不幸な唇 | ナノ


今日もしっかり野球部の練習を終え、なんだかんだで時刻はまもなく二十二時。俺は当然ながら真っ暗な道を帰った。秋も深まってきて、過ごしやすくなった。空気からは枯れ葉の落ち着いた薫りがした。

体がへろへろになっているから乗っている自転車もへろへろ揺れる。それでもやっと家に着いて、ただいま、なんて言いながらリビングの扉を開けた。そして瞬間、俺は硬直した。

――双子の妹二人がキスをしていたのだ。

海外のスキンシップだとしても唇と唇でのキスはやりすぎだ。そもそも他人のキスを目撃しても動揺するのだ。世界中どこを探したって平静を保って妹のキスの現場に立ち会える兄などいないと思う。

あ、おにいちゃんおかえりー。愛すべき妹たちは唇を離すとハモって言った。母の発するザーザーとキッチンから流れてくる水の音もおかえりと言っている。しかし硬直はまだとけない。双子の声の調子はいつも通りでおかしいな、俺は夢でも見ていたのだろうか。

んなわけあるかぁ!

「――お、まえら、何してんだよ」

あすかとはるかは顔を見合わせて、ぷっと笑いながら答えた。

「ちゅーの練習してたー」
「おにいちゃんびっくりしすぎー」

双子はけらけら笑う。俺は瞠目した。可愛い俺の妹たちは普段は俺の癒しなのだが、たまにとてつもない嵐を起こすことがある。今この瞬間、俺は嵐の到来をはっきりと感じた。

「あのなぁ、家族とはいえそういうことを軽々しくすんじゃねぇ!!」
「だってちゅーってどんなのかわからなかったんだもん」
「あすかも知らないっていうから試してみようと思ったんだもん」

一応双子の言い分も聞いてみると「ともだちのあつこちゃんがキスしたって言ってて気になった」…ということだった。なんてことしてくれたんだあつこちゃん。頼むから妹のためにも大人の階段はゆっくりのぼってくれ。

キリキリ、ガンガンと胃も頭も痛くなってきた。どうしてだ。どうして、俺は家に帰ってきたのに更に疲れているんだ。

「おにいちゃんはどーいうのか気にならないの、ちゅー」

あすかが小首を傾げて俺に尋ねた。

「練習してみたくないの、ちゅー」

はるかが小首を傾げて俺に尋ねた。

「…」

リビングにはキッチンから流れてくる食器と水の音だけが流れた。答えてたまるか、んな質問。だんまりを決め込んでいると、あすかが少し大人ぶったような言葉を使って更に尋ねてきた。

「おにいちゃんもしかして、もうケイケン済みなの?」
「えぇーホント!?」

兄妹の青春の薫り漂う非常にナイーブな会話に飛び込んで来たのは母だった。生憎彼女は――壊れやすいモノを壊したとき、元々壊れやすい性質だったことを責めるタイプの人間である。

母はキッチンでの洗い物を一旦やめて、リビングにやってきた。

「ちょっとおにいちゃん、いつの間に!!」
「だぁぁもぉぉぉうるせぇぇぇ!!話に入ってくんなよ!!てかお前はるかとあすかのこと絶対気付いてただろ!!止めろよ!!」
「彼女出来たの中三の時よねぇ?でもあの時はそんな感じしなかったしすぐ別れたみたいだしぃ…」
「人の話を聞けぇぇぇ」

半ば泣きそうになりながら(そりゃそうだ、親に彼女がいたことや交際の深さ長さを把握されていたら思春期男子は深く落ち込む)、唸ると母は思いもよらないことを言い出した。

「折角、梓のファーストキスちゃあんととっといたのに。あっさり散らせちゃったの?」
母の発言に、梓と呼ばれたことに噛みつけない程俺は呆けた。物心もつかないうちに奪われてしまったと思っていた物が実は侵されることなく保護されていた、だと――。俺は思わず唇に手をやっていた。反射的な行動だったが、妹たちはその行動を見てきょとんとした後に噴き出した。

「おにいちゃんもしかして、はじめてとか気にするタイプ〜?」
「あはは、絶っ対気にするよねぇ」
「るっせーな!!気にするかそんなもん!!」





「いや花井、オメーはどう考えても初めてとか、無茶苦茶気にするタイプだ」
「うぐぅ」

ベンチで部活で使うボールを一個一個磨きながら昨日の事件の愚痴をこぼしていると、阿部は表情などひとつも変えず断言した。

「で?中学時代に散らせちゃったのか」
「………まぁな」

随分と突っ込んだ質問だなぁと思いつつ答えると、ほぉと阿部は俺の目を真っ直ぐに見詰めてきた。高校になってからの一番の友人とは謂えど、このテの話には気恥ずかしさが残る。

「お前の妹たちはファーストキスとか気にしないんだな」
「え…あー、まぁ二人とも結構大雑把な性格してっからな…はは…」

弟一人しかいない阿部には妹がやることは未知のことなのだろう。そこのところだけは不思議そうな顔をしていた。まぁ…キスをかます妹なんてウチの妹くらいだが。

「ふーん、そういうもんか」
「…」

話題が妹のことに移っても、阿部は探るような目付きでちらりと俺を見てきた。その視線は一瞬でも見透かされているような錯覚さえして居心地悪く、俺は避けるように俯くとボール磨きに意識を集中させた。

