どんな学校に行っても、七不思議というのが存在する。大抵の場合その不思議の数々は偶然や噂が生み出したものだ。中には生徒が面白がって無理矢理作り出したりすることもある。うちの中学校にも七不思議は存在していて、やはりどれも独創性に欠けていた。程度の低いものな時は、盛り上がる友人を前にねーよと心の中で馬鹿にすることも多々あった。 しかしながら、偽物の中に本物が紛れていることだってあるのだ。 「あ、また鳴ってる」 厳しい残暑の中に涼しげな、ぽろぽろと柔らかい音が響いていた。頭上から降ってくる子供が適当に遊んでいるような旋律は不安定でなんだかはっきりしない。近くにいたクラスメイトが、七不思議だ!とやや興奮気味に話しはじめる。その様子がガキっぽくて俺は辟易とした。 うちの学校の七不思議のひとつ、放課後に勝手に鳴り出すピアノ。 珍しく部活が休みで、中途半端に放課後まで教室に居残っていることは初めてだったので、俺が奏者のいないピアノの音を聞くのはなんだかんだで初めてだった。ささめく生徒たちに反感を持つ一方、間が抜けているが、へぇ本当に鳴っているなあというのが正直な感想だった。 どうせ誰かがこっそり忍び込んで弾いて遊んでいるのだろう。気持ち悪がって人が寄り付かないことも手伝い、嘘が不思議に変わっているだけだ。 その日もともと気が立っていた俺は無性に腹が立って、嘘を暴きたくなった。俺は確かに明るい性格ではあるけれど、だからといってそんなに性格は良くないと思うし、噂を絶やさない奴らを見下していい気分になりたかっただけかもしれない。理由は何であれ、俺は第二音楽室へと向かった。 第二音楽室は吹奏楽部が半分以上倉庫として使ってしまっていて、それ以外は人の出入りが全くない僻地だ。校舎の端に位置していることも手伝って廊下ですら人が通ることが珍しく、床には薄っすらと埃が積もっている。 俺は扉に手を掛けた。引き戸は思ったよりも重く、じわじわと開かれていった。 ――俺は昔から目が良かった。視力検査で良い数値を出すのは当然で、空間認識能力がズバ抜けて良い。そして俺の目の良さはそれらのことに限らなかった。 放課後の第二音楽室では、古いピアノを静かに弾く幽霊がいた。 「珍しいな、誰だ?」 その人は――いや、霊は、整えられた緑の髪と、黒いフレームの眼鏡が印象的でどこか昭和の人のようだった。白いYシャツが眩しくて、俺は光に透けてしまいそうなその人を見ていたら、声がひっくり返ってしまいそうになった。 「……どうも」 「ああ、俺がはっきり見えているのか。これは驚いたな。話も出来る、嬉しいことだ」 睫毛の長い目が楽しげに、重たそうにぱちぱちと瞬いた。 「君、名前はなんと言うんだ?」 「……そっちが教えてくれんのなら」 名前の大切さを知っている…といったらなんだか良い子のようだが、俺はぶっきらぼうに返した。とある知り合いに名前は大切にしろと言われたこともあったのも、理由のひとつだ。ピアノの幽霊は俺にそう返されるとは思っていなかったらしくまた目を見開いていたが、すぐに淋しそうに笑って、答えた。 「すまないな、教えられない。俺は、自分の名前だけはどうしても思い出せないんだ」 ◆ ばさばさと頭上を羽音が通り過ぎた――と、思ったらその音は旋回し自分に近づいてきた。 音の主は俺の進行方向少し前の塀の上に舞い降りる。一羽の烏が、俺を真っ直ぐに見下ろしていた。烏はカァカァと俺に話しかけて来た。 「よお、高尾の坊主。今日は随分帰りが早いじゃないかい」 「神田さん、ただいまー」 いつものことなので、俺は普通に挨拶を返した。 烏の神田さんは彼によればものすごい長生きの烏で、でも年を感じさせない綺麗な烏だ。そのまんま、烏の濡れ羽色というやつといえばいいだろか。彼は長く生きているだけあって、色んなことを知っている。名前を大切にしろという忠告も、彼から受けたものだ。 神田さんとの出会いはあまり良いものではなかった。彼は当時幼稚園児だった俺を見掛けては、転べばやれ鈍臭いだの泣き虫だのという風に散々からかってきたのだ。と、いうのも人間の俺には自分が何を言っても聞こえないだろと高を括っていたらしい。最初こそ黒くて大きい存在である神田さんを怖がっていたが俺も次第に強くなり、ついに神田さんに向かって、 「テメーぜんぶ、きこえてんだからな!!」 と怒鳴りつけた。ついでに石も投げた。届かなかった。それでも神田さんは面食らったらしく、とまっていた木からずり落ちかけた。神田さんはバサバサと羽根を動かし地上に降り立つと、ぴょんぴょん跳ねながら俺に近づいてきた。俺はまた足元の小石を拾い、臨戦体制で神田さんを待ち受けた。 しかし予想外なことに、神田さんは俺をじっと見て、呵々大笑した。 「いやー、すまんすまん!!聞こえているとは思わなんだ。まぁ聞かれたところで不都合はないが、謝罪はせねばな」 悪びれずにかぁかぁ笑っている神田さんが実はいい烏だということは、なんとなく知れた。 と、こんなわけで交流が始まり立ち話をするようになり、神田さんとは結構長い付き合いだ。 ああ、そうだ。 「神田さんてさ、幽霊のことも詳しかったりするよな?」 「唐突だな。でも儂は伊達に長くは過ごしておらんよ。それこそ、そろそろもう一本足が生えて来るかもしれん」 神田さんはえっへんと胸を張ってみせた。