虎恋1 | ナノ


火神くんは少し前、具体的にはおおよそ一週間程前から落ち着きがなくなっていた。何故かずっとそわそわしていて、部活での練習にも身が入っていない。あのバスケ馬鹿がバスケに集中できていないのだ、相当な悩みを彼は抱えているんじゃなかろうか。僕を含め部員全員がそう彼を心配していた。

その火神くんから誘われて、二人で一緒にマジバに向かったのが今日のこと。マジバ店内はいつも通りざわざわと騒がしいのに、対照的に火神くんは心ここにあらずでぼんやりしている。誘ったのは火神くんの癖にどういうことだ、とむっとしたので僕は小説を読んで時間をつぶした。たまに本越しに火神くんの挙動を伺ったがこれといって何もなく、バーガーを食べる勢いも精彩を欠いていた。小説は面白いしバニラシェイクも美味しいしこんな調子の火神くんを見るのも珍しくてまぁ楽しくない訳ではなかったが、亀の観察でもした方がよっぽど楽しいかもしれないと嫌みなことを考えてみたりした。

火神くんのトレイからバーガーが全てなくなったところで、僕と火神くんは席を立った。ドアを開ければ春の密な薫りで肺が満たされる。街灯の光が段々と目立つ中、二人連れ立って無言で歩を進めた。火神くんはなんだかよろよろしていた。そろそろ、悩みを無理矢理にでも聞き出した方が良いかもしれない。でもどう切り出せばいいのだろう。会話の組み立てを頭の中で行っていると、ふと自分の不注意に気がついた。

「すみません、火神くん。マジバに本を置いて来てしまったみたいです」
「ん、ああ、そう」
「…あの、話したいことがあるんです。今からとってくるので、待っていて貰えませんか」

僕がそう言うと、火神くんの目に少し動揺が見られた。

「………おー」

火神くんの上の空な肯定を聞いて、僕はマジバへと小走りで向かった。彼のことについては、戻って来てから問いつめることにしよう。

マジバへと戻れば、テーブルの隅に本が寂しげにのっていた。置いてけぼりにした本に対して少し申し訳なく思ってからまた小走りで火神くんの元へと向かう。僕は火神くんが待っていてくれると、微塵も疑っていなかった。

だから、あの存在感の塊が、暗黙の了解で決めた待ち合わせ場所に立っていなかった時は呆然としてしまった。

「火神くん…?」

きょろきょろと周囲を見渡しても、190cmの赤毛の男子高校生なんてどこにもいない。もしかして、先に帰ってしまった?…バ火神の癖に!――そんな軽口も出ない訳ではなかったけれど、かといってその程度でテンションを上げられるようなダメージではなかったらしい。僕にとって火神くんは居心地の良い悪いに関わらずいつでも側にいるのが当然だ。こんな放置のされ方をされると、足下が覚束ない気分になってくるようだった。

僕は唇を噛み締めて俯いた。その先、踏ん張った足下に光る物があった。

「――あれ、?」

夜の街の明かりを鮮やかに跳ね返しているそれは、火神くんがいつもつけているリングとチェーンだ。ひやりと冷たいそれを拾い上げて確認するが、間違いない。手のひらに乗せるとチェーンが切れてしまっているのが分かった。きっと落として気がつかなかったのだろう。放置されたことに関して腹が立っているし、これを理由に火神くんのマンションに押し掛けることにしようか。手のひらのものを制服のポケットに押し込んで、僕は顔を上げた。マンションへと行く先を変える。少し歩いた道ばたにまた、何かが落ちていた。ゴミのように扱われて人の目に留まらなくなっているその落とし物に僕は見覚えがあった。

「誠凛の制服…ですね」

また拾い上げると相当大きな上着はまだ内部が少し温もっていて、よく知っている匂いがした。何故か肩などの縫い目の部分が裂けてしまっている。無理矢理に力を加えられたせいではないだろうか。これはもう着られないかもしれない。嫌な予感しかしなかったが、念のため内側を見て名前を確認する。雑な文字で「火神大我」と記入してあった。

千切られたチェーンと、ところどころ裂けた学ラン。手にしている手がかりたちに一度呆けてから総毛立った。これらは、火神くんが何か、暴動に巻き込まれた証拠のようではないじゃないか。