阿部もボール磨きに集中しはじめたようで、お互い無言で手だけを動かした。埃っぽい空気を作ってボールは綺麗になっていく。全てのボールが磨かれ入れ物一杯になると、ふぅと二人でため息をついた。

ボールの入ったバックを手に、阿部はベンチから立ち上がった。重いものだから自分が持ってやろうと考えていると、阿部に話しかけられた。

「なぁ花井」
「ん?」

顔を上げると、阿部の真っ黒な瞳が、眼前に迫っていた。





田島はすぅと息を吸い込むと、肺が軋むほど叫んだ。

「――ッ阿部のバカぁぁぁぁぁぁ!!」

まさに絶叫だ。田島の正面の畳に胡座をかいて座っていた花井は空気がびりびりと震えるのを感じた。田島も自分と同じく胡座をかいて座っているのに、立っている時と声量が変わらない、いやもっと大きい。これだけ大きな声を出したら、田島の部屋の外にも聞こえてしまうだろうに、田島家では常なのか田島の咆哮に駆けつける者はいなかった。寒い中部屋から出るのが嫌だったのかもしれない。

「スカポンタン!!おたんこナス!!うんこ!!もぉぉぉバカぁぁぁぁぁぁ!!」

田島は自分が言えるだけ悪態をつきまくっている。また、苛立ちをこめて両手で自分の足首をギリギリと握り締めていた。

ちょっと前まではこんな雰囲気じゃなかったのになぁ。花井は嘘をつくのが下手な自分を呪った。

さっき、この部屋で花井と田島は付き合って初めてキスをした。軽く触れ合った唇が離れた後、田島が照れ臭そうな顔をして、「花井も今のちゅー、はじめて?」と花井の顔を覗き込んだ。その時につい、花井はふいっと目を逸らしてしまったのだ。

初めてのキスではないとバレるのには一秒もかからなかった。否、嘘をつく前にバレた。花井は洗いざらいファーストキスについて吐かされた。

そう、彼女がいたことこそあれど、花井は高校一年の秋、阿部に奪われるまでファーストキスを大切に保護できていたのだ。阿部は花井がキスの経験があると偽っていることに簡単に気付き、面白がって花井にキスしたのだった。どう考えてもショックを受けた花井の反応見たさだろう。そして目的は果たされた訳だが。

しかし、阿部の気まぐれともとれる行動は花井に恋愛感情をがっつり抱いている田島には洒落じゃ済まない事件だった。

「なぁなぁ阿部って花井が好きなの?どうなの!?」
「アイツは別に俺を好きな訳じゃ…」
「好きじゃなけりゃキスするワケないじゃんっ!!」

花井が言い切らぬうちに田島はぎゃんぎゃん騒いだ。人の話聞く気ねぇじゃんコイツ。

「…阿部は嫌がらせで友達にキス出来る奴だぞ」

もう色々と諦めがついている花井が諭すように言うと、田島は花井の顔をじっと見てきたが…その目からは、堰を切ったようにぼたぼたと涙が溢れ落ちていた。

「ひくっ」

えええええ…。

「泣くなよ…」
「泣くさ、ひくっ、泣くよ!!」

大粒の涙を惜しみなく溢しながら、でも田島はキャンキャン吠える。

「そりゃー花井は、っく、女子と付き合ったことあると思うし、ひくっ、ちょびーっと覚悟はしてたよ?でも……初ちゅーの相手が阿部ぇ!?そんなん花井に捧げた俺の唇が報われねぇっ」
「いやいや、報われねぇのは俺だよ…洒落でキスされたんだぞ…」

そんでもってファーストキスが恋愛感情を持ってない同性に奪われたんだぞ。俺の唇のがよっぽど報われねぇし浮かばれねぇよ。花井はがっくりとうなだれた。

田島が座っている畳の手前には丸い透明な滴が作った染みがじわりと広がっている。自分が悪い訳ではないけれど、花井はちくりとした小さな罪悪感を覚えた。中々止まらない涙をぐしぐしと拭うと田島は――いきなり花井に飛び付いた。

「うわっ!?」

田島の行動に予想などつかず、花井は思いっきり後ろに倒れた。まともな受け身も取れず、そのままダンっと強かに畳に背中を打ち付けた。

「いっ…てぇ……。突然なんなんだよ、田島!」
「……、しよ」
「え、?」

田島の掠れた低い声にどきりとして、花井は動きを止めた。田島は四つん這いになって花井に覆い被さっていた。

「いっぱいキスしよ、花井。最初のは貰えなかったけど、いい。数で勝ってやる」

田島の目はいつになく真剣で、恥ずかしげもなくそう言った。花井は田島のその表情に呑まれ、何も言うことが出来なかった。

が。

「あ、でも花井との初エッチ、童貞か処女はゲンミツに貰」

花井は田島のこめかみをぶん殴って、ついでに続く言葉を塞ぐように田島の唇に噛みついた。


不幸な唇




20120905

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