を覚ました。肌寒い。いつもと違う寝起きの風景に、僕は火神くんとのあれこれを思い出す。いつの間にかベッドには僕一人しかいなくなっていた。火神くんのベッドは大きいから、ちょっと寂しい気分になった。

体を起こすといい匂いがした。キッチンの方で、じゅうじゅうと朝ご飯を作っている音がする。火神くん、元に戻れたのか。大きな虎と(一方的に)戯れたことが、もう夢のようだ。ベッドに座り込んだままぼうっとしていると、部屋の入り口に火神くんがやって来た。彼は部屋着のままで、そういえばあのびりびりに破れた制服はどうしようかと今更なことを思い出した。

「黒子起きたか」

おはよう、と言って火神くんは屈んで僕の頬に頬を擦り付けた。……………虎の時の仕草が抜けていないのだろうか。指摘するのもかわいそうかなと思って、僕はそのことには触れなかった。ただ、すっかりつるつるになってしまった火神くんの顔に手を伸ばした。

「…虎の時のほっぺの毛皮が最高でしたのに…」

そう冗談半分本音半分にぼやくと、火神くんは僕の手の上に自分の手を重ねた。僕の手は火神くんの手にすっぽり包まれてしまっている。心臓が上に上がってくるような感覚を覚える。火神くんはその体勢のまま、くすりと笑った。

「俺、もう虎じゃねーんだけど」
「………お互い様です」
「それもそうか」

火神くんはびっくりするほど上機嫌だった。ただ、上機嫌の種類が違う。バスケで強い相手と戦う時のあのぐいぐいくるようなそれではなくて、ひたすらに穏やかだった。慈愛、という言葉が近い状態かもしれない。

「朝食できてるから来いよ。あと寝癖ー、は後で直すか」

指摘された頭髪に手をやると、今日も厄介な爆発具合だった。火神くんは背を向けて、部屋から出て行ってしまう。見えなくなった広い背中を思い描く。もう大丈夫、彼はもう虎にはならないだろう。自分が助けになったかは分からないが、火神くんの葛藤といった感情は彼の中でしっかりと消化されたようだった。僕は立ち上がり、やっぱり先に寝癖を直そうかとバスルームへ向かう。

負の感情の消化、ただ、それだけの話なのに、火神くんが僕には追いつけない速度で大人になってしまった気がした。


虎もに落ちる



20130502

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