僕には超能力なんてない。どこに火神くんがいるかなんて、わからない。また、火神くんのような体格の良い大男が拉致られるなんてことは俄には信じがたいし、もしそうだとしたら僕が飛び込んで行っても勝機はないだろう。わかってる、でも、僕は走らずにはいられなかった。ぼろぼろになっている学ランを抱きしめて僕は夜の街を疾走した。あっちこっち見ながら走って、しばらくするとまた洋服が道ばたに転がっている。急停止して拾い上げるとやっぱり火神くんの服で。つまりこの方向に火神くんは移動している訳だ。もう一度僕は走った。段々人気がなくなってきて、また火神くんの物と思わしき誠凛高校の制服を拾った。ただ、そこで一つ疑問がわいた。今回拾ったのは制服のズボンで、しかも。

「………どうしてパンツまで」

黒のボクサーって確か合宿でもはいていましたよね。と、いう訳でおそらく火神くんのパンツで間違いないのだが…。これだと火神くん、現在全裸ってことになりませんか?

「…」

ちょっと待ってください、頭の中がうまくまとまりません。でも、止まっていたら火神くんにはきっと追いつけない。僕はまた小走りで火神くんを探し始める。そして細い路地にさしかかった時、その路地の入り口に火神くんのバッグが転がっているのを見つけた。僕は当然、その荷物に飛びついた。暗くてよく見えないので携帯のバックライトを活用する。心もとない光の中ではあったが、財布などの大事な物は全て鞄に入ったままになっていた。

じゃあなんで、彼は消えたのか。今まで走り回ったせいもあり、一度腰を下ろして上がってしまった呼吸を整える。火神くんの鞄から顔を上げたところで――僕は硬直した。


路地の奥に、大きな虎がいた。


いや、虎は大きいものだから大きな虎というと語弊があるかもしれない。それでも、僕がそう表現したくなるくらいには虎の存在感は圧倒的だった。しっかりとした四肢に、座った僕よりも高い体高。闇の中、少ない明かりがぎらりとその目を輝かせている。本物だ。

どうしてこんなところに虎がいるんだ。奴らは日本では檻に囲われて動物園で見世物になっている筈だ。もしかして、脱走?尚更通報しなければ。動いたら何かされそうで、体を動かさない代わりに僕はぐるぐると考えを巡らした。だが、僕が動かなくたって事態が動いてしまうこともままある。今回がそのケースで、虎が僕に駆け寄って来た。僕は冗談じゃなく、食われる、そう思った。反射的に後ずさった僕に気付いてか、虎は僕への接近を途中でやめた。

虎は弱り切った様子でウロウロと歩き回った後に、僕から少し離れたところで腰を下ろした。まるで何もしないよ、と言いたげな動作だ。虎は僕の方から動くことを期待しているようだった。手のひらがコンクリートと少し擦れて、自分の手が痛いくらいに冷えていることに気がついた。虎は、いつまでも動かない僕をじっと見ていた。じっと、願うように、祈るように――僕がそう感じたのは間違っているだろうか。だから、僕は動かなかった。

遂に、心が折れたかのように虎は項垂れ、その目からぽろりと涙をこぼした。深い赤の眼が、何故だかルビーのように目を引いて、僕はこの瞬間、きっと超能力が使えたのだと思う。

「……もしかして、火神くん、ですか…?」

でなければこんな頭がおかしいこと、思いつく筈がないのだから。

超能力という埒外なスペック以外に僕がその結論に至ったのは、目の前の虎が涙を流したからだった。虎はネコ科、同じ科の動物である猫は普通涙を流さない。とはいえ、それだけで目の前の大型ネコ科動物が元々は人間だなんて断定するのはぶっ飛びすぎている。

虎は頭を上げて、希望に満ちた眼で僕を見た。腰を上げ、のしのしと僕のすぐ側までやってくる。目の前の生き物に攻撃の意志がないことは明々白々。しかし近いと、更にでかい。少し腰が引けてしまったけれど、僕は虎に向かって拳を突き出した。その拳にお手をするように、虎は右前足をのばした。大きな肉球がむに、と押し付けられる。