でも、いや、無理だろ。 「てか、なんで足?」 思わず尋ねると神田さんはあからさまにがっかりとして、でかい嘴でおれの頭を突っついた。尖っているからかなり痛い。 「なんだお前、かの有名な『古事記』を読んでないというのか!無知め!」 「ちょっ、いてえ!そんなもんこの時代で読むもんかぁ!って違う、喧嘩したいわけじゃねーの!」 俺はエナメルバッグで防御しつつ、神田さんに今日の幽霊の話をした。神田さんは一応まともに聞く気はあるらしく、俺を小突くのをやめ再び塀に降り立った。 俺の話を聞き終えた彼は詰まらなさそうに嘴で器用に羽の手入れを始めた。 「なんじゃ、ただの地縛霊だろう」 「でもさぁ、雰囲気違うんだよ。地縛霊はさぁもっとおどろおどろしいじゃん、でも、あの幽霊は綺麗っていうか…」 俺は記憶の中の幽霊を脳内で反芻してみた。舞い上がる埃まで輝いて、きらきら、目を細めるほどに眩しかった。古びた音楽室の中で、彼は嘘つきな淡い水彩画のように美しかった。幽霊を縛る未練が、何故だか幽霊を汚染していなかった。成人男性に対してこんな感想を持つことは今まで一度もなかったから、胸の奥がムズムズした。 神田さんはくぁと欠伸をひとつしてから俺に問うた。 「で、なんだ、その幽霊をどうしたいんだ?」 「どうしたいって…」 「お前が自分から関わりにいくのは珍しいじゃあないか。何かしてやりたいんだろ」 もともとはストレス発散に嘘を暴こうとしていただけというのは格好悪いから伏せておこう。 「そうだなぁ…やっぱり成仏の手伝いかなぁ…」 言うと、神田さんはうんうんと頷いた。 「まぁ、そうさなぁ。坊主に出来るのはそれしかないだろなぁ」 「だから、神田さん手伝ってよ」 「えー、めんどい。だるい」 「こんのくそガラス…うぜえ…」 散歩ついでにスラングまで拾ってくるからタチが悪い。神田さんはタダでは動くつもりはないようだ。ここで揉めても効率が悪い。俺はさっさと切り札を使うことにした。 「わかった。7・11の焼肉弁当でどうだ」 言った途端、神田さんの目の色が変わった。 「7・11の焼肉弁当?!あの馨しい炭火の薫りがしっかりとついた!!坊主それは嘘じゃないな、約束は違うなよ?!よおおおし儂頑張っちゃおうかなぁぁぁぁ!!」 大好物を目の前にすれば所詮は烏。ちょろいな、と俺はこっそりほくそ笑んだ。 ◆ 次の日、俺は部活を中抜けして再び第二音楽室へと向かった。引き戸を静かに開けて中を覗くと、やはりあの名無しの幽霊が埃をかぶったグランドピアノの前に座っていた。その背中は淋しげで、この幽霊はいつも、こんな風に日々を過ごしているのかと思うと、何だかこっちまで意気消沈してしまう。幽霊に気分を引き摺られるのも癪なので、俺は普段通りにするよう努めた。 「…ピアノ、今日は弾かねーの?」 俺が声を掛けると、幽霊は弾かれたように顔を上げた。 「君…」 「どーも」 俺は片手を上げて幽霊に応えた。幽霊は優しく目元を緩めた。 「やぁ、また来てくれたのだな。嬉しいよ」 「気分だよ、気分。ちょっと部活サボりたかっただけー」 「そうなのか、君はなんの部活をしているんだ?」 「君じゃなくて、『高尾』ね。バスケ部だよ」 いつまでも君と言われるのも煩わしいのでもう自分の名前は告げることにした。幽霊は頬を緩めた。 「高尾か、ふむ、高尾は嘘が下手だな」 この幽霊は何を言っているのかと、俺は暫し呆けてしまった。 「………は?」 「高尾は、俺を心配してここまで来てくれたのだろう」 「……なんで、俺がわざわざ…」 幽霊は微笑みはそのままに、鍵盤をひとつ弾いた。ぽーん…、と消えて行く音はやっぱり寂しげだ。 「高尾」 幽霊はピアノに目を向けたまま俺に言う。 「良かったら、俺のことは"先生"と呼んでくれ。名前は思い出せないが、記憶は残っていてな――俺は生前、この学校に勤めていたんだ」 「うはっ、自分で先生とか、言うなよ。…"先生"」 望まれた通りに呼んでみれば、先生は懐かしそうに破顔した。 先生は昨日以上に丁寧に自己紹介をしてくれた。部活を中抜けしているから長居は出来なかったけれど、先生についての大体のバックグラウンドは把握することができた。 この学校に音楽教諭として勤めていたこと。 気付いたら死んでいたから、おそらくは脳梗塞か何かで命を落としたこと。 身重の妻を残して他界してしまったこと。 多分、そのことが気掛かりで成仏出来ていないこと。 それから、第二音楽室のグランドピアノの側から離れることが出来ないこと。 いかにも地縛霊らしい状況だ。加えて、正気を保っているのに自分の名前がわからないことも含めると少々特殊なように思える。 そこまで話して、区切りが良かったので俺は部活に戻ることにした。そのことを先生に告げて汚ったない机から腰を上げる。第二音楽室は涼しくて過ごしやすいので、だから、ほんの少しだけ名残惜しい。先生は、また来てくれるのなら、と口を開いた。 「今度は、高尾のことを教えてくれ」 いつでもここにいるからと先生は小さく手を振った。生っ白い、ピアノを弾くのに適した大きな手のひらがひらひらと目の中に踊る。寂しいだろうに、この人は決して自己主張をしない。 そのいじらしい謙虚さに胸の中がふわっと浮き上がった気がした。 20130408 back |