「キミは…なにがどうなったら虎になってしまうのですか…」

僕が思わずぼやくと、虎になった火神くんは所在無さげに体を小さくした。

しゃがんだまま火神くんを観察する。とにかく、このまま路地にいる訳にはいかない。大体の人は虎を見つけたらさっきの僕みたいに通報を考えるだろう。日本には野良虎なんていないのだ。某児童文学の透明マントがこんなに欲しいと思う日がくるなんて、と僕は歯噛みする(僕にはどうも必要とは思えないものだったのだ)。僕の影の薄さは誰かの為に使える物ではなく、ミスディレクションオーバーフローも試合の中だからこそ使えるもので、魔法じゃない。どう考えても手詰まりに思えて、抱えた火神くんの荷物にぼふん、と顔を埋める。

「どうしましょう…移動」

思わず呟くと、火神くんが僕の頭にでかい手を乗っけた。木吉先輩よりも重くて大きな手、というか前足だ。顔を上げると、火神くんは既に路地の奥の方へと歩き出していた。尻尾がゆらりゆらり、揺れている。僕は慌ててその後を追った。どうやら火神くんは人目につかない道を知っているらしい。家に帰れるのなら、どうしてこんな路地でじっとしていたのだろう。疑問もわいたけれど、一先ず彼について行くことにした。

ゆっくり歩いたり、少し駆けたりしながら迂回路を通る。ずっと心臓がうるさかったけれど、僕たちは人と一度も通りすがることもなく火神くんのマンションへと辿り着いた。時間帯にまで気を遣った、最善の経路だった。マンションに入ると、火神くんがたしたしと前足でインターホンを示した。確かに、これは火神くん一人ではやり遂げることができないミッションだ。僕は火神くんのバッグから鍵を取り出し、ドアを解錠した。そういえば、このマンション普通に監視カメラついてた気がするんですけど…。

「難しいことは後で考えましょうか」

そう火神くんを見下ろせば、火神くんは不思議そうに首を傾げてみせた。なんだか可愛かったので、頭から首の辺りを撫でてやると火神くんはダッシュでエレベーターへと突撃した。


やはりかなりの緊張状態にあったらしく、僕は火神くんの家に着くと全身の力が抜けそうになった。それでもなんとか踏ん張って、僕はまず火神くんの足を拭いてやることにした。火神くんを玄関に待たせ、古そうなミニタオルとバスタオルを持っていく。ミニタオルはお湯で軽くしぼって、火神くんの足の裏を拭った。火神くんは協力的だったけれど、彼の足首はかなり太いので少しもたついてしまった。綺麗にし終えた足は廊下に広げたバスタオルの上にのせる。そうやってなんとか手足を綺麗にし終えたが、よく見ると火神くんの腹などもくすんだ色になっていた。外で座ったりしたから汚れてしまったのだろう。

そのまま寝転がるとカーペットやベッドシーツがえらいことになってしまう。僕は火神くんを見下ろした。

「火神くん」

声をかけると火神くんはぴるぴると耳を動かして僕を見上げた。その動物的な動作をやっぱり可愛いなぁ、と思いつつ、僕は言葉を続ける。

「お風呂、入りましょうか」

火神くんが意味を理解して逃げる前に、僕は火神くんの尻尾を強く掴んだ。



どうやら尻尾を掴まれるのは物凄く不快らしく、火神くんは渋々僕の指示に従ってくれた。服の裾を捲り上げる僕をじぃと見詰めてくる。言葉がなくても嫌がっているのがはっきりと伝わる。浴槽の外でおすわりをしている火神くんに僕はせめて優しくお湯をかけた。続いてボディーソープを手に取ると、火神くんが唸り始めた。

「…威嚇しなくてもちゃんとやりますから。っていうか合宿で君の息子さんがご立派なのはわかってますから今更ですって」

軽口を叩くと、火神くんはがぁ!と牙を剥いた。その迫力たるや、本物の虎に遜色ない。でも、中身が火神くんだとわかっている僕にとってはちっとも怖くなかった。

火神くんの香りだな、と思いながら僕はわしゃわしゃと火神くんを洗う。良い毛並みであるからかボディーソープがきめ細かく泡立った。虎をお風呂に入れる機会なんてあるわけがないからなんだか楽しくなってしまった。お腹の方を洗っている時、ふと気が付いてしまった。

「イチモツといえば――火神くん。トイレ、どうするんですか」

僕が尋ねると、虎は屈辱のあまりにボロボロと大粒の涙を流した。



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